Monthly Archives: March 2020

[:ja]kosaten magazine28 『苦しみ6』 苦しい苦しい苦しいと、 ただただ泣き叫べば良い。 誰も叫んでないからといって関係ない。 どんなに拙くても、 どんなに醜くくても、 居場所を無くしても、 社会的な成功は得られなくても、 叫びたいように叫べば良い。 綺麗事をいって、 自分らしく生きるんだと言ってカッコつけてる奴らなんか気にせず、 お前は堂々と泣き叫べば良い。 答えは出る。 俺は世間の奴らが言うことが、 表現することが、 詰まらない、物足りないと感じるのは、 所詮人間なんていくつかのパターンに当てはまってしまうから、 そのパターンを大体想定できてしまえば、 そんなに驚くような、 胸を打つような、 何か目の前の現実が変わっていくような、 本当にカタルシスを感じる希望のような表現がないのは、 当たり前だと思っていた。 でもやっぱり違う気がする。 物足りないと感じるのは、 単にそいつらがそれだけの奴らだった、ってことなだけな気がする。 だから俺は思いっきり叫んでしまおうと思う。 ちょっと論理的に言葉を並べ過ぎちまった。。。 ただ苦しい苦しい苦しい、と。 いやもっと純粋に相手を罵るような汚い言葉を並べて大声で叫べば良い。 ただただただただ純粋に、 上手く声にならなくても、 思いっきり遠慮せず、 もはや…のように、 というようにロックスターを例えに持ち出さずに、 ただただ純粋に泣き叫べばいい。 怒ればいい。 そうすれば答えは出る。 問題は解決する。 また、一つ、自分を許してしまった。 また、一つ、自分を解放してしまった。 また、一つ、自分を自由にしてしまった。 清々しい。 抱き合おう。 僕らは抱き合おう。 思いっきり笑い合おう。 そして僕に世界に旅へ出るための、 航空チケットを下さい。 (2020.03.02)[:]

[:ja]kosaten magazine 27 『気づき』 「成功者の言葉は信じなくて良い。 無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれないがそんなものは要らない。」 (『終わり〜然るべき場所』より) 「無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれない」 だと…。 それが人生に無駄なものはない、 ということなのか…。 (2020.03.01)[:]

[:ja]kosaten magazine 26 「終わり〜然るべき場所」 やった。 ここまではやった。 無駄な努力だった。 成し遂げるつもりだった。 でも、 もう駄目だ。 本当にやりたいこと、 行きたいところに行って、 幸せになりたい。 幸せを掴む握力を、 鍛えることができたのだろうか? それよりも僕は実績が欲しかった。 そして、 色んな出会いや体験がしたかった。 どうせ苦しむなら、 もっと絵になるような苦しみを味わいたかった。 視力矯正の不具合なんて寂し過ぎる。 余りにも不毛。 泣き叫んだり共感を得る権利さえ与えられていない。 無駄な努力。 世の中にはそんなものもある。 成功者の言葉は信じなくて良い。 無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれないがそんなものは要らない。 俺はもう楽しみたいだけだ。 俺の話を聴いてくれ、 そして楽な道へと導いてくれ、 そう叫びたい、 願いたいだけだ。 また、 あの風景を想い浮かべてしまった。 ハワイのオアフ島、 カイルアの街にあるカイルアビーチ。 ビーチから観える青い景色の向こう、 先の世界。 俺の想像力はそこで終わっている。 想像…しようとは思わない。 例え今まで観た映画の世界を使って 先の世界を想像したとしても、 現実よりは遥かにつまらないだろう。 俺は仮想現実や、 脳の力を、それほど期待していない。 現実に関するどんな議論が繰り広げられたとしても、 俺はその先の世界に実際に足を踏み入れたい。 記憶を植え付けられたら抗えないかもしれない。 けれど俺がカイルアビーチまで行った記憶がリアルかどうか、 議論をしたいとは思わない (何が現実か、対話をするのは構いませんが…)。 俺はマトリックスの世界に憧れていた。 どこかでサイファーのような気持ちがありながら、 やっぱりネオのように真実を求めてしまうのだろう。 暖かく、柔らかく、安らかな毛布の中で。 結局オレはこんな具合の思考を巡らせて堂々巡りの思考に逃避してしまう。 具体的な手続きが必要だ。 超、具体的な、手続きが。 法律を作成するための具体的な手続きや活動が。 世界中を旅するための飛行機の便のチェックと予約と先立つ準備のアレコレが。 …… このまま遠くへ行けるのだろうか。 だったらこのままここに留まっていたい。 芸術なんて、 アウトプットなんてタネが分かればタカが知れている。 それでも真剣に成果物に向き合うのが批評なのか。 もう分からないんだ。 分かっているが、 分からないんだ。 でも、この先にある。 行きたかった、望んでいた世界は、 きっとこの先にある。 確実にそこに近づいている。 心と身体が、 それを教えてくれている。 (2020.03.01)[:]

[:ja]kosaten magazine 25 『然るべき場所』 然るべき場所へ行きたい。 僕が尊重できて、 僕が尊重されて、 僕が本気を出せる、 然るべき場所へ。 どこに行っても物足りない。 どこにも行っても自信が持てない。 退屈で、暇つぶしのように、 どうでも良い場所へ足を運んでしまう。 然るべき場所での顔ぶれはもう頭に浮かんでいる。 もう出会ったことのある人ばかり。 けれど、 話をしたことがない。 昔は僕は、自分をさらけ出せなかった。 まだ、さらけ出せる自分ではなかった。 それがとても悔しい。 まるで意味がなかった。 僕はきっともっと社会と対峙して良かった。 あの頃のまま、 今のまま、 もっと叫んでも良かった…はずだ。 僕は歌える気がする。 僕はいつだって歌う準備ができている。 舞台だってきちんと用意されている。 自分の壁は自分自身だなんて言葉は 身体の不具合の前には消滅してしまうけれど 歌うときには やはりカッコつけていたいけれど だから誰も醜態を晒さない。 少なくとも僕にはそう思える。 でも僕は、 僕は歌える気がする。 僕はいつだって歌う準備ができている。 舞台だってきちんと用意されている。 そして僕は、 然るべき人たちのいる、 然るべき場所へ行ける。 (2020.02.29)[:]

[:ja]kosaten magazine30 『嫉妬』 宇野常寛さんの『リトルピープルの時代』の表紙が、 もし、 仮面ライダー旧1号ではなく、 快傑ズバットかキカイダーだったら、 僕は嫉妬に狂っていただろう。 [:]

[:ja]kosaten magazine29 『直感』 直感に従ったら孤立してしまう。 だから僕は直感を疑った。 それでも直感を正しいと信じている。[:]

[:ja]kosaten magazine 23 『怒り』 小さな怒りかもしれない。 憤りという言葉に置き換えられるかもしれない。 少なからず、 最近、 よく人に言われることで、 腹が立っていることがある。 怒りを表現してはいけないと思っている人がいる、 と、よく言われることがある。 僕は、 怒りを表現できる人だと思っていた。 でも、 押し殺しているのかもしれない。 謙虚で素直な気持ちで、 相手を気遣っているんだと、 無意識に言い聞かせている気がする。 窮屈だ。 毎日が息苦しい。 怒りを表現すれば、 自分の歌を歌ってしまえば、 全ての問題は解決する。 そんなことは昔から、 分かっているのに、 縮こまっている僕がいる。 もうこんな暇つぶしで憂さ晴らしの文章は書きたくない。 書き続けたくない。 理想の自分は、 こんな文章を書くような惰性の毎日を送っているだろうか。 充実したい。 心の底から、 笑い合いたい。 本当の想いを叫びたい。 (2020.02.22)[:]

[:ja]kosaten magazine 24 『微睡み』 一言目から抑制している。 良い子ぶること前提に、 今、この苦しみを書き留めようとしている。 もう少しだ、もう少し。 この凡庸に嫌気がさしたら、 思う存分叫べるはずだ。 歌を歌えば解決する。 問題は全て解決してしまう。 頭に、 これまで観聴きしたロックスター達が、 頭をよぎる。 でも、そんなんじゃ物足りない。 地下の溜まり場に、 集い、交わされる何か… 暖かくもあり、怪しくもあり、 だらしくなく、 そして意識は微睡みの中のような… このまま堕ちていきたい… この凡庸さに嫌気がさしたら、 思う存分叫べるはずだ。 そしたら全ては解決する。 解決してしまう。 何て開放的な気分なんだろう。 こんな奇跡が訪れるなんて。 分かっていたはずだ。 全て分かっていた。 微睡みの中、沈んでいきたい。 その権利が僕にはある。 その資産が、僕には充分にある。 どこかにかしこまって出掛ける必要もない。 僕の居場所はきっとある。 だからもう叫んでしまおう。 この抑制された、 良い子ぶった空間からは、 もうおさらばだ。 良かったね、 良かった、 と、 微笑んでくれるあの娘が見える。 そう、 本当に良かったと思える。 ここだったんだ。 僕が求めていたのは、 楽になれるのは、 幸せになれるのは、 幸せにできるのは、 ここだったんだ。 だから、 本当に良かった。 楽しいことばかり、 幸せなことばかりだ。 再びこれまで観聴きしたロックスターが頭をよぎる。 というよりジミ・ヘンドリックスの顔が頭に浮かぶ。 意味はない。 僕のこのせっかくだらしなく気持ち良くなっている気分を加速させてくれるだけだ。 それはとてもありがたい。 このまま沈んで行こう。 そしたら超絶技巧のテクが手に入るかもしれない。 きちんとした生活はもうどうでも良い。 一度くらい、 存分に堕ちてみたい。 もう少し…。 もう少しで幸せになれる。 僕はまだ、 ロックの本当の素晴らしさを知らない。 本当の始まり。 良かった。 これでやっと、 幸せになれる。 意味はない。 尊敬もされない。 でも、これで良かったんだ。 筆を取ってアウトプットするのはオマケに過ぎない。 きちんとし過ぎている。 だからこれでいい。 これで良いんだ。 とても気持ちが良い気分だ。 きっと、初めての気分だ。 色んな人を救える気がする。 本当に良かった。 本当に僕が求めていた世界がここにあった。 本当に良かった。 (2020.02.25)[:]

[:ja]『揚げ物好きが高じて』 食べることが好きです。 肉や魚、野菜、豆類、卵、お菓子も含めて、 食べることが大好きです。 好きな食べ物や料理を挙げればキリがありませんが、 特に辞められないのが揚げ物、 特に春巻きです。 自分で作ることは余りありませんが、 スーパーやお弁当さん、ショッピングセンターの惣菜を始め、コンビニや冷凍食品も含めて、毎日買って家で食べています。 その食べ方も長年の間に色々と変化してきました。 まず何よりもトースターでコンガリと焼くことです。 惣菜として売られた状態ではパリパリ感が物足りないので、 僕は必ずトースターでコンガリと焦げ目ができるまで焼いてから食べることにしています。 このトースターで揚げ物を焼いている時は僕にとって至福の時間なので、 表面が焦げてしまわないように春巻きにアルミを被せつつ、10分以上、時には20分ほど、 もうそれ以上焼いてもコンガリ具合は変わらなくても焼き続けることがあります。 トースターでコンガリさせながら、 そのトースターの音をBGMにストレッチをしたり、 腕立て伏せをして、 美味しく食べれる身体の状態を整えています。 コンガリと焼いた春巻きをお皿に取り出す瞬間は溜まりません。 肉料理や魚料理を始め色んな料理が好きだし、 揚げ物もクリームコロッケ、エビフライ、カキフライ、串カツ、トンカツ(特に卵とじの、いわゆるカツ丼の上)、天ぷら類も好きなのですが、 毎日食べたくなってしまうほどの中毒性があるのは、 今のところ春巻きだけです。 春巻きの食べ方についてですが、 春巻き単体で食べ続けることは少ないです。 春巻きと同じくらい好物である生卵に千切りキャベツをつけて一緒に食べるのが主な食べ方です。 春巻きだけでなく、 揚げ物だけではなく、 大体の料理を僕は千切りキャベツと生卵の組み合わせと一緒に食べます。 多くの人が肉や魚を食べる時に一緒に白いご飯を食べるのと同じような感覚なのかもしれません。 最初の一口に食べるのはやはりコンガリ焼いた春巻きなのですが、 コンガリ焼いた春巻きを食べるパリッとした最初の一口は溜まりません。 しかしその食べ方も、段々変化してきました。 春巻きを食べ続けていくうちに、 春巻きの皮だけを食べたくなることが多いことに気づき始めました。 特に冷凍の春巻きの場合、 中身の具材がそれほど美味しいとは言えないこともあり、中身を出して皮と具材を分けてトースターで焼いて食べるようになりました。 そのようにして食べるとコンガリ焼いたパリパリの皮の食感や味だけを味わえるので、 とても幸せな気持ちになれます。 中身の具材も普通に焼いただけではそれほど美味しくなくても具材だけ出してコンガリさせると、それなりに美味しく食べることができます。 そんな調子で揚げ物が好きというよりも、 春巻きなら揚げた皮、他の揚げ物なら揚げ衣の部分への食欲が増していきました。 そのため、 エビフライ、カキフライ、串カツ、トンカツなどのしっかりした素材を揚げた料理だけでなく、 チーズパイやオンオンリングなど、 具材感が弱い、ほぼコンガリ焼いた生地や衣で覆われた部分で構成されている料理も好むようになってきました。 春巻きの皮、チーズパイ、オニオンリング、など 複数の揚げ物料理の揚げた部分を一度に口に含んでバリボリさせて食べる瞬間は溜まりません。 もちろん、 それらも千切りキャベツin生卵と一緒に食べます。 まだ、 油の塊である揚げ玉やかた焼きそばの麺だけを食べるという領域には達していないのですが、 それも時間の問題かもしれません。 揚げ物好きが高じて、 この先ぼくの欲望はどこに向かっていくのか、 今からとても楽しみです。 (2020.02.01)[:]

[:ja]『動画撮影の日々』 毎日、 動画撮影をして、 YouTubeで発信できる環境を整えたい。 自分の経験や考えや、 好きなことや日常の風景や、 誰かと対話している場面を、 映像に撮って表現していきたい。 そう思いながら、 もう、 だいぶ長い時間が経っている。 そう思いながら、 毎日、そのような環境を整えられず、 悶々と過ごしている。 自宅で撮れば良いじゃないか、 という声もあるが、 僕は今住んでいる世田谷区にある実家が余り好きになれず、 どうしても動画を撮影しようという気持ちになれない。 動画だけでなく、 僕は今の自宅にいて作業をするのが苦手だ。 そのような事情で、 今はkosatenメンバーのあるお方にお願いして、だいたい週に一回、 kosatenが開いている時間の数十分をお借りして、撮影を手伝ってもらっている。 でも、 やはりそれではもう物足りない。 もう、 「出したいっ!」 という想いが日に日に強くなってきている。 どこでも撮れるはずなのに、 一人でも撮れるはずなのに、 何でも出していいはずなのに…。 毎日、動画撮影をして自分を表現して、 世界に発信している日常を想像する。 世界とつながっていること。 それは、 とても素晴らしいことのように思える。 その日常は、 とても充実したもののように思える。 僕は、 本当に、 世界中のいろんな人たちとコミュニケーションがしたい。 もっと気軽に、 そして、本気で、 お互いを尊重し合ったり、 ぶつけ合ってみたい。 恋愛… というものもしてみたい… 幸せな道を、 歩んでいけたらと思う。 (2020.02.18)[:]

[:ja]『苦しみ5』 苦しい。 今の状況が苦しい。 視力矯正の不具合による視界の歪みや頭痛や違和感、それらにより、 やりたいことがやれない、 行きたいところに行けないのが苦しい。 暖かいところに行きたい。 でも、行けない。 相変わらず実家のリビングで食事をしながら、 そんなに眺めが良いわけではない景色を、 ボンヤリと眺めている。 ボンヤリと食べている。 苦しい、と身近な人に頻繁にLINEしてしまっている。 身近な人といっても心の支えになっているわけではない。 家族という存在。 それよりも僕は心の支えが欲しい。 僕はとてつもなく弱い。 最近、少しずつではあるが、 動画を撮り始めている。 けれど、 動画ではネガティブなことは余り言えない。 だから、ここで、 kosaten magazineで吐き出している。 人目を気にしながら。 いずれにしても最低だ。 叫んでしまえばどんなに気持ちが晴れるだろう。 どんなに心が解放されるだろう。 ああ、、、気持ちいい…。。。 僕が叫べば世界が凍りつく。 そんなことを詩にした詩人がいたような気がする。 凡庸だ。 後悔ばかりだ。 叫んでしまえばどんなに気持ちが晴れるだろう。 どんなに心が解放されるだろう。 ああ、気持ちいい。 天国だ。 人生で4度目の感動だ。 幸せだ。 (2020.02.13)[:]

[:ja]オマージュ桜の森の満開の下 作:カンダタ 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子を食べて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖しい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児をを人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり、見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)と いう話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。 「坂口安吾・桜の森の満開の下より」 多吉は親の顔を知らない 多吉は学問を知らない 多吉は眠りを知らない 多吉は女を知らない ただピッキングのやり方は知っていた 都市周辺郊外に建てられた高級マンションの一室の扉を電子ピッキングした 何故その部屋に目星をつけたかは子供の頃から薄気味悪いと毛嫌いしていた桜の木の影になる部屋だったから もう十年そうやって盗んだ金で凌いでいる 「こ、こ、今晩は金持ちの部屋か、つ、ついている」 部屋に入ると骨董価値ありそうなアンティークな家具 大型プロジェクターTV最新家電 膨大な量のクラシックのレコード 昆虫の蛾の標本が飾ってあった 「お、男の部屋か?女か?のっぺらぼうみてえな部屋だな、気味が悪い、寒気がする」 多吉は金目な物を物色しようとしてはたと気が付いた アンティークの家具の横に一体の球体関節人形が置いてあった 「き、綺麗だ今晩は此れを持って帰るとしよう」 球体関節人形は最初に震えそれから音声が流れた 球体関節人形は近頃独身男性向けに発売された セクサロイドだった 「お、お前喋れるのか、な、名前はあるのか?」 「ワタしハヒビヒビ アア、イやダ、オブッテオクレよ」 桜の森の満開の下、人形を 抱えた大きな影が夜の帳に消えて行った 多吉は嫌いだった桜が好きになった 「さ、桜は、つ、ついている」 其れから幾晩か過ぎた 「アア、イヤダ、ワタシハオマエニヌスマレタカラ不自由な生活をシテイル」 「お、お前が欲しがる物はなんでも盗んできてやったじゃねぇか」 「オマエハ、無学で田舎者ダカラ都会の女ノ暮らしガ分かカラナイ わタシはBABy,のべべが欲しい」 「わ、わかった今晩お前もこい望む洋服を盗んで来てやる」 桜の森の満開の下の夜 何軒かピッキングで入った部屋は女の部屋だった 「お、お前の望む洋服はこれか?」 「コンナべべデハナイ、お前はナサケナイな」 ピッキングで不手際をしたことのない多吉だったが 人形を連れてきたことで 隙があった部屋の住人の女が帰って来たのを気が付かなかった 「ひいい!泥棒!!!」 「ひ、ひびひびまずい」 「その女のべべが欲シイ」 「ひ、ひびひび逃げるぞ」 「ソノ女殺シナ」 「お、俺は殺しはしない!」 「後生だから助けて!」 「イイカラ殺しナ」 ……………………………………………………………………………… 桜の森の満開の下に人形をおぶった影があった 多吉は人形が恐ろしくなった おぶった人形を投げ出したくなったが 人形が自分で自分が人形になったように混合していた おぶった人形が重くなった気がした 人形はひびひびではなかった 人形は鬼だった 多吉は鬼を振り払い鬼の首を絞めた汗が流れた そして気がつくと横たわっていたのは 桜の花びらに埋もれたひびひびの残骸だった 多吉は産まれて初めて泣いた 多吉はひびひびの顔の上の花びらをとってやろうとすると多吉の手の下には降り積もった花びらばかりで人形の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていた そしてその花びらを掻き分けようとした多吉の手も多吉の身体も伸ばした時にはもはや消えていた。 あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりだった。[:]

[:ja] 最近、つくづく思うこと(オムニバス) 今の人類(少なくとも日本に住んでる人)の 最大の敵は孤独や寂しさだと思います 冒頭から蛇足ですが 最近2.5次元という言葉をよく聞きます 2.5次元のあくまでも僕の解釈は 悪い例えで申し訳ないですが 二次元がアニメやそのキャラクターだとして 三次元が現実や人間で 2.5次元は三次元の人間と 二次元のキャラクターとの 境が無くなってる状態だと勝手に思っています (決して否定はしてないです 気分悪くさせたらごめんなさい) 僕が言いたいのは孤独をかなり減らせるのは お互いがお互いの一番の理解者の存在 だと思います そういう人がいれば周りが全部敵でも 砂漠に咲く一輪の花のように きみは間違っていない、応援している と言ってくれたり アドバイスしてくれたりするからです もちろん自分もその人に同じことをして お互いいい関係になれたら 自分は一人じゃないと思えて 孤独や寂しさがグッと減ると思います 僕は自分に自信がありません でも「人間が大好き」です 人に傷つけられることもあるけど やはり人に「期待」をします また「自信というものはそもそも根拠がない」 ので勝手に自信を持つように心がけています 僕もいい歳ですので いい加減「自分の人生に慣れたい」です 僕は 「人間は他人に迷惑をかける為に生きている」 と思っています 例えば、赤ちゃんは世話をされながら 相手に愛を与えています そういう風に「迷惑をお互いかけながら お互いを認め合っている状態」 が、理想の関係だと思います そこには信頼関係があるからです また「信頼関係とは言葉じゃなくて 行動で築くもの」だと思います 人間は誰でも「闇」を抱えています マザーテレサの死後マザーテレサの「闇」を マザーテレサがインドの大司教などに 送ってた手紙が一般公開されました そこにはマザーテレサの とてつもない「闇」が書いてありました 僕は「「光」と「闇」が一緒に存在しているのが 人間として当たり前で、重要なのは その格差(振り幅)が振り子のように 幅があればある程、その人の人間性や人生に 「深み」や「味」が出る、また 「人生の醍醐味」を沢山味わえると思います 「人生の醍醐味」を沢山味わうと 自分が死ぬ時に「私は精一杯生きたぞ!」と 自分に胸を張って死ねると思います それでこそ「生まれてきた甲斐があった」 って物だと思います 僕はそういう人が大好きです 最近、凄くハードな日々を過ごして やっとお休みの夜、夢を見ました 夢の中で、僕が陸上部の部長をやってて 他の部員が言うこと聞かなくて 何回も部長やったの後悔して ある大きなことを達成する為に 半ば強制的に部員を集めて、何回も失敗して 僕も何回も失敗して、最後にその大きなことを 達成する最低限必要な人数が集まって ついに成功した瞬間僕は大泣きして 目が覚めたら現実でも泣いていました とても象徴的な夢でした 僕は「言葉に責任を持つべき」 だと思っています。よく、僕は相手に対して 僕は言葉に重点を置いていますと 自分から伝えたり、相手もたまに Y.Fさんは言葉を重要視しているんですね と、言われたりしますが そもそも論で言葉に重点を置くのが 常識だと僕は思います。でも 言葉をなあなあにして、後は察してねという 考えが多く、言葉を重要視するのが マイノリティのような気がします 言葉に責任を持つというのは 例えば僕が以前、ある所で他の人ともめた時 その人の話だけ聞いたスタッフから 「あなた王様ですか?」と言われました 僕は物凄い怒りと深い心の傷を負いました あのセリフは一生忘れられません しかし、その後同じ所で、僕がまた 違う人ともめた時、そのスタッフに伝えたら 自分は両方の言いぶんを聞くようにしている と、言われました もめた人は覚えてないの一点張りでした まあ、社交辞令嫌いのたわ言だと 思ってください 僕は今、あることを練習していますが 一緒にやる先輩から 少し難しい課題をもらいました 僕は笑いながら 「先輩、これは難しいですね〜」と言ったら 先輩が 「大丈夫、出来ない人には言わないから」 と、言ってくれた瞬間、僕は一瞬固まりました そりゃ頑張らなければならなくなったし モチベーションが物凄く上がりました笑 未熟な僕としてはこういう風に 言葉を使えるようになりたいものです [:]

[:ja]このブッククラブで、いつかチェーホフを読んでみたいと思っていました。チェーホフは「偉大な巨匠」というような作家ではないかもしれないけれども、しかしかれほど透徹した視線で人間を観察した人もいないのではないかと思います。わたしがロシア文学に足を踏み入れたきっかけは、やはりあの「偉大な」ドストエフスキーたちでしたが、その後折々にチェーホフを人に勧められてかれの作品と出会い、最初のとっつきづらささえ越えてしまえば、すでにチェーホフがお気に入りの、いや、かけがえのない作家になっていることに気づくのでした。 このとっつきづらさを、チェーホフを初めて読んだ人は感じたのではないでしょうか。それはおそらく、チェーホフの物語が、「大(だい)文学」にしてはあまりにささやかであるというところに一つの原因があると思います。チェーホフの世界は、あの華麗にして壮大なトルストイの世界や負のエネルギーに満ちたドストエフスキーの世界と比べ、あまりにささやかであり、透明であり、うかうかしていると横を通り過ぎてしまいかねないような、そんないわば身体の周囲5メートルほどの世界です。しかしちっぽけなこの「わたくし」にしてみれば、身体の周囲5メートル以内で起きるものごとを除いて、切実なことなどいったいあるでしょうか。 ところで、ささやかで小さな世界といえば、日本には「私小説」というジャンルがあります。しかしチェーホフの場合、「私小説」とも言えない気がします。そこには奇妙なほど「私」が欠けているからです。しかしそれがチェーホフのすぐれているところでもあって、つまりかれは我を通さない、ある一つの価値観によって他者を断じないのですね。──あまりにささやかで、うっかりしていると見過ごしてしまうような「誰か」の世界。大きな物語からこぼれ落ちたみすぼらしい人間たち、生活の中で未来を夢見ることを忘れてしまいながら、それでもなお生きることを諦めきれない人間たち。そこにはいつも、なおもこのどうしようもない世界を生きつづける「わたしたち」の姿があります。 そして、ささやかで見過ごされてきた世界…と考えたときに、チェーホフの作品、特に戯曲では、つねに女性が中心にいることに考えいたります。「かもめ」のニーナ。「ワーニャおじさん」のソーニャ。「三人姉妹」の姉妹たち。「桜の園」の母子。どの劇を観ても、最後に印象に残るのは女性たちの姿です。男性作家が女性を描く際には、つねに権力関係が潜んでしまうものであるとはいえ、チェーホフの場合、その「わたくし」の無さのおかげでしょうか、そうした副作用が最小限に抑えられているような気もします。声高に権利を主張するというのではないけれども、チェーホフの世界では女性が女性として、たしかに生きていて、チェーホフ最後の短篇である「いいなづけ(Nevesta)」の結末などを見れば、チェーホフはたしかにフェミニストなのだ、と納得できる気さえするのです。 そんなわけで、わたしにとってチェーホフはいつだって「わたしの作家」「私たちの作家」…現代的な作家であり続けていて、今回ブッククラブでチェーホフについてみなさんと話すことができたのは、わたしにとってとても嬉しいことでした。『三人姉妹』について、たとえば登場人物の徹底的なまでの受動性──自分から状況を変えようとするでもなく、生々しい現実を前に絶望してしまいながら、ただひたすらに漠然とした「明るい未来=モスクワ」に希望を託して死んでゆく態度──をめぐって、またディスコミュニケーションの問題──劇のなかでは自己完結した独り言が次々に浮かんでは消えてゆきます──をめぐって対話しながら、ますますわたしにはチェーホフが私たちの作家だ、と確信された気がします。 ディスコミュニケーションのあり方は、私たちがツイッターで目にする光景そのものです。そして明るい未来の象徴たるモスクワを決定的に失い呆然として立ち尽くす幕切れ──そこに立ち尽くす三人の姉妹の姿が、どうして私たちそのものでないと言えるでしょうか。私たちのこれからも、きっと「モスクワ」を失った、その地点からしかスタートしないのだと思います。しかしながら、わたしはこの結末に明るさもまた見たいとおもいます。つまり『三人姉妹』の結論は、すべてが終わった地点からもう一度スタートすること、「何のために生きているのか」それを分かりたいと希求しながら、なお生きることを諦めないこと…にあると思うのです。私たちもまた三人姉妹なのだと、お話をしながら静かに思ったブッククラブでした。 (工藤順) [:]

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