(日本語) Being(Between)

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Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. Being(Between) 私とあなたの間に何が存在するでしょうか?ただの空気としてとられるのですが、実はほんの少しの隙間でも大海原になり、越えられない壁でもあります。自分自身の価値でその隙間を埋め込むという要求も逆にその空間を拡大してしまう効果もあり、何かのスタンダードがあるという妄想も社会によって構築された障碍を生み出してしまいます。他者の目を通してみるという想像力が足りなければ、障壁が自然に形成されます。   一方、このズレは創造力と可能性の空間でもあるので慌てて埋めようとする必要がないのですが、ギャップの存在自体を認識し、その間に衝突とシンクロニシティのねじれた線を織り込むことが重要です。親近感とウンハイムリッヒ(不気味さ)の間で振動することで個人として新しい基盤、新しい居住環境がみつけられます。知らないものを遭遇すること、今まで見えていない観点を垣間見ること、植民地化して、消費するのではなく、尊重し観察し、対話すれば異物と自分の摩擦は知恵とラーニングの会得につながるでしょう。   差異があることによって私たちのそれぞれの存在が可能になります。「その間にある空間」によって私たちが作りあげられ、形になるのですが、その空間が測られたり、カテゴリー化されたり、その任意の価値によって私たちにラベルをはられることもあります。人それぞれの異なるニーズもあるし、それぞれの関心とスキルが無数の道として広がっているのに、社会的構造はこのみちを無理やり狭い回路に収束させようとしています。結果として多くの人が何かの壁を感じています。しかしそれは私たちの中の限界ではなく、私たち周りの世界の制限です。   Being(Between) Being(Between) はさまざまな異なる背景や経験を持つ方との支え合いのネットワークであり、信頼性、リスペクト、コミュニケーション、個人のニーズと、それぞれの異なる事情を認めることを通して私たちの間にある空間を渡れる繋がりを育み、私たちのありのままで居られる、これからなりたい自分への道に踏み出す勇気を一緒に作り出します。   日本語で言えば「ケア」は福祉、支援を提供する側、支援を受ける側をはっきりわけて、何かの上下関係を提唱する言葉になっていますが、それよりもより幅広い意味があります。何かに関心を持つこと、何かに不安を持つこと、何か気になることという意味もあります。誰でもケアが必要で、人生はサポートを受けながら知らないことに向き合うことと言えるのでしょう。   感情労働においてケアは歴史的に性別分業されて、「家庭」という領域に置かれて、無償であまり価値を持つ労働とされてこなかったのですが、現在はますますビジネスとして民間化され、アウトソースされているものになっています。しかしケアが規制されることで、根本的に重荷や「非生産性」としてケアを認識している実用主義によって決められている分類化の中でそれがさらに階層化され分離されます。   ケアがピンポイントされることとつれて隔絶されることも起こっています。例えば子ども、障碍を持つ方、高齢者、ある種のケアを必要としているグループが特定な場に割り当てられます。また難民、ホームレスである方、DVの被害者、ひきこもりの状況である方、NEET、移住労働者など(カテゴリー化してしまうこと自体もよろしくないのですが)、自分のニーズがマイノリティ性を持つとされている人は自分のニーズに対応してくれる、数が少ない場所を探すことで見えない存在であると感じさせられています。   私たちのそれぞれの居場所、心地よい場所、所属感がある場所、安全で避難できる場所を確保するのがとても大切だと同時に、私たちを固定させ、選別する構造から脱臼させることも重要です。それぞれの人を絡み合うケアと感心事の横断面を作りつつ、私たちのケアが相互接続し、お互いに切り離すことができない状況であること、またお互いの人生をより豊かにするためにどのようにともに「居られる」かということに対して意識を高めていきたいと思います。   ケアは一点で集まると他のところに届けないでしょう。ある場所があまりにも快適だと他の場所に行く特は不安になります。社会はあるグループのラベルをはることでそのグループのウェルフェアに対する責任を隔離し、個人の多様なニーズを上下関係になり、制限がある「枠」に当てはまれ、その結果としてケアの空間的な分節が起こります。   さまざまな点をつなげる行き来する線、ネットワークとしてBeing(Between)は単なるラベルや枠を超える、個人のエンパワーメントや自己決定の可能性を持つ支流を探りながら、コレクティブで相互的なケアを育みたいです。人間の条件である根本的な相互依存というレンズをとおして「自立」とは何かを見直して、私たちそれぞれ生きていきたい形をサポートしたいと思っています。 […]

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(日本語) Language Beyond #8のレポート 2019年2月24日

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Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 「滝山コミューン」とも、2月24日の公・差・転とも関係ないかもしれないけれど 僕は、1996年からの10年ばかり、T-theater という詩の朗読の舞台集団の代表をやっていたことがあります。 代表といっても、当時知り合ったパソコン通信(インターネットはまだなかった)で知り合った方たちと一緒に、「詩の朗読の舞台をやろう」と立ち上げた、言ってみれば素人の集まりです。 (ただし、失礼のないように書いておけば、趣旨に賛同して協力して下さったプロの方々も参加しています。) 歌詞や詩に救われて生きてきた僕は、詩の朗読だって素晴らしいエンタティメントだと思っていました。 だから、朗読の舞台集団を始めました。 そこで僕が言い続けたことがあります。 :一緒に何かをやり遂げた達成感とか、頑張ったという自己陶酔に陥らないでください。 :会場に足を運ばれてくるお客様にとっては、あなた方の一人ひとりが何をやりたくて表現を行っているのかが大切なのです。 :身勝手にやりたいことをやってください。 詳細は触れませんが、同じ時期に詩の朗読、もしくはポエトリー・リーディングを始めた方々があちこちでおられました。 t-theaterは、2000年代に入ってから解散しました。 すでに、「集団」など作らなくとも、自由に朗読・リーディング活動を出来る場が、あちこちにできていました。 t-theaterの解散と前後して、僕は単独の詩の朗読会を開催するようになりました。 音響・音楽・美術を揃えた舞台ではない、自分一人しかいない朗読に向かうようになりました。 概ね観客動員数の少ない会になりました。 それでも、お褒めの言葉もいただくことがありました。 そうした中で僕が何回か繰り返して語ってきたことがあります。 :もしも僕の言葉に心を動かされたのであれば、僕の言葉を肯定しないでください。 :いったい何に心を動かされたのかを考え始めてください。 :感動したからといって、誰かの言うことを無条件に受け入れてしまう。 […]

(日本語) 『アウトプット②』

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