(日本語) 文章1

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. とても難しい問題が多く一度に考えると支離滅裂になってしまいますのでエマさんの提案に沿って答えてみます。 ① 一人ひとりの話を聴く機会 自分の経験・当事者性・問題意識を共有する他、 個人的な背景や人生の出来事について話さなくても自分が大事にしたいこと、主に取り組んでいることでも紹介できればと思っています。できるだけいろいろな声を聞く機会があればうれしいです。 >>一人一人の話は聞いてみたいです。でも自分のことを話すのは少し苦手です。 ② kosatenで気になった発言があった時どうすればよかったかを話し合う いくつかの事例をピックアップして、テストの形ではなく、どのように反応したかったかをそれぞれに聞き合う → ロールプレイでもいい >>素朴な疑問があるのは仕方のないことです。誰でも育った環境や経験が違いますので。でもそのことの持つ意味を知ること、背景を知ることは必要である、と思うので私たちはこれからも学び続ける必要があると思っています。気になる発言を聞いたらその時にさりげなくそのことを伝える勇気を持ちたいと思います。 ③kosatenで何がしたいか?何のために関わっているか? 様々な背景を持った方と交流することによって人間や社会に対する理解が広がり、深まっていくのでこれからも関わり続けたいと思っています。ただ私はkosatenの運営やイベントに直接関わることは難しいので出来る範囲で参加したいと思っています。 ④(kosatenの想い)をすべて理解し体の中にしみこませるには時間がかかることだと思います。この理念を印刷してkosatenの中のどこかに張り出したらいかがでしょうか?常に目に触れることで意識されるので頭の中に残っていくと思います。勉強会も必要だと思います。 ⑤2か月リモートでやってきました。リモートの良さは自宅にいながら参加できることです。でもkosatenという同じ空間で一緒に過ごす楽しさもあります。これからは両立でやっていってほしいです。 ⑥具体的には特に様々な背景を持った外国の方々の交流の場作りに参加したいと思います。現在、にほんごを一緒に勉強していますがこれからも続けたいと思います。パントリーにも関わっていきたいです。

(日本語) Reinventing Conflict in Everyday Life

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. Reinventing Conflict in Everyday Life By Jong Pairez 12 September 2020 —   I have not been actively participating in the activities […]

(日本語) 文章7

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 今回、立ち止まって反省と学びの場をもつことを、長い間求めていたと思います。自分の違和感や疑問をどのように周りの人に伝えるのかを保留にしたまま、長い時間を過ごしてしまったからです。2ヶ月間イベントを全て休むことになって、自分の気持ちと向き合う時間もできました。自分が活動に積極的に関わることに負担を感じていたところ、コロナ渦で全体の活動も変化することになりました。その間にも、関わっている人たちにさまざまな負担がかかってしまったことを反省しています。せっかく話し合いの場が設けられたのに、その場に参加することができないジレンマがありました。他にも予期せぬ出来事もあり、さまざまな場面で私ではない誰かに大変なケア労働が発生しました。これまでにも意見の衝突や違和感の共有で、辛い思いをしたこともあるし、傷ついた人がいました。そのことを省みる必要性を感じています。でも、このことを誰かに話したいという気持ちになかなかなれずにいました。それを話したら、また誰かが傷つき、怒り、誰かがそのケアをしなくてはいけない、言葉を発することが億劫で、かといってそれも無責任なことのように感じていました。書きたい気持ちはあったけれど、どうしても書くことができませんでした。ひどく怒っているのか、悲しんでいるのか、絶望しているのか、その全部なのか、わからない。でも、何が問題なのか、自分自身に真摯に問うていき、学んでいきたいと思います。 ——————————————————————————————————————   時間をかけて、多少びくびくしながら文章を書いて、後で後悔することも容易に想像ができるけれども、書くことをやめるわけにはいかなかった。   強く抗議したり、抵抗せず、NOとはっきり言わないこと。 強いられた痛みに対して、どのように応答するか。どう責任をとればいいのだろうか。 深い痛みと失望が私を襲った。 自分が時にはなぜここにいるのかわからなかった。 怒りにのみこまれて、何がなんだかわからくなってしまった。 どうしても言えない、表現できない。 痛みが痛みをさらに呼び出して、どこにも逃げ場がない。 自分や誰かを責めたり、何かに怯えたり、焦ったりせずに向き合う姿勢をもちたい。 真摯に批判を受け入れ、自分の言葉を紡いでいくことは難しいけれども、そうすることでしか私は自分を受け入れることができないと思う。 でも自分を支配しそうなほどの圧倒的な怒りが、おそろしく、傲慢なようで、かなしい。   信頼は一方的に築かれるものではない。 相手の立場を想像することなく、身勝手なふるまいによって人を傷つけた自分自身の経験。 問題を自分の想定範囲のなかでだけ受け入れて、それ以外はなかったことにしてしまった時。 他者にとっての「興味深い」エピソードとして、マイノリティの経験が消費された時。   痛みと向き合うことからでしかはじまらない、対話があると思う。 […]

(日本語) 「目の前で起きている抑圧に対処できない」

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 7、8月、勉強会という名の話し合いを重ねる間にも、問題として指摘された「目の前で起きている抑圧に対処できない」ことが何回か起きました。 あなたの公差転には、様々な人が自由に出入りできるため、偏見や決めつけ、善意の差別、エイジズム・ルッキズム・セクシズム・レイシズム、性別二元論、異性愛主義、性別役割分業、家父長制や世間の主流の価値基準も持ち込まれます。私たちは、公差転が多様な人たちの居場所であることを願い、しかし誰も排除しないことを望んだため、抑圧した側ではなく、抑圧された側が退出するという矛盾が、今回またも発生しました。 抑圧する側を制止することができなければ、これからも同じことが繰り返し起きます。主催側は、ジェンダー格差や権力差のある双方の意見を同等に考えることはできません。私は主催側として、これから抑圧や暴力や差別を察知したとき、受け入れられない要求をされたとき、率直にやめてほしいと相手に伝え、相手にやめる様子がみられない場合、出て行くように伝えることを選択します。「私はいまこの場の安全が保てないと感じています。後日あなたの話を聴きますので、一旦退出していただけますか」と。 しかし、その場が安全になったとしても、その後、紛糾することには変わりないかもしれません。なぜなら自分の低い立場はよく見えるけど、特権はよく見えないからです。特権とは不都合なくあたりまえにできることです。言いたいことが言える、話を聞いてもらえる、部屋を借りられる、公的支援が受けられるなど。この社会では「男性」「日本人」という立場はとても大きな特権をもっています。 特権を批判されるとこう感じるかもしれません。 「差別(抑圧・ハラスメント)とは知らなかった」 「みんなの前で、突然批判されて驚いた。くやしい、恥ずかしい。悲しい。つらい」 「侮辱されて謝りたくないし学ぶ気にもなれない。みんなの前で批判したことを謝って欲しい」 「自分は特権を感じたことはない。逆に相手の方が特権を持っている」 現在、特権への批判を自分の存在への非難と感じ、自身を被害者と認識した相手との葛藤が続いています。しかしこの構造は、数年前にすでに起きていました。そのとき、考え方や対処の方針を合意していなかったことが、現在の状況に続いていると思います。相手の事情を考えて人権侵害を許容してしまう私たちが呼び込んだものです。ゆえに主催する者は変わらなければなりません。相手を変えることはできませんが、自分が変われば関係性は変えられます。 あなたの公差転は、様々な属性、背景、価値観の違いを持った方たちが、その違いをないことにせず、どのような関係性がつくれるか、試行錯誤しながら互いに学べる場所です。しかしその過程で、自分の価値観や態度が問われたり、意見が批判される場合があります。それは私も同様です。自分の当たり前が揺さぶられる不安を感じたり、自らを問い直すという苦い思いをしたり、居心地悪さを感じるかもしれません。 これまで公差転では、異なる価値観がぶつかったとき、それらを個別に話し合っても、みんなで聴き合う機会はほぼありませんでした。言いっぱなしになったり、別の話にたくさんの時間をとられたりで、互いの思いや考えを深く知り合うことができませんでした。これから「警察と収監」で起きたことについて、言葉として表れていない声も含めて、いろんな視点を深く聴き合う状況が必要ですが、8月末に勉強会を終えた後、その機会をつくることはまだできていません。 勉強会のあいだ、わたしは暴言を浴びたり、恐れたり、泣いたり、はらわた煮えくり返ったり、自分を振り返って苦々しい思いをかみしめながらも公差転にとどまり、お金を出し、労働をし、アサーティブに努めていて、我ながらアホかと思います。でもその泥沼のような対立と対話の先に、異なる属性をもちながら、互いの存在を尊重して意見を聴きあえる新たな関係性を作れる可能性があると考えています。しかし試行錯誤を経たうえでそれが叶わなかった場合は、私はしかるべき決断を下すつもりです。 あなたの公-差-転としてどうするかのステイトメントを作るには、まだ時間がかかりそうです。もうしばらくお待ちいただけるとありがたいです。 佐野

(日本語) 居場所

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 居場所というのは、社会の大河の流れに棹を差す小船のようなものである。 流れ着く人が体を乾かし、また泳ぎ去っていく。 そのうちの幾人かが、船の乗り組み員を買って出る。 そうして、船は流れに反してその場にとどまったり、時には航行してほうぼうを回ったりする。 感傷的なたとえはこのくらいにして、今回は実務面からこの「船」を見てみよう。 「船」の運営にはスタッフ(乗り組み員)が必要だ。船長はいる場合もいない場合もある。船長がいない場合は合議制だろう。しかし船頭多くして船山に登るということわざもあるとおり、多すぎるのはよくない。かといって少なすぎるのも過重負担になるので、バランスが難しい。いずれにしても、乗り組み員全員が納得して運営の方向性を決めていくことが望ましい。 乗り組み員としてどのような人を迎え入れるのかは悩ましい問題だ。 乗り組み員を希望する人はひとりひとりスキルとエネルギー(情熱)を持っている。持っていない人を乗り組み員として受け入れてはいけない。このエネルギーをどういう方向にもっていくかで、社会を動かす運動にもなるし、内紛や場合によっては分裂の危機をもたらすこともある。乗り組み員と信頼関係を築き、そのエネルギーの方向性を見極めて、うまく活かすことができるかが、船の発展を決める。 また人によっては最初から他人を傷つけるのが目的だったり、船を乗っ取ることが目的だったりして、そうした目的を隠して入ってこようとすることもある。そうした背後の目的がわかったときに、その人をどう処遇するかも決めておかなければならない。 乗り組み員として受け入れることを決めたら、船の意思決定に参加してもらい、一人の仲間として対等に接し、そうして任せられるところから任せていくこと。そのうちに乗り組み員としての自覚が生まれ、主体的に参画していくようになる。 さらに、乗り組み員はいつまでも船にとどまるわけではない。当初の目的が達成されたり、本人と船の方向性が違っていたり、環境の変化だったり、仲たがいだったり、あるいは不幸な事故だったり、さまざまな理由で船から離れていく。そのときに理由をつけて先延ばしにしたり、じゃけんにしたりすると感情的なしこりが残り、あとあとまで尾を引くこともあるので、「来るものは拒まず去る者は追わず」といった境地でいることが大事である。 「船」の大きさが小さい場合、一人でもトラブルの種をかかえこんでいると容易に崩壊する危険性がある。

(日本語) 「勉強会」

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 勉強会となってからは、あまり参加が出来ていません。オンラインとなっているので まだなれていないのが理由です。 kosatenで起きている問題、いろいろな意見もでてくるので、そういう考えもあるのかと考えさせられることが多い。問題提起されてはじめて気づくことも多い。 暴力構造について気付いたこと、知識が多いほど良いという社会だと思いますから、言葉をしゃべるほど力が増強するかもしれませんね。 これからやりたいこと言葉にたよらない意思疎通。

(日本語) 無自覚な言動 文責:黒岩堅

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 無自覚な言動 文責:黒岩堅 今回学んだことをまとめてみました。 その人にとっては常識であること、その常識は他人を傷つける可能性があるということ そして相手を傷つけたということにはその人は気が付かないということ。 その人の中では傷ついた相手がおかしいんだと信じていること。 私はどうなのだろう?!言動はどうなのか?その人と同じことを他の人にしていないか? 無自覚な言動、常識は差別を生む。 この2か月で差別の温床となっている構図を学んだと思いました。自分自身の差別の温床と向き合っていきたいとおもいました。

(日本語) 公差転について考えたこと 野田光太郎

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language. 公差転について考えたこと 野田光太郎 自分は「アートと社会的な意識の関係」というテーマから公差転に興味を持ったので、表現の自由と責任のあり方については気になっています。最初に公差転の存在を知ったのが、とあるイベントのウェブサイトだったので、そのイベントの周辺で起きたトラブル(セクハラ発言とそれへの責任追及、および仲裁しようとした人への排除行動)を解説したブログを読んで、そういえばそんな話を耳にしたことがあったなぁと思い出しました。何にせよ、こういうことはどこでも起こりうるな、と感じました。 以前、誰かから「公差転でのコミュニケーションが表面的なものにとどまっていて、本音をぶつけ合う場になっていない気がする。本気で問題を解決しようとしているのか、疑問がある」という指摘があったと思いますが、私もそのことは薄々感じていました。しかし、このスペースが他者への配慮を優先事項として掲げている以上、不用意に「本音をぶつけ合う」=「思ったことをそのまま表現する」ことは許されないだろうし、それをすれば厄介な対立を生じるだろう、と考えていました。 公差転のような社会的弱者(この呼び方が適切なものかわかりませんが)に配慮した場所では、日本国籍保有者、男性、「健常」者、就労者など、社会的により優位な立場にある人間は、発言に気を付けた方が良いと考えていました。もっとも、私自身は自己が社会的に優位な立場にいるなどとは考えておらず、むしろきわめて低い地位にあるのですが、こういうことはあくまで相対的な比較の問題ですので、やはり自分はこの場では控えめにしているのがいいだろうと判断していました。そもそも私の本来の動機は、公差転の掲げているような理念や方法論を知りたいということにあるので、自分が自己表現したり意見表明することには積極的ではありませんでした。あえてお互いの考えを問いたださなくても、同じ空間に座っているだけでも何かしらの相互理解にはなるだろう、という消極的な態度を取ることが多かったです。ただ、イベントの質疑応答に参加したり、オープンマイクの出演者に触発される中で、もう少し自己主張しても良いのではないか、という気持ちが出てきたことも確かです。そうしないとイベントの趣旨に貢献できないし、自分自身の学びとしても中途半端だなと感じていました。 公差転マガジンに創作風の文章が載るようになったことは、ちょっと注目していたので、それが今回の事態をもたらしたことは残念です。特に「監督失格」(林由美香の映画)の紹介など強い印象を受けました。たしかに、公差転のカラーからすると場違いな言葉づかいや内容が目だちましたが、いわゆるマジョリティの、マスのサブカルチャーにはありがちな表現なので、そういうものが内面から出てくるパーソナリティとどう向き合っていくか、という問題提起にはなるかもしれないと感じていました。個人的にはけっこう書き手の孤独感や鬱屈に共感して読んでいる部分もありましたね。 創作など自己表現としての文章は、どれだけ自己を率直に出せるかという辺りに真剣さが問われるので、それを抑えて読者への配慮をどこまでするべきか、というのはなかなか難しいところがあります。私もよその発行物へ寄稿した時に、原稿を根本的な部分に及んでいろいろと修整させられたことがあり、こういうことは編集者の権限と責任が明確にされた上で、書き手との信頼関係ができていないと、なかなか納得できることではないなあ、と感じたことがあります。 私は他人を支援しなくてはならないとか、嫌な気分にさせてはならないという、配慮を前もってめぐらせておくことが苦手です。そういう責任感が希薄であり、そういうことは「自分がそうしたいからそうする」ものだと考えているので、行動はその時の気分に左右されます(あるいは「依頼されたからやる」という受動的な態度)。また、私は自分の思考や発言に対して、他人から制限をくわえられるというのは好きではないのです。それは、今までの人生で自分が散々そういう目に遭ってきて、かなり理不尽な抑圧を受けていたという感情があるので、常にそういう制限からの自由・解放を求めているところがあります。他人からジャッジをされるという体験は多いのですが、それをそのまま受け入れるということはまずありません。私にとって「自分が自分であること」を守ることはきわめて重要で、人間性なり認識を根本的に変えるということは深い納得がないと起こりえません。その「認識を変える深い納得」に出会いたくていろいろな場所に出かけていく、ということもあるのですが。 コミュニケーションというのは根本的には自我と自我のぶつかり合いだと思っていて、必ずしも平和的に進行するものではないと考えています。その衝撃をどのように、どれぐらい和らげるか、という「さじ加減」の問題であって、不安や憤りを全面的に回避することは難しいと考えています。そういう意味で自分自身の安全・安心(安全と安心はどう違うのか?)は「自衛」によってしか守れないし、他人によって守ってもらうことは期待できないと思っています。 とはいえ、こういった認識は自分の頭で考えたものでしかなく、実際にそういった態度や考え方が実践された時に、どういう現象が起こるか、ということは理解していないのです。そういう意味で今回のメーリングリストでのやりとり、そしてZOOMを使ったミーティングは、私にとっては公差転におけるかつてないほど「ホットな」コミュニケーションの体験だったといえます。残念なのは新型コロナウイルスの影響で生身の対面した対話ができないことで、そのことが非常にぎこちなく、信頼感の築きづらい状況が生じていると思いますが、逆に対面でないことから率直な発言がしやすくなった人もいるかもしれません。 今回のZOOMミーティングは、自分の人生経験の乏しさから、他人の心理状態を推察することがまったくできない、ということが判明しました。「想像力を働かせる」といっても、しょせん自分の経験以外に参考できるものは、フィクションやドキュメンタリーといったメディアを介した疑似体験しかないし、そういったメディアにしても、自己の偏った好みで選んだ作品にしか触れていないので、大して役に立たないわけです。私は今まで友人知人を含めて他人と本音で話し合ったことがどれくらいあったかなあ、と反省せざるを得ません。 まず、言葉という道具をうまく使いこなさないと、自分の思いを正確に伝えることができない。それが非常に難しい。こういうことは実際の人間関係で失敗を重ねながら学ぶしかない気がしますが、自分にはそういう体験が決定的に欠けているな、と感じます。むしろ、そういう難しい局面を回避するために他人との深い関係を避けて生きてきたので、他人のことがわからない、またそのことがまたハンディや恐れとなって、対人関係が表面的なところに留まってしまう、という繰り返しが、今までの自分の人格を形成してきたと言えるでしょう。 そのように気持ちに余裕がないので、他者への配慮を十分にめぐらせることができない。しかし公差転ではリラックスした空間が「用意されている」ので、いつもの自分より一歩踏み出して、今までより幅広い交流をできた気がします。そこのルールというか、disciplineに従う、というようなことではなくて、その場所が心地よいからそこの考え方を尊重しようということです。 むろん、「ゲスト」である(という意識でそこにいる)私にとって居心地の良い公差転の空間は、誰かの(「メンバー」なり「協力者」の)努力なり献身、あるいは我慢や忍耐、「犠牲」の上に成り立っていることは感じていたわけですが、そういう「貢献」の姿を見ることで、こちらもそれをほんのわずかずつですが「見習う」という面もあったと思います。具体的には、新しく入ってきた人にお茶を入れてあげるとか、声かけとか、そんな程度のことですが。一方で「運営」の本質にかかわることには関与しない、口を挟まないというのは、「ゲスト」としての「分をわきまえた」態度、あるいは「面倒なことには関わらない」という責任回避の行動であります。このような「つまみ食い」的な態度は、公差転のコンセプトとは違うものでしょうが、自分としてはそこをコミュニティではなく、社交場としてとらえてきた(そこがコミュニティであるなら、自分はその外にいる存在であると考える)ということです。 こういう態度ゆえに、私は公差転の抱えている問題点については気が付かないか、深く考えないようにしてきたと言えます。その点では、7/11の勉強会の記録で指摘されたような、「他の場所で自己を抑圧された男性が、己の見たされないマッチョな自我の発散欲求を満たすために公差転にやってきて、女性はそのケアをさせられる」(正確な引用ではないがそのようなこと)という状況を見過ごしてきたし、私自らも多少そういう風潮に便乗して、助長しているような面もある気がします。自分自身ではそこまで「困ったちゃん」な行動は自制できているつもりですが、他人から見たらどうかわからないですから。少なくともそういう構造に気づかないでいた(自分は負担を感じてないから)とか、うすうす感じていても見て見ぬふりをしてきた(それは「メンバー」が考えるべきことだから‥)ことは確かです。 今回、公差転という貴重なスペースの活動が中断してしまった、あるいは問題を解消しないと存続が危うい、という状況が現れて、それは困るし、もったいないと思ってミーティングに参加してみたのですが、では自分にとって公差転がどういう存在であり、なぜ必要か、ということは明確につかめていません。その目指していることが何なのか、おおまかな趣旨は賛成なのですが(「kosatenの想い」は改めて読み返してもすばらしい内容だと思います。あまりにもすばらしいのでユートピア的に感じるところもあります)、問題のとらえ方とか言葉の使い方で違いがあるように感じます。 たとえば、公差転の抱えている問題を表す言葉として、暴力構造とか植民地主義、帝国主義とか家父長制という用語が使われていますが、それによって目の前にある問題の実際的なところが明確に見えてくるという感覚がありません。何か抽象的で巨大な命題に飲み込まれてしまったようで、「非常に悪い状態だ」という以上のことが今ひとつピンと来ないのです。組織とか集団の問題を考える場合に、私は「抑圧」「不公平」「依存」「搾取」「同調圧力」「権威主義」「従属」というような言葉で考えることが多いです。たしかにエドワード・サイードが「ポスト・コロニアル」という言葉を使った本を読んだ時に、植民地主義や暴力という概念を経済構造や国家(軍事・警察力)だけでなく、文化・表象や個人の精神構造の問題にまで拡張したと感じましたが、それは慎重な手続きで論証され、定義されたものだったように記憶しています(まったくおぼろげな記憶ですが)。 他人の陥っている偏狭な古い価値観を指摘するにしても、「何々主義」(○○ism)という言葉を使うことに、私は慎重です。当人が何らかのismを自ら信奉しているのならば別ですが。たとえば権威主義というような批判はかなり強硬で断定的な言い方で、よほどのことがないと私は使わないです。その言葉が事態をうまく言い表している時で、しかもそういう言い方をするのが必要な場合・・。 どうも、考えが抽象的になってしまってまとまらないのですが、公差転が「代表者」を持たない構造を目指しているにしろ、現状では誰かが方針を示し、みんなをある方向へうながし、そのことでその人格が権威を帯びるとともにその結果の責任を引き受ける、というプロセスは必要ではないかなという気はしています。リーダーが常に独裁的な存在だということもないでしょうし。ただ、それが特定の個人だけに負わされるのはおかしいし、危険というか、あまり面白くないことで、段階的に複数の人間がそういう役割を分担して担っていく、そうしてその権限と役目の負担を徐々に信頼できる諸個人全員に委譲していく、ということは考えられないかなと思います。 リーダーなり責任者でもファシリテーターでも何でもいいのですが、その場に応じた委任によって一時的にトラブルに対応する‥積極的な言い方をすれば他人と全体に配慮してケアするというか場を整える‥係を指名して、その役割を固定化せずに、また他の人々が受動性に眠ってしまわないようにする工夫はあるのではないか?と思います。前にもこんなことを話したおぼえがあるので、思考の堂々巡りもあるようですが。