[:ja]公差転について考えたこと 野田光太郎[:]

[:ja]公差転について考えたこと 野田光太郎[:]

[:ja]公差転について考えたこと

野田光太郎

自分は「アートと社会的な意識の関係」というテーマから公差転に興味を持ったので、表現の自由と責任のあり方については気になっています。最初に公差転の存在を知ったのが、とあるイベントのウェブサイトだったので、そのイベントの周辺で起きたトラブル(セクハラ発言とそれへの責任追及、および仲裁しようとした人への排除行動)を解説したブログを読んで、そういえばそんな話を耳にしたことがあったなぁと思い出しました。何にせよ、こういうことはどこでも起こりうるな、と感じました。

以前、誰かから「公差転でのコミュニケーションが表面的なものにとどまっていて、本音をぶつけ合う場になっていない気がする。本気で問題を解決しようとしているのか、疑問がある」という指摘があったと思いますが、私もそのことは薄々感じていました。しかし、このスペースが他者への配慮を優先事項として掲げている以上、不用意に「本音をぶつけ合う」=「思ったことをそのまま表現する」ことは許されないだろうし、それをすれば厄介な対立を生じるだろう、と考えていました。

公差転のような社会的弱者(この呼び方が適切なものかわかりませんが)に配慮した場所では、日本国籍保有者、男性、「健常」者、就労者など、社会的により優位な立場にある人間は、発言に気を付けた方が良いと考えていました。もっとも、私自身は自己が社会的に優位な立場にいるなどとは考えておらず、むしろきわめて低い地位にあるのですが、こういうことはあくまで相対的な比較の問題ですので、やはり自分はこの場では控えめにしているのがいいだろうと判断していました。そもそも私の本来の動機は、公差転の掲げているような理念や方法論を知りたいということにあるので、自分が自己表現したり意見表明することには積極的ではありませんでした。あえてお互いの考えを問いたださなくても、同じ空間に座っているだけでも何かしらの相互理解にはなるだろう、という消極的な態度を取ることが多かったです。ただ、イベントの質疑応答に参加したり、オープンマイクの出演者に触発される中で、もう少し自己主張しても良いのではないか、という気持ちが出てきたことも確かです。そうしないとイベントの趣旨に貢献できないし、自分自身の学びとしても中途半端だなと感じていました。

公差転マガジンに創作風の文章が載るようになったことは、ちょっと注目していたので、それが今回の事態をもたらしたことは残念です。特に「監督失格」(林由美香の映画)の紹介など強い印象を受けました。たしかに、公差転のカラーからすると場違いな言葉づかいや内容が目だちましたが、いわゆるマジョリティの、マスのサブカルチャーにはありがちな表現なので、そういうものが内面から出てくるパーソナリティとどう向き合っていくか、という問題提起にはなるかもしれないと感じていました。個人的にはけっこう書き手の孤独感や鬱屈に共感して読んでいる部分もありましたね。

創作など自己表現としての文章は、どれだけ自己を率直に出せるかという辺りに真剣さが問われるので、それを抑えて読者への配慮をどこまでするべきか、というのはなかなか難しいところがあります。私もよその発行物へ寄稿した時に、原稿を根本的な部分に及んでいろいろと修整させられたことがあり、こういうことは編集者の権限と責任が明確にされた上で、書き手との信頼関係ができていないと、なかなか納得できることではないなあ、と感じたことがあります。

私は他人を支援しなくてはならないとか、嫌な気分にさせてはならないという、配慮を前もってめぐらせておくことが苦手です。そういう責任感が希薄であり、そういうことは「自分がそうしたいからそうする」ものだと考えているので、行動はその時の気分に左右されます(あるいは「依頼されたからやる」という受動的な態度)。また、私は自分の思考や発言に対して、他人から制限をくわえられるというのは好きではないのです。それは、今までの人生で自分が散々そういう目に遭ってきて、かなり理不尽な抑圧を受けていたという感情があるので、常にそういう制限からの自由・解放を求めているところがあります。他人からジャッジをされるという体験は多いのですが、それをそのまま受け入れるということはまずありません。私にとって「自分が自分であること」を守ることはきわめて重要で、人間性なり認識を根本的に変えるということは深い納得がないと起こりえません。その「認識を変える深い納得」に出会いたくていろいろな場所に出かけていく、ということもあるのですが。

コミュニケーションというのは根本的には自我と自我のぶつかり合いだと思っていて、必ずしも平和的に進行するものではないと考えています。その衝撃をどのように、どれぐらい和らげるか、という「さじ加減」の問題であって、不安や憤りを全面的に回避することは難しいと考えています。そういう意味で自分自身の安全・安心(安全と安心はどう違うのか?)は「自衛」によってしか守れないし、他人によって守ってもらうことは期待できないと思っています。

とはいえ、こういった認識は自分の頭で考えたものでしかなく、実際にそういった態度や考え方が実践された時に、どういう現象が起こるか、ということは理解していないのです。そういう意味で今回のメーリングリストでのやりとり、そしてZOOMを使ったミーティングは、私にとっては公差転におけるかつてないほど「ホットな」コミュニケーションの体験だったといえます。残念なのは新型コロナウイルスの影響で生身の対面した対話ができないことで、そのことが非常にぎこちなく、信頼感の築きづらい状況が生じていると思いますが、逆に対面でないことから率直な発言がしやすくなった人もいるかもしれません。

今回のZOOMミーティングは、自分の人生経験の乏しさから、他人の心理状態を推察することがまったくできない、ということが判明しました。「想像力を働かせる」といっても、しょせん自分の経験以外に参考できるものは、フィクションやドキュメンタリーといったメディアを介した疑似体験しかないし、そういったメディアにしても、自己の偏った好みで選んだ作品にしか触れていないので、大して役に立たないわけです。私は今まで友人知人を含めて他人と本音で話し合ったことがどれくらいあったかなあ、と反省せざるを得ません。

まず、言葉という道具をうまく使いこなさないと、自分の思いを正確に伝えることができない。それが非常に難しい。こういうことは実際の人間関係で失敗を重ねながら学ぶしかない気がしますが、自分にはそういう体験が決定的に欠けているな、と感じます。むしろ、そういう難しい局面を回避するために他人との深い関係を避けて生きてきたので、他人のことがわからない、またそのことがまたハンディや恐れとなって、対人関係が表面的なところに留まってしまう、という繰り返しが、今までの自分の人格を形成してきたと言えるでしょう。

そのように気持ちに余裕がないので、他者への配慮を十分にめぐらせることができない。しかし公差転ではリラックスした空間が「用意されている」ので、いつもの自分より一歩踏み出して、今までより幅広い交流をできた気がします。そこのルールというか、disciplineに従う、というようなことではなくて、その場所が心地よいからそこの考え方を尊重しようということです。

むろん、「ゲスト」である(という意識でそこにいる)私にとって居心地の良い公差転の空間は、誰かの(「メンバー」なり「協力者」の)努力なり献身、あるいは我慢や忍耐、「犠牲」の上に成り立っていることは感じていたわけですが、そういう「貢献」の姿を見ることで、こちらもそれをほんのわずかずつですが「見習う」という面もあったと思います。具体的には、新しく入ってきた人にお茶を入れてあげるとか、声かけとか、そんな程度のことですが。一方で「運営」の本質にかかわることには関与しない、口を挟まないというのは、「ゲスト」としての「分をわきまえた」態度、あるいは「面倒なことには関わらない」という責任回避の行動であります。このような「つまみ食い」的な態度は、公差転のコンセプトとは違うものでしょうが、自分としてはそこをコミュニティではなく、社交場としてとらえてきた(そこがコミュニティであるなら、自分はその外にいる存在であると考える)ということです。

こういう態度ゆえに、私は公差転の抱えている問題点については気が付かないか、深く考えないようにしてきたと言えます。その点では、7/11の勉強会の記録で指摘されたような、「他の場所で自己を抑圧された男性が、己の見たされないマッチョな自我の発散欲求を満たすために公差転にやってきて、女性はそのケアをさせられる」(正確な引用ではないがそのようなこと)という状況を見過ごしてきたし、私自らも多少そういう風潮に便乗して、助長しているような面もある気がします。自分自身ではそこまで「困ったちゃん」な行動は自制できているつもりですが、他人から見たらどうかわからないですから。少なくともそういう構造に気づかないでいた(自分は負担を感じてないから)とか、うすうす感じていても見て見ぬふりをしてきた(それは「メンバー」が考えるべきことだから‥)ことは確かです。

今回、公差転という貴重なスペースの活動が中断してしまった、あるいは問題を解消しないと存続が危うい、という状況が現れて、それは困るし、もったいないと思ってミーティングに参加してみたのですが、では自分にとって公差転がどういう存在であり、なぜ必要か、ということは明確につかめていません。その目指していることが何なのか、おおまかな趣旨は賛成なのですが(「kosatenの想い」は改めて読み返してもすばらしい内容だと思います。あまりにもすばらしいのでユートピア的に感じるところもあります)、問題のとらえ方とか言葉の使い方で違いがあるように感じます。

たとえば、公差転の抱えている問題を表す言葉として、暴力構造とか植民地主義、帝国主義とか家父長制という用語が使われていますが、それによって目の前にある問題の実際的なところが明確に見えてくるという感覚がありません。何か抽象的で巨大な命題に飲み込まれてしまったようで、「非常に悪い状態だ」という以上のことが今ひとつピンと来ないのです。組織とか集団の問題を考える場合に、私は「抑圧」「不公平」「依存」「搾取」「同調圧力」「権威主義」「従属」というような言葉で考えることが多いです。たしかにエドワード・サイードが「ポスト・コロニアル」という言葉を使った本を読んだ時に、植民地主義や暴力という概念を経済構造や国家(軍事・警察力)だけでなく、文化・表象や個人の精神構造の問題にまで拡張したと感じましたが、それは慎重な手続きで論証され、定義されたものだったように記憶しています(まったくおぼろげな記憶ですが)。

他人の陥っている偏狭な古い価値観を指摘するにしても、「何々主義」(○○ism)という言葉を使うことに、私は慎重です。当人が何らかのismを自ら信奉しているのならば別ですが。たとえば権威主義というような批判はかなり強硬で断定的な言い方で、よほどのことがないと私は使わないです。その言葉が事態をうまく言い表している時で、しかもそういう言い方をするのが必要な場合・・。

どうも、考えが抽象的になってしまってまとまらないのですが、公差転が「代表者」を持たない構造を目指しているにしろ、現状では誰かが方針を示し、みんなをある方向へうながし、そのことでその人格が権威を帯びるとともにその結果の責任を引き受ける、というプロセスは必要ではないかなという気はしています。リーダーが常に独裁的な存在だということもないでしょうし。ただ、それが特定の個人だけに負わされるのはおかしいし、危険というか、あまり面白くないことで、段階的に複数の人間がそういう役割を分担して担っていく、そうしてその権限と役目の負担を徐々に信頼できる諸個人全員に委譲していく、ということは考えられないかなと思います。

リーダーなり責任者でもファシリテーターでも何でもいいのですが、その場に応じた委任によって一時的にトラブルに対応する‥積極的な言い方をすれば他人と全体に配慮してケアするというか場を整える‥係を指名して、その役割を固定化せずに、また他の人々が受動性に眠ってしまわないようにする工夫はあるのではないか?と思います。前にもこんなことを話したおぼえがあるので、思考の堂々巡りもあるようですが。[:]