(日本語) 『ビリー』


Takuya Shimada
「いのちというものをめぐって3」
『ビリー』
運転していた車のカーステレオからは大気圏の荒れが報じられていた。この近辺は気圧の具合を左右するくらい凶悪な人間がうようよしていた。例えばジョニー。かれはもちろん犯罪者ではない。でも、ある見地からすれば犯罪者予備軍ではあるし私たち全員がそうであるように犯罪者であると晴れた日には言えなくもない。
男が玄関の魚眼レンズでのぞくと向こうに赤いTシャツの人が心配そうな顔で小さくたっていた。昨日ではない。多分一年前くらい。まず郵便配達の制服ではなかった。それは断言できる。なんだかその「心配そうな顔の男」の背後の景色が見慣れないもので男の方こそ心配になるくらいだった。自分がこんなにいいところに住んでいたのか、と男は今さらながら感動した。
男は扉を開けてあげた。開けてあげたはずだった。その時わざわざ開けてあげた割に男は不機嫌だった。なぜかという理由を話し始めると五指に余ってしまうくらい色々あったのだ。男もこう見えて大人だったのだからあながち文句は言えまい。目の前の男はにこにこしていて不気味だった。
何しに来たんですか?と男の顔がいい、口が、こんにちは!と言った。
こんにちは!と心配そうな顔を一瞬前までしていた男が言った。
魚眼レンズ分の距離がいまだに隔てられていたらなあと男はちらりと思った。
言葉が通じなかったのはこの前の郵便配達人だった。この前は正真正銘の郵便配達人がきたのだ。とっても親切な人だった。だからこそ男は困った。書留なんですが、といって、郵便配達の若造は立っていた。はい?と男は言った。郵便配達の男はそのまま突っ立ってにこにこしていた。ずいぶん機嫌がよさそうで犬とか猫とか鳩とか猪とか羊とかにそれぞれ若干ずつ似ていた。にこにこしているのはいいのだが、困るのはうちの家の前でにこにこされていることで、それも扉を開けて対面されている状況でニコニコされていることだった。
はい?と男は又言った。何かが変だと思った。制服を着ているからきっと郵便配達人なのだろうその男のバイクは誇らしげにぶるんぶるるんと鳴っていた。まるで一刻も早く帰りたがっているまさしく相棒のキツネやカワウソやウサギやきつつきのように。
はい?と男はまた言った。見た目で誤解されがちなほど温厚ではないのだ。その時風呂上がりでまだ濡れた髪をふいていたし、上半身は裸で肩に落ちてくる雫が冷たかった。
だから、書留、と、しりすぼみの声で機嫌を損ねた友達みたいにその郵便配達人は言って男は少々ぞっとした。まるで善意の押し付けをしに来る友達そっくりだった。
あたま、はなんの比喩なの?そりゃあ頭は頭さ。なんにでも頭はあるからな。ビーナッツにもボールペンにも僕にも君にも。じゃあ頭がないものは?その話はやめておきましょう。さて、まどをあけたらもう春の日もとい、そもそも秋晴れではないですか。諸君、調子はどうですか?と、男は窓の外に向かって呼びかけてみる。また公園に行った。あれ?ビリーが考えていたことと言っていたことは違うのではないか?男がなぜビリーの考えていることを知っていたのだろう?
三日後に浜辺を歩いていた。水の中に落ちている貝殻と砂浜に落ちている貝殻は水の濡れ方は違った。ビリーに会うと勇気が出てくる。なぜだかわからない。みんなだからビリーに会いたいと思うのだろう。夜になるとこの町には配給車がやってくる。ホームレスの人たちに食事を配る配給車だ。
真ん中が陥没したような崖沿いに波の音は打ち寄せていた。浜辺には小屋が立っていた。ビリーはそこに住んでいた。三匹の猫と一緒に暮らしていて、冬は屋内プールの監視員を、夏には海辺のライフセーバーをやっていた。彼は猫が水浴びをするのが好きだったので毎晩波打ち際で猫の水浴びをさせていた。猫のジャムはのしのしと海辺に歩いて行って波と戯れた。
「よお、ビリー」と男はビリーに声を掛ける。ビリーの家には子どもが二人と婦人と、それから制服姿の女子高生がいた。みんなビリーに会いたくて仕方がないのだ。ビリーが大好きだから。女子高生と夫人と、子どもの片方が男に会釈した。椅子に腰かけてパイプをくわえているビリーが男に新聞紙を放ってよこした。
「ニュースみたか?」とビリーは尋ねた。
「観てない」と男は答えた。
ビリーは不思議な力をもっている。アゲハチョウの羽を帽子の縁で持ち上げたりだとか、列車の切符をかならず手にいれたり出来たりとかそういうことだ。でもビリーはその力を他人のために使う。猫とか、ロバとか、男とか女とか、それ以外のものたちとか、みんなのために、でしゃばりすぎないで手助けをするんだ。優しいおうまさん、というのがビリーの言われようだった。みんなビリーの事を大好きでどうにかしてビリーみたいになりたいからちらっちらっとビリーの傍らに腰掛けてビリーがどういうことをするのかなあってたしかめるようにうかがうのさ。
ビリーがつりあげた魚はずっと長持ちするともっぱらのひょうばんだった。なぜかって?そりゃあきっと彼がいろんなものに感謝して尊敬しているからさ。
このまえ釣り上げたニジマスにもきっとお礼を言っているに違いなかった。
「ニジマスさん、ニジマスさん、ありがとうございます。あなたをちゃんといただきます。頭から尻尾まで余さずにいただきます。いつもありがとう。おかげさまで健康です。きょうも海の神様がごきげんでいらっしゃいますように」
ビリーはそんな事をしているなんて一言も言わない。たいていの事にはそ知らぬふうに知らん顔をして揺りいすを揺らしながらパイプをぷかぷかふかしている。でもみんな知ってるんだ。ビリーがどんなにみんなのことを好きなのかって事を。虫も、けものも、水も、空気も、チリも、竜巻も、屋根瓦も、人間も、すべての事が大好きで、みんなが万事上手く行くようにっていつも祈っている事を知っていた。
ビリーの家にはなにがあると思う?なんでもあるんだよ。
白菜も、蓮根も、しいたけも、なずなも春菊もむかごも何でも。それは土地の農家の人たちがみんなでもってきてくれるんだよ。
あんな人はめったにいないから大事にせなと町のばあさんもじいさんも言っていた。
ビリーはなにかもらっても別にありがたそうにもせずに、ああ、とか、どうも、とか、口の中でもごもごつぶやいてそれからさっさと話題をかえるかまたパイプぷかぷか揺りいすゆらゆらをはじめるのだった。
お客さんが来てもビリーはてきとうにほっぽらかしていた。ドアは年中開けっ放しだったし、そこからは虫も雨風も日光も人も、時には猫とかカニとか、一回なんてチンパンジーが酔っ払いを連れて入ってきた事もあった。
ビリーのお家ではきっと、宇宙法則がすこし変形していて、いろんなことがきっとあまり見たことの無い調子でなりたっているんだろう。
でも、そこにいるとただただいい気持ちでのびをしたりおせんべいを食べたりして、やっぱりきてよかったなあとおもいながらごろごろしているだけなのだった。
お茶、のむ?とビリーが聞いて回っている。みんな恐縮してしまってこえも出ない。でもみんなちょっと頬が上気したみたいになっている。
つらいのは帰るとき。もう帰らなきゃなのか、と毎回思う。またあしたもきますねとみんなわざとらしくわざと声に出していう。ビリーはやっぱりパイプぷかぷか揺りいすゆらゆらやりながら雑誌か何か読んでる手元から目も上げずに片手を振ってかえれかえれという。
で、みんなそのあけっぱなしのとびらからとぼとぼとでて、かえる。ぜったいみんな、ビリーの家を振り返っているはずだった。だって、変だったもの、じっさい、こんなはまべにいっけんだけいえがぽつんとあるだなんて、考えてみればへんなことだったから、もしかしたら明日になったらなくなっているんじゃないかって半分不安になっているかもしれなかった。
でも大丈夫。ビリーの家はいつもそこにあって、ビリーはいつも家にいた。なぜかいつもちゃんとお茶ができていて、おせんべいとかクッキーとかかりんとうとかおまんじゅうとかが転がっていた。
ビリーに聞いたら頂き物だっていいはるはずだったけれど、きっと、それはビリーが切らさないように気をつけて買いに行っているにちがいなかった。
聞いても認めないのはわかっていたから、みんな黙ってお菓子を食べて、お茶を飲んだ。そして、ときどき、おいしいです、とちいさなこえでいうにとどめていた。
夏が過ぎ、冬が来た。ビリーの家の前にも雪がほんの少しだけ降った。みんなかわらずビリーの家を訪れた。
ひさしぶり、とビリーは、相手の顔をみてからいう。言わない方がいい相手にはいわない。
男は、ひさしぶり、とは言われなかった。
ゆき、たべた?とビリーは訊いた。男はまだだよと言って首を横に振った。ビリーは毎年ちゃんと雪を食べる。新雪を口にするとこの冬の空模様が分かるんだ。
ビリーが何をしてきたのかっていうのを聴くのかい?それはビリーに訊きなさい。本人に訊くというのが基本だ。
彼の住んでいるところから眺める海は晴れた日には海面がキラキラと光ってきれいだった。
猫はピアニカの林檎のシールを張られた鍵盤の左端からずいぶん離れた場所、すなわち二オクターブ高いドの音を喉の奥で奏でながらラブラブラブラブと聞こえる声で歌っていた。ビリー!と猫は言ったのか?ネコー!と聞こえる声で波はなっていた。だからその時、海は人間に合わせてくれていた。くだらないお茶をもらったので男は近所の歌手のピンタンと飲んでいた。くだらないお茶は腐ってはいないが呑むとクラシックな風味が鼻腔に満ちて沈黙とともにこの件の証明は終わった。
レタスを買って帰る帰り道、本当のことを言ってよとS駅の雑踏の中でごねている女の人がいた。ねえねえねえねえ本当のこと、とまではきこえてそれからあとは不気味に静まり返っていて、本当のこと、がなんなのかはいまだにわからずじまい。
でもきっとビリーに訊いたら笑って教えてくれるだろう。あわれみにも間違われがちなすこしかなしい天使のような顔つきで、人間の不可思議さのシステムを、自分だって人間だっていうことを半分型忘れ去ったような優しい声色で、いつも通りパイプをぷかぷかふかしながら、教えてくれるだろう。