[:ja]文章7[:]

[:ja]文章7[:]

[:ja]今回、立ち止まって反省と学びの場をもつことを、長い間求めていたと思います。自分の違和感や疑問をどのように周りの人に伝えるのかを保留にしたまま、長い時間を過ごしてしまったからです。2ヶ月間イベントを全て休むことになって、自分の気持ちと向き合う時間もできました。自分が活動に積極的に関わることに負担を感じていたところ、コロナ渦で全体の活動も変化することになりました。その間にも、関わっている人たちにさまざまな負担がかかってしまったことを反省しています。せっかく話し合いの場が設けられたのに、その場に参加することができないジレンマがありました。他にも予期せぬ出来事もあり、さまざまな場面で私ではない誰かに大変なケア労働が発生しました。これまでにも意見の衝突や違和感の共有で、辛い思いをしたこともあるし、傷ついた人がいました。そのことを省みる必要性を感じています。でも、このことを誰かに話したいという気持ちになかなかなれずにいました。それを話したら、また誰かが傷つき、怒り、誰かがそのケアをしなくてはいけない、言葉を発することが億劫で、かといってそれも無責任なことのように感じていました。書きたい気持ちはあったけれど、どうしても書くことができませんでした。ひどく怒っているのか、悲しんでいるのか、絶望しているのか、その全部なのか、わからない。でも、何が問題なのか、自分自身に真摯に問うていき、学んでいきたいと思います。

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時間をかけて、多少びくびくしながら文章を書いて、後で後悔することも容易に想像ができるけれども、書くことをやめるわけにはいかなかった。

 

強く抗議したり、抵抗せず、NOとはっきり言わないこと。

強いられた痛みに対して、どのように応答するか。どう責任をとればいいのだろうか。

深い痛みと失望が私を襲った。

自分が時にはなぜここにいるのかわからなかった。

怒りにのみこまれて、何がなんだかわからくなってしまった。

どうしても言えない、表現できない。

痛みが痛みをさらに呼び出して、どこにも逃げ場がない。

自分や誰かを責めたり、何かに怯えたり、焦ったりせずに向き合う姿勢をもちたい。

真摯に批判を受け入れ、自分の言葉を紡いでいくことは難しいけれども、そうすることでしか私は自分を受け入れることができないと思う。

でも自分を支配しそうなほどの圧倒的な怒りが、おそろしく、傲慢なようで、かなしい。

 

信頼は一方的に築かれるものではない。

相手の立場を想像することなく、身勝手なふるまいによって人を傷つけた自分自身の経験。

問題を自分の想定範囲のなかでだけ受け入れて、それ以外はなかったことにしてしまった時。

他者にとっての「興味深い」エピソードとして、マイノリティの経験が消費された時。

 

痛みと向き合うことからでしかはじまらない、対話があると思う。

あの時、なぜそう言ったのか?

なぜ、あのようにふるまったのか?

自分が責められないため?

問題をうやむやにするため?

私は、何をした?

過去を乗り越えるという言い方はあまりしない。

乗り越えられないけれど、ずっとその痛みを忘れないことが、今を生きるための私の責任だ。

ひどく苦しみ、憎み、怒りを覚えるその瞬間に、自分自身とも、深く向き合っていけるようになりたい。

 

ゆっくりと対話する時間・考える時間に余裕がなかったこと。

自分のできなさを心苦しく思った。

少人数での意思決定、ケアと労働………

負担を当然視して、我慢することに慣れてしまうこと。

誰かに任せる、押し付けること。

責任とは、平等とは、どういうことだろうという、漠然とした問い。

お金のやりとりをなるべく避けて関係性を作っていくことへの希望と、矛盾を、おもった。

負担を「同じ」にするのではなく、各々の関わり方を尊重することが平等だと感じていた。

みんなそれぞれとまとめるのは簡単だが、主語を大きくしたら何が言いたいのかわからない。

個々に存在している問題を普遍化して、結局みんな大変だし、仲良くやっていけばいいじゃない…と無造作に言ってしまったらかなしい。

それにしても、お互いを尊重できる、理解しているとは、どうやって「わかる」のだろうか。

 

「…それってそんなに重要なの?」

「真面目に考えすぎ」

「頑張っていて偉いですね」

…………これまでの学びと経験を活かすことができなかった。

私は自分の頑張りを誰かに認めてもらいたいのだろうか。

自分に酔っているのだろうか。

「かわいそうな自分」ごととして、「偉い自分」として、何かをアピールしているのか。

 

 

加害と被害の二項対立で何事も普遍化できないとわかっているけれど、はっきりしているのは、自分の被害を訴えることと、自分の加害を認めることと、どちらにも痛みが伴うということ。たとえば後者の痛みと、私自身はどう向き合えば良いのだろうか。自分の過ちを見つめて、そこから成長していける場所を、求めている。自分が直に受ける「抑圧」には敏感だけれども、自分が意識せずにいられる別の「暴力」には、無頓着で、あまりにも無関心に日々過ごしているから。どうやってそういう場所を作ったらいいのか、わからない。辛くても、自分の当事者性と他者のそれを天秤に掛けるのではなく、相手の立場も想像して一歩引いてみることができるだろうか?自分の失敗や過失も認めた上で、どういう構造で差別が起きるのかを時間をかけて向き合っていき、次に活かすことができるのかどうか?

 

 

私が怒りを表明しようとした途端、それを許すまいとするもう一人の自分の声が聞こえる。

私のこの怒りは「不適切」で、自ら謝罪すれば、静寂を手に入れることができるのだ。

ああ、もう何も言いたくない。

ある種のミソジニーとエイジズムではないかとも考えた。

そういう環境に一方では自分も甘えているのかもしれない。

怒れなかった自分に絶望した。

怒りが微塵も伝わっていないこと。

そもそも、怒りが伝えられないこと。

 

自分が信念をもって、真摯に何かに取り組めているという自負は?

もっと頑張らないといけないんじゃない?

バーンアウトではなくて、怠けてるだけじゃない?

「頑張る」という言葉は好きではないのに、頑張るって言うのは矛盾だな。

本当に辛いことは、しばしば言葉にできないと思う。

だから「頑張らなきゃ」とか「大丈夫」とか言うんだと思う。

自分なりの問い方、議論の場のあり方、暴力を再生産させないための、安心安全の場のつくりかた。

考え続けていくこと、学び続けていくこと。

まだまだ、掘り下げて、内省する時間も必要だ。

やり方はいろいろあると思う。複数のやり方を探す。

誠実さは言葉や態度によっても示されるものだと思うけれど。

誰にも何も話したくなかった、長いあいだ言えなかったこと。

なんとなくごまかしたこと。

抑圧されたもの、対象化されたもの、揶揄されたもの、矮小化されたもの。

そのひとつひとつ。

さまざまなことを放り投げて、自分の身勝手な憶測と妄想の中に落ちてしまっていないか。

私は今まで何のために何を「頑張ってきた」?

そもそも何を?ってもう一度、問うてみよう。

m.

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