『灰と夢』


『灰と夢』

 

空我さんはとってもいい人だ、とルイスは思う。ギリシャから押しかけた僕のことをろくに理由も訊かずに受け入れて一緒に家に住まわせてくれているし、バカみたいに押しつけがましいこと(恩着せがましいことも!)を言い立ててこどもをねじふせようとするような大人でもない。

ルイスは今年の八月に日本で17歳の誕生日を迎えた。昔からの知り合いが誰も周りにいない環境というものは気楽という以上にルイス自身にとって大きなチャンスのように思われた。

でもルイスは空我さんに言ってないことがいくつもあった。ルイスは毎晩夜中に焚火をしていた。一人ではなくてつるんでる仲間と一緒に、公園でも海岸でも毎晩要らない木くずとか雑誌とか段ボールとかお菓子の空き箱とか燃えそうなものをかき集めて海辺で火を焚いた。夕方になって水平線が染まっていくのをみているとルイスは無性にわくわくした。もうじき焚火ができると思って自分でもおかしいくらいに待ち遠しくて興奮してしまう。

待ち合わせ場所にはいつも洋太が一番乗りで来ていて、今日も例外ではなかった。

三々五々連絡を取り合って駅前のガード下で待ち合わせをするのは店舗の入っていない大きなガラス張りの空きテナントの前だった。

洋太がダンスの練習をその前でするのにちょうどいいらしくてだれも反対したりもしないから自然にいつもそのあたりで集まるようになった。

洋太は顎と鼻にピアスをして前は赤っぽいドレッドヘアをしていたが今は「一周回って」ほとんど坊主に近い短髪だった。いつもオーバーサイズの派手な色のTシャツとだぼだぼのジャージを着て鏡の前で練習していた。秀冶と武史はまだ来ていなかった。

ルイスがはじめて秀冶と知り合ったのは近所のバスケットコートでバスケの練習をしているときだった。ルイスはその日、実家にあったバスケットゴールが懐かしくなってそのバスケットコートでダンクシュートを決めたり一人でドリブルをしたり壁にボールを投げたりぶつけたりしてパス練的なものをしたりしていた。

最初は確か秀冶が声をかけてきたんだと思う。

「あのー」とその顎が四角くてがたいがいい、髪が肩まである秀冶が声をかけてきたときは、何の用だろうとルイスは反射的に思ったから、一緒に練習してくれませんか?と言ってくれた時には意外だったのと同時に胸の奥からふつふつとよろこびがこみあげてくるように嬉しかった。秀冶はすごくバスケがうまかった。彼の手にかかるとボールは何か別の物体になったみたいだった。ルイスは秀冶がドリブルをするときのあしの切り替えをするときの鋭角な動きが好きだった。

いつも白いTシャツを着てジーパンをはいた秀冶とルイスは汗だくになるまでボールを追いかけて、シュートを決めたら声が涸れそうになるくらいの声をだして笑って、ボールを取られたら顔をしかめて腕を振って悔しがった。学校が終わるとルイスはそれから毎日その夕方のバスケットコートに通った。

秀冶とルイスはその日いつものようにバスケの練習をして、コートの端にあるベンチに並んで腰かけていた。

いつものようにルイスはじゃあまた明日ねと秀冶に言って帰ろうとした。不意に「ルイスも来る?」と秀冶は言った。汗を拭くためのタオルが、濡れて光る髪の襟足を覆うように秀冶の首にかけられていた。

何のことかわからないので「どっか行くの?」とルイスはきいた。

「これからみんなと合流するから一緒に来なよ」という秀冶にルイスはついていくことにした。

そうしてルイスはみんなと出会ったのだった。

駅からは会社帰りらしい人たちが足早に彼らの周りをなんだか避けるように歩き去っていった。

向こうから手をふって武史がやってきた。

眼鏡をかけて小柄な体の武史はどこか夏休み中の小学生のようでもあった。

右目に武史は眼帯をつけていた。

「今日ここに来るときに天使にあったよ」と武史は言った。天使というのは近くのレンタル映画と音楽の店の店長のことだった。なんで天使というのかもルイスはもう忘れてしまっていたがきっと語呂合わせのたぐいだろう。

「天使げんきそうだった?」とルイスは武史に聞いた。

「よくわかんない」と武史は言った。「見ようによっては死にそうな顔をしていた」とも言った。天使は犬を飼っている。おとなしい一重まぶたの柴犬で「きいちゃん」と呼ばれるとちょっとだけ舌を出したまま顔をあげる馬鹿げた愛想のいい犬だった。

秀冶まだ来ないのかなあと洋太が言った。「また秀冶タイム入っちゃってるのかな」と武史は言った。秀冶タイムというのは彼らがが勝手に名付けているもので秀冶がいきなり自分の世界に入ってぼーっとしてしまうことを指していた。秀冶によるとそれはいつやってくるのかわからないらしい。待ち合わせがあってその前に秀冶タイムに入ってしまうこともしばしばらしく、そうしたとき論理的必然として秀冶は待ち合わせの時間に遅れた。

「いいよ、俺連絡入れとくから、先に行って準備してようよ」と洋太が言って、彼らは海辺のほうへと向かった。

 

以前武史にルイスは空我さんの来歴、および空我さんとの生活の話をしたらなにそれ漫画みたいじゃんと言われた。ルイスは漫画を全然読まないので、そうなの?と言った。どうやら武史によれば空我さんはやばい人らしかった。

「よくそういう超人みたいな人でてくるじゃん。昔は世界を股にかけていたが今は世を忍ぶ仮の姿、的な」と武史は言いルイスはまた、超人?と思った。

武史が何か勘違いしていそうな気もしたがルイスは黙っていた。空我さんは超人なのだろうか?とルイスは改めて思った。

確かに彼は資産家らしい。金融業界での自身の成功をでも空我さんは自分からはほとんど口にすることはなかったし、こう言っては失礼だがいたってごくごく平凡な市民という感じの生活を送っているようにしか見えなかった。住んでいる家は、すごく居心地がよくてルイスはここで一生暮らせると思うほど好きだったがものすごい豪邸という感じではなく、海沿いの非常に気候のいいところに建てられた感じのいい目立たない家という趣の家だ。きっと武史を空我さんの家に連れて行ったら期待と違ってがっかりするんじゃないかとルイスは思った。

もし空我さんの超人らしいところをあえて上げるとするならばきっとあの清々しく澄んだ情熱なんじゃないかとルイスは思った。

秀冶もうすこしで遅れて来るってと洋太がズボンのポケットに携帯電話をしまいながら言った。

洋太って天使に何かもらったことある?と武史が洋太に尋ねた。

おれ?と洋太は若干顔をしかめるようにして、俺はなんかDVDと哲学書みたいなのをもらったことがあるよと言った。何哲学書ってと武史は言い、笑った。なんかあの人の持論みたいで、悩んだら哲学者にきけって言われて、渡されたと洋太は言った。

なやみに効果あった?とルイスは洋太に尋ねた。

なんかあるわけないような、あるような、気が、する。と洋太はいった。

「でも、いまはいまで、ちがうことでなやんでたりする」

彼らは海岸沿いの道を歩いていた。

 

ルイスと洋太と武史は海岸の、いつもの場所にたどり着いて海を道路から眺めた。ルイスはかぶっていたニット帽を目深にかぶりなおした。いつもの場所というのは遊泳禁止の立て看板がかしいで立ったすぐそばだった。近所の廃材置き場からとってきたこげ茶色のベンチを目印にそこにおいていた。武史が意味もなくうおーと叫んだ。

こうしたとき俺たちは野蛮だと思うよと洋太が言った。

「燃やせるものはいくらでも燃やすのにさ、このベンチは燃やさない」それから洋太は少し黙って言葉をつづけた。

「でも、だれかがこのベンチを持って行ったり燃やそうとしたら俺たちは、すくなくとも俺はそのベンチを持っていこうとしようとしたやつを敵とみなして袋叩きにしようとする気持ちを抑えられないだろうな」

境界線は至る所にあったし、どこにもないともいえた。ここからは敵でここからは味方ですというのは満ちては引き引いては寄せる波打ち際を正確に見定めるくらいあいまいで困難なことにも思われた。

それでもいつか誰かやなにかを敵とみなして見定め名付けなければいけなくなったとき、どうしたらいいだろう?そんなことは学校ではひとつも教えてくれなかった。敵というのは敵の顔をしていないものかもしれなかった。同時に味方でさえもそうだ。名乗り合う時、言葉はいくらでも平気で嘘をつけるのではなかったか?目の前の人間を信じる論拠も疑う論拠もいったいどこにあるだろう?

波打ち際には色々なものが流れ着いていた。よくわからないものがたくさんある。流木、ガラス瓶、ガラス瓶のふた、プラスチックプラスチック。空き缶、木の箱。

木の箱?とルイスは思いその箱にかがみこんで手を触れた。ずっしりと水を含んで表面が海水に濡れていた。濡れた砂にめり込んだようなその箱の鉄製の金具をルイスは開けるのを少しためらった。

「おーい」とルイスは武史と洋太を呼んだ。海岸の方々に散らばる二人は笑いながら話しながら歩いてやってきた。なんだ、これと洋太はズボンのポケットに両手を突っ込んだ姿で言った。

「砂浜にめり込んでいたくらいだから重たいとおもうんだ」とルイスは説明口調で言った。それは暗に他の誰かに開けてみて欲しいと頼んでいるのと同値だった。

武史は黙ってその蓋を開けた。ルイスは後ろからその箱の中を覗き込んだ。砂浜に置かれたその箱の中には一切の水が浸みこまないようにアクリルの樹脂でコーティングが施された塊が入っていた。武史は無表情でそのアクリルの物体を割りにかかった。しかしいくら持っているガラス片で傷をつけようとしてもそれはびくともしないのだった。

ゴミくずだよ、こんなの、といって、洋太とルイスが止める間もなく武史はふたを閉めたそれをひっつかんで海のかなたに投げあげてしまった。

あーあとルイスが言った。水平線の手前でしょぼい水しぶきが立った一瞬後には変わらずさざ波だつ穏やかな海面のみがどこまで広がっていた。

 

砂浜で雑誌を集めたり木切れを集めたりするのにはおよそ限界があったので、彼らは廃材置き場に行きそこに積まれている木材だとか段ボールだとかのかなり大きな塊を背中にしょって持って来るのだった。廃材置き場は浜辺の近くに二か所あり、一つのほうは金曜日にそこの全ての物品はどこかへと持ち去られていくようでもう一つのほうは火曜日と木曜日にそこのすべての資材はどこかに持ち去られていった。何らかの「燃えるゴミ」は毎日のようにそこに集まってくるようだったし、理論的に言えばどちらの廃材置き場にいっても資材はおいてあるはずだった。

理論的に?と言って、洋太はその武史の言葉に鼻を鳴らした。洋太はたまにこうして武史のことを少し軽んじたようにからかうことがある。

「武史って難しいこと言うよな」と洋太は言った。

「理論的にそうだと思ったから理論的にと言ったまでだよ」と武史はその洋太の言葉に返して言った。

「どこの資材置き場に何があるかっていうのをそんなに難しい言葉を使って言う必要があるか?」

「理論的のどこがそんなに難しいことばなんだよ?」

「そんな言葉普段使わないよ。少なくともそんな言葉は俺の語彙の中にはないね」

ルイスにはそうして掛け合いをしてる二人が二匹の犬のような動物としてじゃれ合っているようにしか見えなかった。それはいっそ幸福な景色とも言えた。

小さいころにみたマリオネット劇場のことをふとルイスは思い出していた。そこでは羊も牛も犬も操り人形として幕の上がった舞台上に登場していた。

荒れ狂う風の中でとうとう二人は取っ組み合いを始めた。それはまさに二匹の犬そのものだった。やれやれとルイスは砂浜の上を転げまわる二人の姿を眺めながらため息をつく。彼らの着ているノースリーブのパーカーもTシャツもニット帽も頬も腕もすべてが砂にまみれていく。

そこにやっと遅れて秀冶がやってきた。ルイスは秀冶の姿をみとめてほっとする。秀冶のこのいるだけで周りの人をほっとさせるたたずまいとしか呼びようのないものはいったいなんなのだろうとルイスは思った。

黒の大きなシルエットの秀冶の与える姿のほとんど安心感としか呼びようのないもの。

「ごめん遅くなった」と少し間延びした声で手を振りながらやってきて秀冶は言った。「兄貴の手伝いしてたら遅くなっちゃって」と秀冶は背中にしょった巨大な手提げを降ろしながら言った。

秀冶の兄貴はこの海沿いの近くの店で雑貨屋を経営していた。秀冶よりも十幾つ年が離れていたその人は結構眼光鋭い人で、秀冶とはまた雰囲気が違った人だった。悪い人ではなかっただろうがヨリさんと呼ばれているその秀冶の兄貴のそばにいるとルイスは威圧感を感じて息が詰まったりした。

「俺、秀冶の兄貴と一緒にいるとなに話していいかわからないよ」とルイスが秀冶と一緒に煙草を吸いながら言ったとき秀冶は少し困ったように笑いながら、「でも兄貴にもけっこういいところあるんだぜ」と言った。

雑貨屋はサーフボードと古着とを主に扱う店だった。秀冶の兄貴には商売の才覚があるらしくその店には連日客が途切れることなく見かけられた。海沿いの雰囲気を売り物にするのには需要があるのだろうか、テレビの取材が入っているのに出くわしたのも一度や二度ではなかった。

ルイスは自分でも幾分身勝手だとは思ったがその秀冶の兄貴のやり手な感じがあまり好ましくは思われなかった。

それでも秀冶は「兄貴でもコンプレックスはあるんだよ」と言った。ずっと克服するためにあの人は自分の苦手なことばっかりやってきたと。

秀冶の兄貴は髪を後ろで伸ばして束ねていた。口ひげを生やして秀冶と同じかそれ以上に背が高くて肩幅があった。いつもラフな格好をしていたがルイスにはそれが板につきすぎているように見えた。

「ねえこの人たちは一体何をやっているの?」といまだ砂浜の上を取っ組み合って転げまわっている洋太と武史を見下ろすようにして半ばあきれたような愉快そうな声で秀冶は言った。その深くて温かみのある少しかすれた声にルイスはやはり安心してしまう。

「焚火はどうなったの?」という秀冶に向かってルイスは無言で肩をすくめてみせた。

しばらくして砂まみれで立ち上がった二人を交えて彼らは廃材だの段ボールだのをふたたび浜辺に運んだ。もう結構あたりは薄暗くなっていた。秀冶は店から大量の布の切れ端を持ってきてくれていた。それらの布のあざやかなプリントの色彩が眼に染みた。彼らは出来るだけ高く布だの板だの段ボールだのを積み上げることに全力を費やした。彼らは彼らの城を作っていた。それも住むためのものでもなく、砂の城でもなく、燃やすためにだけうずたかく積み上げられようとしている燃えるための紙と木で出来た城だった。

秀冶はさっき立ち寄ったドラッグストアで買ってきたというワサビ味の柿の種の小袋を皆に手渡した。彼らはその柿の種をポリポリとつまみながら三矢サイダーのビンを打ちならせて乾杯をした。本質的に、とルイスは思った。本質的に僕は今日の祝祭を求めている。それに飢えているといってもいい。充たされたとしてもそれは一瞬だ。すぐに次の明日のひらめきが必要になる。刹那的なことは生きることを感じさせる。それはいまこの瞬間だけの輝きとみずみずしさだった。

着火するのはいつも秀冶だった。だから僕たちには秀冶が必要だった。それは象徴的なものとしてそうだった。

使い古した安物のライターを秀冶の指先が操るのは黄金の儀式だった。その指先がライターの蓋をはねあげる。やがて暗闇に小さな炎がたつ。それはまわりをかこむ人間の視線の先に見つめられている。それは戻りようのないはじまりの炎だ。それは夜風の吹く砂浜の青年たちの吸うのと同じ空気を食べて燃えている。秀冶はそっとその炎を積み上げた木と紙類の下に差し入れる。炎はすぐにはうつらない。それはまるで炎を広げていく真の意思を試すかのように若干の時間差を要する。それでもまず薄く無防備な屑紙がその炎のさ中にゆっくりと一体となり身をよじらせて陥落する。ついでそこから伝った炎は段ボールの茶色の紙の表面をなでるようにしてその舌をひらめかせていたがその波打つ断面のすきまから侵入することに成功しやがて内側から静かに音もなくその量隗を食い荒らしもろいものとしてそれを浜辺の砂の上に崩れ落ちさせてしまう。炎は休むまもなく次へと伝う足元を探す。炎はずっと自分の姿を保つものとしての段ボールと紙とを欲しながらもそのつま先はつれない堅固な木材の表面を行き来している。表面がコーティングされて密度のあるその成形された板は一見入り込むすき間がどこにもないかのように堅牢だ。しかし炎はその本能から、自身の揺れる姿を保つために身を捧げない者はいないという確信に駆り立てられるかのようにその板の表面を執拗になめることをやめようとしない。何しろこの世に出てくるのは百年ぶりかもしれず、一度消えたら次はいつ身の浮かぶはめになるかはわからない炎にしてみれば周囲にいる全てが灰になることも顧みようとしないことは当然といえば当然かもしれなかった。あれだけかたく不動のものにみられた木の板も今ではその表面は焦げ付きはじめていた。炎の鉤づめはどんなに小さな凹凸も見逃さずそこに食い込んでいった。

炎はいまやその身体を蘇生した不死鳥のように十全にリラックスして伸び広げていた。炎はいつの間にか非常に大きなものになっていた。炎が無言であるのにつられるようにして青年たちも無言でその炎を見つめていた。日常の夾雑物ははぜる炎の静けさに清められるようにして消え去っていくようだった。

抱えているものはそれが苦しみであれ、その姿を際立たせていくとそれは苦しみではなくなっていくようだった。それは暗闇の中に姿をあらわしていた。

柿の種をぽりぽりとかじる音だけがあたりに響いていた。サイダーの泡は開け放したビンの口から静かに抜けて行った。

何かを語る準備は整っているようだった。

「なあ僕らは気楽に気楽に生きているように見えてきたかもしれないけどそれでも必死にいきてきたよな?」とルイスは確かめるようにして言った。

「俺たちは生き残りだよ」と秀冶は静かに言った。「いつ死んでてもおかしくはなかったよ」

絶望の種は至る所に転がっているから、僕たちは何かを真に受けない技術だけは身に着けてきたようだと武史は思った。今この世界に自分がいなくてもおかしくもなんともないんだと武史は思った。

「自分のことを本当に嫌い抜いて来たあとにやってきたから、自分を変えずに何かをしようとできているのかもしれないな」と洋太がつぶやくようにして言った。

譲歩することはそれが本質的なことであればあるほど長くは続かないとルイスは思った。そのこらえたしわよせは後々やってきた。そうならないためには話し合うしかなかった。そうしたことを話し合うほど難しいことはないようにルイスには思われた。

「自分の過ちを認めることがなければ常識という悪い癖を捨て去ることは出来ないのかもしれない。少なくとも俺と俺の父親との関係はそうだったし今も変わらずそうだ。それはきっと変わることがない」と武史は言った。

なんて奇妙なことだろうと洋太はそう言う武史の顔を盗み見るようにして思った。彼を育てた家庭料理のスープやカブの煮物や肉料理と言ったものの愛情深さは彼のこうした固着した考え方をとめるためにはものの役には立たないというのだろうか?

「自分の人生を投げやりに生きない方法なんてわからないよ、いまだに」と秀冶は言った。

「誰も若者だったときのことなんて思い出そうともしないし、それなのに誰もが自分が今も若いつもりでいて、いつまでも若くいようとあがいている。大人なんていない。大人なんてどこにもいないんだよ。向き合うに足る人間なんてどこにもいないんだ。いたるところに醜い景色がひろがっている。人間はいまや食い物だ。誰かが誰かの欲望のために食いちぎる無固有の肉片に過ぎない。若者はそこで最下層のカーストだ。誰も若い人間の言葉に耳を傾けようとはしない。耳を傾けるのは営利が絡む時だ。若さが金になる時だ。無責任な奴らがこの社会を構成している」

小さな炎が秀冶の顔を照らし出した。やがて煙草の匂いが暗闇に波の音と交じって漂ってくる。

「可哀そうだとおもった瞬間に足が止まる。足が止まることはすなわち死を意味する。だから何かを考えてはいけなかった。何も感じてはいけなかった。なぜそうしなければいけないのかを探ることは時間の無駄に他ならないとみなされた。だから俺たちは麻痺して歩いていた。そこら中に麻痺した頭と心と体の囚人がなにも見ない眼をして都会の雑踏を歩いている。囚人は自分が囚人だということを知っている。俺たちは自分たちが囚人に他ならないことを知ろうとしない。それらのヒントは巧妙に常にすでに隠されている」

「俺たちがもし囚人だとしたら」と焚き火の淡い灯りに照らされた秀冶の顔をみながらルイスは言った。「俺たちはどうやってそうであることをやめられるんだろうな?」

「きっと麻痺をとめるのに魔法なんてないんだろう」と秀冶は言った。

「僕たちは麻痺した状態に慣れきっている。麻痺から出るために自分を傷つけようとするのはもうやめなければならない。戦わずしてこのぼくらを充たすものを待ち望まなければならない」焔はいまだ砂の上でささやかな音をたてて小さな火花をはぜさせている。

「俺ですら傷だらけで粉々の破片のように自分のことを感じる」と洋太は言った。「母親が家を出て行った8月10日の午前8時のことを今でも思い出す。彼女の着ていた虹色のサマーニットは俺に無力でなんの役にも立たない子供だましの飴玉をおもわせた。金がなければ大切なものを守れないことを俺はそのとき知った。いくら人間性に欠けていようが俺の生物学上の男親である男のほうが金を持っていることは事実だった」

「君は四歳で社会の風にさらされて社会に登録され公共の者となった。その経緯を君は幾度も僕に語ってくれた」とルイスは言った。

「君の痛みは僕にはわかりようもないし癒えない傷もこの世にはあるのではないかと思う」

「時間はひたすらに過ぎていく。穢れも業もなにもかもまとめて引きさらってゆく」

「気楽にやろうぜ」と武史が言った。

「俺はどんどん駄目になりたいと思うんだよ。それもしばしば。わかるか?俺のその気持ちが?」とルイスは言った。

しばらく暗闇の中に沈黙が訪れてやがて秀冶が吹き出すようにして笑ったのがきこえた。

「わかってやりたいよ」

ぼくたちはきっとこの海辺でなにかを学んだのだろう。朝陽と夕日のはざまで波の打ち寄せる土地に住むとはそういうことだった。

足の裏は砂でじゃりじゃりだった。

けっしてわかりあえないとはわかっていても近づきたいとねがってしまうのはなぜだろう。触れたいと願うほどに不確かさはましていくばかりであるのにもかかわらず気持ちは気持ちをはみ出してはちきれてそこらじゅうにとびちってしまう。何もかもが溢れだしてしまう。それは消えることのない叫びだ。暗闇に果てしなく吸い込まれていく。それは今もそこにある。いまここにある現実として、最も重い沈黙として。叫び。誰も見向きもしないまま殺されていった無名のものたちの。うねっている。どこまでも遠く、砂浜は果てしなく暗闇とひとつだ。それは誰かの涙を誘う。ただ物質としての涙を。匿名の誰か。今生きている誰か。けっして生きることのできなかった誰かの生。唐突に切断された誰かの生。一度も生きられることのなかった生。死以前の生。死ぬことすらない生。生きることを明かすことなく、ただただそれを受け入れてゆく生。ひたすらに耐えながら。幸福そのものとして端からは見なされながら。

何かの予感が彼らの周りに漂いうごめいていた。それは記憶が気持ちを掻き立てる様子に似ていた。それらのドアは彼らの周囲に口を開けようとしていた。それらは開かれれば消えることのない扉だった。

「俺はもともとしつこい人間だと思うんだ」と洋太が言った。

「それ本気?」とルイスが言い、「知ってる」とサイダーの瓶を砕いてとりだしたビー玉を舌の上で転がしながら武史が言った。

「俺小学校のころから洋太のこと知ってるけど、変わってないもん、洋太」と武史は言った。「俺、最初洋太のこと恐かったもん。下手なことしたら殺されるって本気で思ったもん」

小学生の中にひとり物騒な子がいると入学式の前から保護者の間で噂になっていた洋太。人間は柄が悪いくらいがちょうど自然だと思っていた武史は洋太と馴染もうとすることもなく馴染んでいた。なにしろ子どもたちに対する大人たちの壊れた人間性の数々のほうが崩壊世界の様相を呈していてよっぽど過酷だった。いつも、どの現場でも、生き物は多少物騒なぐらいでなければ己の身を守れない。

洋太のダンスがルイスの脳裏に浮かんだ。洋太の眼。アンドロイドみたいな眼。洋太は今までに何回死んだのだろうか。何度凍えた後に気まぐれに差し出される毛布にありつき、また寒空に放り出されたのだろうか。彼はいつも何かを投げ出して踊っていた。きっとそうだ。投げ出すに足るものは命だけ。本当はその仕種のことを踊りというのだ。死ねばいいのだ、何もかも。いや死んではいけない。なぜ?もういらないのだ、なにも。なにも報われることはなかったのだ、最初から。最初から、好きにやればよかったのだ。笑っている。洋太に特徴的な笑い。本当にかわいらしい。赤ん坊よりも可愛らしい笑い方。みんな笑顔にならざるを得ない笑い。本当はそんな風に笑えてはいけないのだ。だから、それは悲惨なことなのです。教科書にはそう書いてある。たくさんたくさん笑われた人にしかできない笑い方なのです。悲しいことだろうか、それは?でもそうわらっているんだから仕方がないよね。みんな笑顔になってしまう。でもなぜだか胸がつまる。彼の才能、と人はそれを呼ぶ。要らないものを、本当に必要なものとはべつのものをいっぱいいっぱい人が褒めてくれる。そんな風に笑っても笑わなくてもいいのに。どんな風であっても、洋太は洋太なのにね。彼は投げやりになることを超えて踊ることを始めたかのようだった。それを見ているたいていの人間は反射的に身を引き、端的におびえた。洋太が全てを切り捨てるのはとても簡単だっただろう。それでも彼はどうやらそうしなかった。

洋太の前で人は身の程に応じて口をつぐんだ。

いつか何かを許せたとき、むなしく過ぎる日々は一つもなかった。

それぞれの存在に可愛いところがあることを洋太は知っていた。

それくらい人は可哀そうな存在だった。きょとんとしながらも流されて思い知って何かを身に背負いながらいつのまにか抜き差しならない場所にいた。

人はいつのまにか二十歳を迎える。そしてチーンとベルがなってトースターの中から飛び出る焼け焦げたパンのように訳も分からぬまま世間へと飛び出していくのだ。

彼の住まいの近くの角の銀行のガラス張りのショーケースのなかに街路に面してたくさんの小さなウサギのぬいぐるみが置かれている。そこはふわふわとしたフェルトの木や家がところどころに置かれ背景は森のようだった。たくさんのウサギたちは皆一緒にいて幸福そうだった。洋太はそこの角を通りかかるたびに帰る場所もなくどこかに帰りたくなった。誰かに会いたくなった。誰もいなければどれほど大きな声でも泣けるだろうかと彼は思っただろうか?子どものように誰かにすがって泣けたらどんなにいいだろうかと思っただろうか?洋太はいつも通り無表情でそこを通り過ぎる。

こころのなかで自分もウサギになって彼らに、またね、と言いながら。

「ダンスすれば俺もかっこよくなれるかな?」と武史が言った。

「それは心持ち次第ですからね」と混ぜ返すようにして秀冶が言った。

「迷っても前に前に進んでいかないとね」と砂浜に寝転がっている様子のルイスのくぐもった声がきこえてきた。「勇敢だなあ」とこんどはからかうような武史の声が聞こえた。

僕たちはなんだか全てが名残惜しいし朝陽を待ちわびているような気もした。

いつでも勝負は一瞬で、その一瞬に全てを決めてしまわなければならなかった。それが勝負というものに対する礼儀でもあった。

秀冶がその大きな身体を火のそばに寄せた。穏やかな静かな顔の陰影がルイスには見えた。

美しい旅人たちは歌を歌うだろう。どこでも彼らにとっては旅先のようなものだったから、海であろうが街であろうがかすかにでも歌声が聞こえてくるのはなんら不思議なことではなかった。

若いということはすべからく旅人のようなものであった。

根無し草であったとしてもそれは楽しげだった。

愛情と相似形の焚き火がその日、大きな薔薇の花弁のほどけるようにゆっくりと、一人一人の眠りのただ中に真紅の深みに沈み込むようにして音もなくかたちもなく崩れ落ちていった。