Monthly Archives: October 2018

[:ja] ランゲージビヨンド 第6回 10月21日 「香港パク」 [あらすじ(さわり)] 理不尽な社長の下、出版社で働く主人公と同僚たちにとって、「香港から船が来れば大金持ち」と嘯き、 怒られても不敵な笑みを絶やさないパクは希望の象徴になっていく。しかし、何年か後、摘発されTVニュースに映った密輸団の中にパクの姿があった。主人公の気持ちは複雑に。 [対話] 選者から「何とも暗くて、引っかかりのある文体」というコメントで話が始まりました。 韓国文学は読む機会が少なく(多くの参加者がそうであった)手探り状態で対話をしていく中で ・当時の韓国の国情を表している 経済破綻(IMF危機)の前であり、張り子のトラのような経済状態への不安の反映ではないか ・パク(食わせ者に見えるが)への希望(メシアとの表現がある)はその表れか キリスト教の信仰は強いのか・・土着宗教と一体化した現世的信仰 韓国訪問時に教会の十字架が光っているのは不思議に思えた ・パクの人格が変わったのは徴兵以降との記述があるが、何があったのか 光州事件との関わりがあるのか、光州事件は今でも韓国社会に影を落としている ・一方で主人公は、世間とは距離を置いて冷静に生きているように見える ・この状態は今でも変わっていないはず ・グローバルな視点を持つ友人でも、就職に関しては大企業志向で保守的 など、国情や社会の雰囲気と結びついているとの解釈が進みました。 一方で ・現代の中国文学にはこんな暗さはない ・アジア文学が日本でマイナーなのは、大学の主流が欧米文学のせい など、アジアへの興味も促されました。 「コンビニ人間」 2時間以上に及ぶ、この読書会で最も長時間の対話となりました。 [あらすじ(さわり)] 人格障害から社会に溶け込めない主人公にとって、人もシステムも機械と化したコンビニの一部になり働くことは、社会の一部と認識されることでの安心感があり、18年もアルバイトを続けていた。 ところが、反抗的な新人アルバイト(白羽)の登場により、その世界が崩れていく。 [選者から] ・一見、アスペルガー(発達障害の1種)を自覚する主人公が、機械のようなコンビニに順応して 生きる話に見えるが、いろいろな視点がありそう ・この会に来る人は主人公に同情的と思えるが、別の視点も知りたい とのコメントで始まりました。 [対話] 「主人公は分かる」という意見が大勢を占める中、いろいろな面へ広がり、深まりをみせました。 ①内面(人間的)な考察 ・周囲(現状の社会)に抵抗せず冷静に生息場所を探す主人公に対して、怒り反抗する白羽のスタイル は対照的。物語がそのことで展開していく ・周囲は主人公を金魚鉢の中を見るように見ているのだろうが、一方で、金魚鉢の中から周囲を見る ことも実は同じではないのか ・主人公は自分を中心に(自分の世界を)組織化できない。 そのために周囲に秩序ある存在を求める。その対象がコンビニ。 ・主人公は成長しない。 いろいろな事態が起きるが、常にワンパターンな対応をし、同じことを繰り返す。 それで、救いがない物語になっている。 ・一部にハッピーエンドとの意見もあったが、課題を残した終わり方との意見が大勢 ・(あちらとこちらを)分けへだてなく見て直言する白羽の弟夫人は貴重な存在ではないか こうした問題への解かもしれない ②自分の経験に即して ・周囲に同調して生きる人の「自分」とは何だろう。 機械の一部になっているのは同じで、自覚がないのは同じではないか →希薄だろうという感じだが、意見が出ず、分からない ・自分も、少年期には「どこまでやったら周囲がどう反応するのか」を観察しながら生きた ・今も周囲にはこんな人が多いので、読みだした当初は何が面白いのか分からなかった ③社会的な考察 ・主人公はコンビニの店員としては完ぺきである。社会のシステムが機械的、効率的なモノを求める ならその点で完璧な主人公を迫害するのは理不尽だし可哀そう ・社会(この場合はコンビニが代表する)が常に異物を排除し続けるなら、一旦異物を排除しても 新たな異物を作るのだろうか ・機械的なコンビニは日本にしかない。 海外のコンビニは良くも悪くも人間的(店員の感情が出る)である あえて似たモノを探すと、工場か役所だろうか ④文学的な考察 ・「諦めの物語」が多いのは日本文学の特徴に思える この物語も明確な結末やメッセージがない。欧米文学にはそれが必ずある。 [対話全体に対する感想] 多くの視点や深みが出て、楽しかったし驚きです。事後の気づきとしては ・周囲も自分も、動物園だと思って双方を冷静に観察すれば気楽ではないか ・日本文学は「諦めの文学」としたら、村上春樹が海外でも受けるのは、欧米人も疲れてきて 曖昧な内容や結末を求めているのではないか 以上 (牛山) [:]

[:ja] 今回のブッククラブは、「怒り」についての話題から始まりました。最近、某国会議員に対する抗議デモに参加したAさんは、デモの熱が高まるにつれ、自身の「怒り」の対象が当人の行為から当人の存在そのものへとうつっていくことに、ある種のこわさ−−自分自身がコントロールしているはずの「怒り」という感情の向く先がぼやけてわからなくなるこわさ−−を感じたといいます。 今回、私はソル・フアナという作家を選びました。冒頭の話と結びつけて考えるならば、フアナは自分自身の「怒り」という感情を、かなり率直なかたちで表現した作家だと言えます。「怒り」という感情を持つとき、その感情の実体について無反省でいるのは危険です。ただ、それ以前に、フアナという作家にとっては、感情の存在そのものの方が重要だった。自分の中にある感情の実体を、すみずみまで把握するよりも早く、その感情の存在を、ただみとめること。フアナのテクストからは、そのことの重視が強く感じられます。それは、自分が自分の感情を抑圧してしまい、なかったことにしてしまうことに対する、おそろしさのあらわれであったかもしれません。 何の縁もなかったソル・フアナという作家、あるいは手紙という形式を選んだ理由のひとつに、「個人的な物語を語ること」への興味がありました。旧くからある日記や手紙の他に、最近はZINEやSNS等による方法もあります。たとえばZINEは、気軽な個人出版の形態として広まるにあたり、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムのスローガンと呼応していました。それもあり、ZINEにおけるテクストは、社会的な自己ではなく、個人的な自己を始点として書かれることに主眼が置かれています。今回は、そうしたテクストが個人を始点としながらより大きな問題へとつながっていくことの可能性について、ブッククラブのみなさんと考えてみたい、という意図もありました。 ただ、みなさんの色々な意見を聞く中で、それは個人の感情をなかったことにしてしまわないという意味で−−「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを読み手にうけわたす役割で−−重要なのだと気づきました。小さな問題が、より大きな問題−−たとえば沢山の人間に共通するような普遍の問題へとつながっていくか否か、という問いもありますが、それよりもただ単純に、私たちは個人的なものを始点にしてもいいのだ、と・・・。私たちには、そこから話をはじめる権利がある、と。それを知っているだけで、どんなに勇気が出るだろう、と思うのです。シンプルですが、「個人的な物語を語ること」の要点はそこにあるのかもしれない、と思います。 ひとりひとりのうちにある物語は、断片的な論理の中で書かれる、かよわいものかもしれません。それに、脈絡がなかったり、いったりきたりの話になってしまうかもしれませんね(フアナが、自分の詩は万全の状態で書かれたものではないのだといいわけしていたのを、なんとなく連想します)。・・・だとしても、だとしても・・・三百年前にフアナの抱いた怒りや、「学びたい」という感情を、抑える権利は誰にもありません。もちろん、フアナ自身もそれを抑える気はありません。・・・いきいきとした文章から、彼女の声が聞こえてくるようです。「ほら、私の情熱を見て。世界は広い」と。 藤田[:]

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