[:ja]書のワークショップで作った作品[:]
[:ja] 「公差転で行われた書のワークショップで創った作品。テーマは「木」です。」 [:]
[:ja]『詩(詞)・心情1』[:]
[:ja]公差転のメーリングリストに表現する文章を考えるにあたって、 書きたいこと、表現したいことは山ほどあって何を題材にしようか悩みましたが、 やはり、視力矯正の不具合を抱えていて本当にやりたいことが充分にやれないことについて、やりたいのにやれない悔しさや惨めさや怒りや後悔や憤りについて、 このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ! という想い… (ちなみに今この文章をiPhoneのメモパッドで打っているのですが、 特に、 「このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ!」 については手書(描)きで思いっきり書(描)いてみたいなと思いました。)について語りたいと思いました。 本当は好きな音楽や映画や漫画やゲームについて書いてみたいという気持ちもありますが、今の僕はそれらのことが充分に楽しめず、それらの素晴らしさについて文章で表現することが充分には出来ないため、 やはり視力矯正の不具合を抱えているため、やりたいことが充分に出来ないんだコンチクショー、テヤンデばろっチクショーという想いを語ることから、まずは始めたいと思います。 自分の本当の気持ちを音楽や小説や漫画や映画など、創作物でさらけ出して表現することは実生活でさらけ出して表現することよりは容易いと思う。 だから、自分の本音をさらけ出した創作物は世の中にたくさん存在するのかもしれない。 でも、僕はそこにリアリティーを感じない。 訴求力を感じない。 昔の僕はそこにリアリティーや訴求力を感じ、意義を見出していたかもしれないが、 少なくとも今の僕にはツイッターやフェイスブックなどSNSでの直接的な表現の方が、もしそこで本音をさらけ出せていたのなら、 勇気を感じる。 様々な困難を抱えた当事者の集まりや、世界の片隅にあるブログでの名も無き叫びの方が。。。 僕が19歳の頃、 漫画家になりたいと思ってデザインの専門学校に通うと思ったが、辞めて、紆余曲折を経て法律家になりたいと思って大学の法学部に進学した時も、そんな心境に近かった気がする。 僕はどこかでアーティストと名乗って創作活動をすることが卑怯な行動だと思っているのかもしれない。 卑怯…もしかしたら、 「物足りない」という感覚か…。 でもアーティストと呼ばれる人の中には自分の顔と実名を出して作品を創作し発表し、ある程度の社会的責任を負って活動している人もいる、と思う。 だから、もしかしたら、 創作物を媒介するかしないか、という分け方は本質的ではないのかもしれないが、やっぱり「表現の場」として用意された場所での表現は、物足りなく感じてしまう。 といっても、このkosaten magazine も、 見事に表現された場で、 僕のこの表現は余りリアリティーや訴求力が感じられないものとなっている可能性がある。 自分でもぶつけたりていない、 物足りない、 人に好かれたいと思っている自分、 表現っぽい表現を選んでいる自分がいる。 ぶつけたい。。 叫びたい。。 公差転回に集まる人たちよっ… 父よ、母よ、妹よ… オレの思い通りに動けっっっっっ! と叫んでやりたい。 少し疲れた…。 所詮こんなの本音じゃない。 ここまで書いて何となくこれは書いたり言ったりしたらマズイだろうと思う文章は削除したい。 だからきっと、 残された文章は無難なものになってると思います。 楽しんで頂けましたでしょうか? 今度このような場が与えられたら、 もう少しきっと、 本当の本当に本音が語れるように、 人々に希望が与えられるような文章を書きたいと思うので、 楽しみにしていてください。 世界中の皆んなが幸せになりますように、 心よりお祈り申し上げております。 井口[:]