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[:ja]沈黙と暴力   kosatenの暴力構造について話し合うつもりでしたが、その構造によってそのことができませんでした。 差別的な発言、偏見、マイクロアグレッションはどこでも起こるのですが、起こった時周りの対応がとても重要です。Kosatenではその対応が十分できていないのです。 目の前でハラスメントなどが起こっているのにそれも止めることができない。黙ってしまう文化をどうやって壊せるのでしょう。何でここまで暴力を許してしまったか? 何でここまで暴力を越してしまったか?   Kosatenって? 私は5年間以上、kosatenの運営と関わってきました。最初の頃は少人数で、近所の方、遠くからいらっしゃった方、さまざまな年齢、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍、アビリティ(障碍)のある方が立ち上げて、コミュニティの中で表現と対話を重視するパブリックスペースとしてそれぞれの「違い」を共有し、社会的な変化につながるような場所を作ろうとしました。個人の望みとして、この場所ではそれぞれ関わる人が自分の主体性を活かして、中心がない、オープンで、有機的に展開するチームとして一緒にこのスペースを作っていくことを目指しました。社会においてさまざまな抑圧を受けている人たちがこの空間で自分の居場所を見出して、連帯する可能性を掘り探ることを願いました。   パブリックとコミュニティ Kosatenが始まる前でも長い間「パブリック」と「コミュニティ」の意味についてよく考えてきました。人間関係の中でよく安全な距離を取る者として、複数の人と共に存在する空間は怖くて、興味深いです。長くパブリックスペースを政治的な主体性として捉えて、コミュニティが共存のことと思いました。(権力によって支配されているスペースと塀に囲まれている生活でないです)パブリックは活性化するスペースであり、アクションを起こして独創力を活かす場所で、様々なアイディアや違いが衝突するところです。コミュニティは日々の暮らしで取り組む人間関係のネットワークであり、理想としてはサポートになる繋がり、近接や共通点によって生まれるものです。 パブリックとコミュニティは社会の基盤となり、理想化もされ、集団への楽観主義もある一方、矛盾でもあり、不可能なところもあり、非常にリアルな危険性もあります。パブリックはただのパフォーマンスになり、コミュニティはサインしたくない、押し付けられた社会契約になる可能性もあります。どんな人間の集まりでも権力の政治が生じ、全体主義とその他の暴力の恐れもあります。残念ながらkosatenではこの後者のほうがもう頭をもたげてきました。 都市開発や行政による「パブリックスペース」は誰に対してもオープンな場であるはずなのですが、ルールに沿って、制限の中でしかアクセスできなくて、自分の主体性やパブリックを生み出す想像力を縮小することにつながることもあるし、条件によって完全アクセスできない人もいて、そのこと自体が暴力になります。個人と集団の主体性を活かすためにある制約・権力に対して抵抗することが必要です。権力・暴力に対する抵抗自体が自律(オートノミー)への折衝であり、パブリックの本格的な姿と言えるでしょう。あるルールや規制を問いかけることで自分自身の立場を見出して、表現することも可能になるのでしょう。 それにつれてパブリック性は見られること・可視性でもあります。最近の世の中の出来事が強調するように、人によってパブリックスペースにいるだけでその人自身が非常に不安全な状況に置かれています。「パブリックセーフティ」の名前で暴力が常にお越されて、特権のある人のセーフティが優先され、「不都合の存在」への暴力が当たり前化され、結局パブリックは暴力への鈍感化・無関心・忍耐になってしまいます。   パブリック「公」は実際にkosatenの名前に反映されています。Kosatenの根本的なあり方の重要な軸となっています。誰でも自主的に作りあげられるスペースで、ヒエラルキーを壊すオートノミー、日々の生活に溢れる抑圧に対する抵抗、マジョリティーがない、ただ複数性のある、さまざまな異なる存在のあるスペースを目指しています。フェミニズムの原理を重視して、さまざまな差別と抑圧と闘うこと、暴力への抵抗自体がパブリックであることという想いもありました。提供された公園のように何ができるか何ができないかを指示するルールの長いリストもありません。私はルールが大嫌いです。ルールは曲げて、破るものと信じています。ただし、お互いのリスペクトと理解のために、それぞれの違いへの意識や配慮する環境も作ろうとしていて、「お互いを尊重するために」の宣言も作りました。ただ、この宣言があっても数えられないほどkosatenでお互いの尊重を捨ててしまうことが起こってきました。   表現の自由と民主主義 パブリックは民主主義の用語でもあります。ザ・パブリック(公衆)は市民であり、ある自治体、ある国にいる人であり、市民権、選挙権にもつながります。パブリックスペースは「ザ・パブリック」に宿われている空間であり、公衆の意見が可視化される場所であり、政治のディスコースが行う拠点でもあり、「選択肢」が勝つ場でもあります。 ただ、民主主義はすべての人に公民権を与えるわけではない。声がない人が置かれてしまい、一番大声しか聞こえない状況もあります。必ず排除されてしまう人が出てしまいます。よく「民主主義のために」根本的に反民主主義的な行動が起こされています。デモクラシーの原理の一つとして誰でも自分の意見が言える、自由に自分の考え方を表現する、どんな思想でも正当性があり、言語化される「権利」があるという立場があると思います。 しかし、「表現の自由」(また消費する自由)はよく何もより優先され、自由とデモクラシーのすべて象徴するものとして取れあげられています。人権、正義、尊厳、事実、参加度などなど他の側面あるのに。この自由がすべてであれば人を傷つける意見、他人の存在自体を否定する立場、他人の基本的な権利を奪う考え、他人のジェンダー、セクシュアリティ、人種、国籍、障碍に関して決め付ける発言を自由に発声してもいいというスタンスになるのでしょう。そんな自由と民主主義を求めているでしょうか??   脱中心化 権力によって提供されて、支配されたパブリックスペースに対して深い不信感があります。この社会において「平等」はただの夢だと思いますが、ヒエラルキーを解体し、同じレベルでお互いに向き合い、脱中心化することがある目的になります。リーダーがいなくても方向性が生み出せることを信じていたのですが、不透明性、コミュニケーションの問題、パワーの蓄積、また「お任せ」の精神の結果として少ない人数が「権力」となり、kosatenの政治は二心になっています。 パブリックは不特定な開放性で定義できない、コントロールできない存在が「同じ空間に共存する」「同じスペースへのアクセスがある」。次の瞬間誰がドアから入るか、誰がとなりにいるかがわかりません。恐怖と容疑ではなく、好意と信用が必要ですが、自分の人権が面白く議論されている場合その好意は無理でしょう。誰かがストップをかけないとどんどんその痛みが深刻になり、もう自分の居場所がなくなってしまいます。     そのままでいい? 閉鎖的な空間である自助会では言いっぱなし、聞きっぱなしのルールもよくあります。このルールによってそれぞれ参加者の経験を受け止めて、今まで普段なかなか表現できないことを安全に表現できる環境が整えます。この場合批判や議論はウェルカムではないのです。しかし、自助会ではなく、複数のアイデンティティや背景を持つ人が集まるスペースで同じ規制を当てはまると攪乱した結果があります。何でもありということです。愛国主義的な発言、反移民的な意見を表明してもいいわけです。それを聞きっぱなしできるかしら? お互いを寛容する場もほしいです。日常の社会における圧力をよくわかるからです。外国のルーツのある人、LGBTQのアイデンティティを持つ人、障碍のある方が直面してきた抑圧はある程度直接に経験したこともあり、よく想像できます。自分のありのままでいられる場所、自分の存在はジャッジされない場、ステレオタイプが押し付けられない空間、他の人の満足感のためにラベルを張らなくてもいいスペースを探してきました。その場所はBE存在する・いられる場所です。自分らしくいられるBE myselfできる場所です。 しかし、自分ありのままいながら、BEINGしながら、BEING Together 他人と共にいることがあり、自分の言葉・行動によって周りの人に影響を与えます。幸せな無知への無制限の許可があるわけではありません。誰かに傷をつける時にコールアウトされることの免除がありません。自分の言動が批判の対象にならないという保証がないのです。 何か批判があってもそれは自分のBEING存在するに対する批判ではなく、その存在から発生する表現(他の人のBEINGに強く当たってしまう表現)が対象となります。ケアとリスペクトを込めて批判することがもちろん理想的なのですが、あなたの発言で直接に影響されている方、話題の対象であり、あなたより強い繋がりのある方がいる時、そのなりの痛みがあり、威厳を込めて立ち上げようとする時、感情も強くて、いつも丁寧に礼儀に正しい声で話せることが難しいのです。このような状況の中のトーンポリシングはただ自分の特権を主張することです。   特権 私たちの特権によってお互いの弱さが見えなくなってしまいました。特権を意識することが非常に難しいのです。なぜなら、特権は生活の中で考えなくても進むこと、意識しなくてもいいことです。自分の特権を失う可能性がある時に直覚的に特権を守ろうとしてしまうことで特権の存在が少しでも見えてきます。人種、国籍、言語、ジェンダー、セクシュアリティ、健常者性、階級、経済、教育、在留資格の特権によってその特権のない人が直面する抑圧が感じられないのです。(またもちろん特権と抑圧は同じ人の中で様々な層で重なっているので抑圧されているところしか見えないこともあります) 特にkosatenでは白人至上主義、ジェンダー、健常者主義につながる特権が問題になっていると思います。私自身はヨーロッパにある英語圏の国(植民地主義の長い暴力的な歴史のある国)出身の白人で、日本では安定な在留資格もあり、日本語学習や大学の教育へのアクセスがあり、しようと思ったらシスジェンダー、健常者としてパスできる者として黒人の方、有色の方(people of colour)、G8国ではない国出身の方、第一言語は英語でも日本語でもない方、アクセスしたい教育へのアクセスがない方、シスジェンダーとしてパスできない人・したくない人、見える障碍のある方の経験に対してとても無知のことが多いです。一方移民であり、日本語が流暢ではない、ぎりぎり生活できているもの、メンタルヘルスの問題を抱えているもの、クィアである人としてその事情ではない人の特権がよく見えます。 でも圧倒的に特権が強くて、白人で英語・日本語しか話せない、植民地主義的な目から見る世界で見えるものは非常に狭い視野というかすでに暴力のレンズを通してみていることです。そしてこのような観点がkosatenのようなパブリックな場所で中心となってしまうとそれは権力となり、他人を抑圧してしまうものになります。   権利 特権と権利との大きい違いがあるのですが、よく同一視されています。自分の特権を捨てることは権利を捨ていることと同じことではないのです。いつ黙って他の人を聴くかを理解すること。他人の声が聴聞を受ける権利を尊重すること。社会に生じる様々な抑圧から逃げる・取り組むスペースとして自然に「セーフスペース」を求めることもあるかもしれません。つまり広い社会の中で保護されていない権利を守る場所です。見た目でジャッジされない権利、シスジェンダー・異性愛主義、健常者主義の決め付けから解放される権利、非生産的である権利、今安全が感じないと言える権利、その原因を取り組んでもらう権利です。   ミューチュアルエイド・相互扶助 Kosatenをお互いから学び合う、共に生きていく、お互いの尊重、お互いの助け合い、お互いの権利のために声をあげていく、相互扶助の空間として想像したいのです。一方的な教示、枠付けの生活、相手にいつも頭を下げる、支配的に・従順にお手伝い・支援を与えるということではなく、お互いを支え合うことです。自助・自己責任のレトリックがますます普及することですが、落ち込んでしまう穴があまり多くて、本当に必要なところで公的なサポートが全くなくて、セーフティネットがない世の中でお互いのことに希望しか持ちません。残念ながらkosatenでは「相互扶助」の相互の部分は実現できていないのです。よく特定な人が「ケア」してしまい、その直接な恩返し・返礼を求めていなくても、パワーと依存の関係を構築してしまいます。結果として誰かサポートしようとするとそのこと自体も批判されてきました。   ケア 他人の存在、他人の経験、他人の事情に関心を持つこと。何かを問いかけること。違和感を持つこと。一人じゃないという望み。私がいると伝えること。誰かがやりたいことを実現するために手を貸すこと。誰かの痛み・フラストレーションを少しでも減らしたいこと。誰かに役に立つになりたいこと。他の人が気になってくれるのを希望すること。白人の救世主の精神。(自分の人生の中でコントロールがないから)誰かの人生をコントロールすること。自分の影響を与えること。ホスピタリティ(おもてなし)とホスティリティとの紙一重。暖かいウェルカムで迎える笑顔の中で隠れた「ここは私のもの、あなたのものではない」。私のものをあなたとシェアしますのでえらいでしょう。 ケアがないと生きていけない。 ケアばかりしていて、いつ誰かが私をケアしてくれるかという疑問をもつこと。   でもケアは搾取される場合もあります。一方的なケアを提供して、非常におかしい関係をつくってしまったことがあります。見た目で判断されたジェンダーのジェンダーロールもあまりにも飲み込んでしまって、恥をかかされたこともあります。ここはカフェでもないし、お店でもないし、スタッフとお客さんがいる場所ではないはずなのにずっと相手を楽させるために自分が努力していて、しばらくたってから圧倒的多くのシスジェンダーの男性が自分の慰めのためにこのスペースを利用している状況を気付いたらショックになりました。   自分自身の個人の意見が他の誰かの意見と会わない時、また誰かが要求していることを拒否する時に怒りと告発の対象になって、自分が持っている権力を利用している、この空間の中立性を壊していると言われています。頭を下げて、どんな人の意見(自分が反対している意見でも)にこっくりとうなずいて、「丁寧」に誰かの「愛情を込めた関心」からの抜き道を探して、数時間ずっと誰かの問題について話しを聞いてあげて、要求されていることをできるだけ答えるように努力して、料理をつくって、掃除をして、心地良い雰囲気を作って、笑顔したら何でも大丈夫でしょう。   7・8月はイベントを休んで上記の問題について話し合うことにして、週2~3回ほど内部の勉強会を開いてそれぞれの問題意識を共有しようとしましたが、アカウンタビリティのプロセスがなかなか進めなくて、ますます暴力が起こってしまいました。お互いのジェンダーの問題、エイブリズム、権力主義を指摘し合っても、ちゃんと自分の問題に向き合えない状況が続いて、自分の責任を遁れるために相手の欠点を強調してしまうゲームが止まらなかったです。 コミュニケーション方法によって困難を抱える人への配慮が足りなさ、みんなが自分の感情をコントロールができ、論理的に話せるという前提、誰でも批評が受け止められるという思い込み、情報の処理は人によって違うのにそれを理解していないこと、アグレッシブで上からの目線、感情労働をずっともとめてしまうこと、見た目で判断されたジェンダーによってケアや何かサービスの提供を期待してしまうこと、自分の特権を認識しないこと、自分が違っていない・必ず正しいと強く信じていること、自分の意見を押し付けってしまうこと、セクハラの問題あまり意識していないこと、ジェンダーの二分法を押し付けてしまうこと、自分のパワーを利用してしまうこと、自分の都合がよい方向へコントロールしてしまうこと。。。などなど。   誰かがある暴力の存在を指摘したら、そのカウンターとしてその人自身が暴力を起こしていると言い返されることが多くて、告訴の絶えない循環になってしまいます。その循環の中でそもそも最初に問題とされたことに何も取り組まなくなってしまい、注意を向けられなくなってしまいます。   Kosatenで起こっているマイクロアグレッションと自分の取り組みができなさに対してますます違和感が増え、立ち上げるために周りの人のお手伝いをお願いしたら「細かすぎる」「自分の考えを教え付けってしまう」「もっと仲良くすればいいじゃん」と言われました。その結論であればあなたにとって「心地良い場所」があり、何でも言える、何でもできる、すべて寛容する場所で、きれいごとで済ませる空間でみんなニコニコする場所ができるかもしれませんが、私自身は見えないところで怒りで煮えくり返っています。   暴力 暴力は多様な姿を持つですが、マイクロアグレッションから意図的な加害までが含まれています。ミスジェンダーすること、見た目で勝手に判断すること、見下ろすこと、誰かを対象化することから、相手がやりたくないことをやらせてしまうこと、本格的なハラスメントまで。傍観者としてただ観察して、アクションを起こさないという暴力もあります。この暴力はkosatenで一番よく生じる暴力です。お互いのために擁護すること、現時点いない人のために擁護することができていない状況で、何も言わず言動を流してしまうことです。私自身はよくこの暴力を起こしてきました。   痛み それぞれは痛みを感じている状況。それぞれはその痛みを誰かと共有したいこともあります。それぞれはお互いを傷つけあっていることもあります。そのそれぞれの原因もあります。痛みがあるので他人も痛めてしまう、ニーズが満ちていない状況なのである行動をとるということもよくあります。それぞれのケアとヒーリングが必要ですが、それはすべて一つの場所でできないことです。Kosatenはそれすべてに答えられるわけではないのです。少なくとも「私は痛い」と言いたら、その痛みを与える行為をやめてほしい。   セーフスペースと擁護 セーフスペースは逃げ込める場であり、擁護を提供する場所です。日々の抑圧・差別から距離が取れる場所、周りの人を信頼できる場所。恐怖、屈辱、ハラスメントの恐れから解放されている場所。Kosatenは誰も排除しないセーフスペースを目指していますが、このパブリックな場に入り、ずっと加害を起こす言動を続ける人がいたらどうしたらよいでしょうか?その加害を許すことができないのですが、「もう出ていけ!」「もう来るな!」と言えるのでしょう?暴力に対して立ち上げないとその暴力を可能にして、暴力の継続の責任があります。人の考えを変えることができないかもしれませんが、自分の考え・自分の痛みを使えることができます。自分にとって許すことができないことがある時、 迷わず、はっきり「NO」と言わないといけないのです。 この言葉を口にする準備が必要で、この言葉を自分に対して受け止めるための準備も要ります。あるコミュニティへの無制限のアクセスがありません。誰も排除したくないと思ってもそれぞれを守るためにバウンダリーがないとどんどん刃物で刺しこんでしまうような行為を許してしまいます。永遠に気になる言動のために言い訳をし続けないのです。痛くとも黙って忍耐できません。対立から逃げて、調和をずっと優先し続けられません。丁寧に、哀れみを込めてそれぞれのアグレッション・痛みに向き合って、取り組むことができればいいのですが、必要な時「もういかげんにしよう」を言うしかないでしょう。   この世界で溢れている抑圧で非常に絶望になってしまいましたが、少しでもkosatenでその抑圧と戦うことができるという願いがありました。その抑圧から避難できるところ、軽減できる場所、抵抗する場所で、様々な異なる側面によって抑圧されている人と連帯してお互いサポートできる空間を求めましたが、事実としてはただ抑圧を持続させてしまった場所になってしまいました。   自分がやってしまったこと・言えなかったこと・やらなかったことによってこの状況をつくってしまいました。自分が悪かったです。この状況が続かないように自分に対してストライクしようと思っています。下記のことを取り組まないと今までのkosatenの活動が続けられないでしょう。   *私が自分の意見があり、あなたと合わせなくてもいいと理解する *この場所を使ってきた人たちをより積極的に責任をとる *より多様なバックグラウンドのある人により対等な立場で運営に関わってもらう *みんながアクセスできるコミュニケーション方法をみつけて、決定するプロセスをつくる *それぞれのイベントや活動を企画するチームをいくつかつくる *ミューチュアルエイド・相互扶助に対する理解の基盤をつくる *それぞれの痛み・大切にしたいことを聞き合う *経済的な問題を改善するための取り組み *もっと近所と他のコミュニティとの繋がりを育む *暴力、抑圧、マイクロアグレッションとの闘いへのコミットを確認する *パブリックとセーフスペースの原理を確認する e.o.[:]

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