Category Archives: iguchi

[:ja]『春巻き』 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 昇龍園さんの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 セブンイレブンの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 オリジンの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 麗彩楼さんの春巻きを買って 食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 冷凍食品の春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 立川に行くと、 エキュートに入っている中華屋さんでも春巻きを買って帰って食べている。 RF1でも、時々買って食べている。 毎日買っていると注文する前から、 「春巻き二本ですね」 と聴かれることもある。 店の近くに行くと、 店員さんがピースサインをして春巻き二本ですね、 というようなジェスチャーをしてくれたこともあった。 僕は恥ずかしそうに、 はい、と答えて会計を済まし、 春巻きを受け取った。 料理教室では2回作った。 数ある料理の中で、 何でも選び放題なのに、 世界には僕の知らない色んな料理があるはずなのに、 2回も春巻きを作ってしまった。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 家に持ち帰って食べている。 生キャベツに生卵、 そして、トースターでコンガリ焼いた春巻きがあれば、 僕はとても、 幸せな食事の時間を過ごすことができる。 至福の時だ…。 ビーフシチューもあったら最高だ。 トースターで春巻きをコンガリ焼いてる 時間、僕のテンションは上がりっぱなし。 パンはあまり食べないけれど、 いつか、 バルミューダを使って春巻きをコンガリ焼いてみたい。 至福の時だ…。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 今日はチキン竜田も食べたい気分だ。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 今日はトンカツも食べたい気分だ。 カレーパンだって、 あんまんだって、 時には食べたくなってしまうこともある。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 同時に今日は、何を食べようか、 一日中、 悩んでいる。。。  [:]

[:ja]『本』 本音で生きたい。 本気を出したい。 本業が欲しい。 今の自分の想いを言葉にすると、 多くの表現に「本」という言葉が使われているのが分かる。 「本」という言葉について調べて語源を辿っていけば意外なことに気づいたり、 自分の思いを表した上の3つの表現に共通点が見つかるかもしれないが、 そのような探究心の優先順位は今は余り高くない。 そんな好奇心や探究心に基づいて落ち着いて研究に没頭する余裕は今の僕にはない。 視力矯正の不具合…。 あらゆる思考や行動に付きまとう、 視力矯正の不具合。 この人生最大の壁である視力矯正の不具合を自分が望むような形で改善していける状況が作れなければ、 僕の人生は前に進めない。 視力矯正の不具合以外のあらゆる挑戦や苦悩を体験しづらい。 もっと叫んで良いはずだ。 「もうヤケクソな気持ちになってパンクバンド作って好きなことを言いたい放題叫んでしまえば良いんですけど」 なんて冗談を誰かに語っている場面を想像していたはずだ。 だから本気は出せる。 出して、良い。 本音も言える。 言って、良い。 本業だって取り組める。 本が読みたい。 本を読んで知恵を身につけたら、 明日の行動が変わるかもしれない、のに… 頂点の孤独… 手放したい… 井口政基 [:]

[:ja]『アウトプット②』 これで次に進める。  [:]

[:ja]『アウトプット①』 とにかくアウトプットしたい。 毎日、言いたいこと、話したいこと、 歌いたいこと、描きたいことで溢れている。 なのに、 どこにも叫ぶべき場所が見つからない。 いや、叫ぶべき場所はどこにでもある。 インターネット上でもリアルな世界でも、 どこでもいくらでもある。 だけれど僕は行動に移せない。 このkosaten magazineだって何を表現しても自由なのに、 手元にアウトプットしたい作品がない。 言いたいことは山ほどある。 表現するのに資格は必要ないかもしれない。それでも僕には表現する資格がある。 正確には表現す「べき」資格がある。 つまるところ表現したい。 僕にはやりたいことがたくさんある。 言いたいことが山ほどあるように、 やりたいこともたくさんある。 けれど視力矯正の不具合を抱えているため、 それらのやりたいことが充分にできず、 消極的な毎日を送っている。 行き詰まってはいないが、 息苦しい感覚で毎日を過ごしている。 (急に寂しくてなってきた。 若い頃、家で昼ドラを観ていた日々が懐かしい。。。)(そして、この時思い出した昼ドラは『はるちゃん』や『温泉へ行こう』などの旅館ものだった…。) そんな今の、 人生を前に進めずにいる状況を突破するためには、 自分と同じような高い志と問題意識を持った人と出会うこと、 というのが僕の直感だった。 日本一高い志と問題意識を持った人に出会って触発されたい、 そのくらいの刺激がないと怠け者の僕は動けない。 と、しかし、 自分が高い志を持っているかどうかは疑わしく、 いや、持ってはいるが、 少なくとも志を貫いて一人孤立する勇気はないようだ。 志や問題意識を共有できるアナタと一緒に孤立するのは全く怖くない。 むしろ望むところだ。 日本一高い志と問題意識を持った人に出会うためには、 自分の今の状況と、 自分が高い志と問題意識を持っていることを世の中に伝えなければならない。 なのに僕はしかるべき行動が取れず、 自分の本音に嘘をつきながら、 悶々とした日々を送りながら、 現実逃避の虚しく寂しい気持ちで毎日を過ごしている。 Facebookにさえ、 あまり良く思われないだろうと思って、 自分の本当の問題意識を伝えることを躊躇ってしまう。 Instagramにアップした旅先で食べた美味しい料理の写真とコメントさえ、 お知らせするのを遠慮してしまう。 結局、他人に遠慮して、 嫌われたくない、 恥ずかしいというのが本心、、、 ネガティヴッ…! ネガティヴな気持ちは発信どころか、 言葉にするのもシンドイ…のは気のせいか…? 他人と比較するのは詰まらないが、 ネガティヴな報告がFacebook上でなされることはない。 だからつい僕も、 本当は解き放ちたくて仕方のないネガティヴな想いを押し殺して、 良い子ぶった発信ばかり選んでしまう。 いっそのこと、 ネガティヴな想いを徹底的に吐き出して文学作品に結実させてしまおうかという野望が頭をよぎることもあるが、 僕には文学作品を創作したいという熱意がほとんどない。 熱意…エネルギー…原動力っ! その原動力を発動させるためにも… 日本一高い志と問題意識を持った人々に…  [:]

[:ja] 「公差転で行われた書のワークショップで創った作品。テーマは「木」です。」  [:]

[:ja]公差転のメーリングリストに表現する文章を考えるにあたって、 書きたいこと、表現したいことは山ほどあって何を題材にしようか悩みましたが、 やはり、視力矯正の不具合を抱えていて本当にやりたいことが充分にやれないことについて、やりたいのにやれない悔しさや惨めさや怒りや後悔や憤りについて、 このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ! という想い… (ちなみに今この文章をiPhoneのメモパッドで打っているのですが、 特に、 「このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ!」 については手書(描)きで思いっきり書(描)いてみたいなと思いました。)について語りたいと思いました。 本当は好きな音楽や映画や漫画やゲームについて書いてみたいという気持ちもありますが、今の僕はそれらのことが充分に楽しめず、それらの素晴らしさについて文章で表現することが充分には出来ないため、 やはり視力矯正の不具合を抱えているため、やりたいことが充分に出来ないんだコンチクショー、テヤンデばろっチクショーという想いを語ることから、まずは始めたいと思います。 自分の本当の気持ちを音楽や小説や漫画や映画など、創作物でさらけ出して表現することは実生活でさらけ出して表現することよりは容易いと思う。 だから、自分の本音をさらけ出した創作物は世の中にたくさん存在するのかもしれない。 でも、僕はそこにリアリティーを感じない。 訴求力を感じない。 昔の僕はそこにリアリティーや訴求力を感じ、意義を見出していたかもしれないが、 少なくとも今の僕にはツイッターやフェイスブックなどSNSでの直接的な表現の方が、もしそこで本音をさらけ出せていたのなら、 勇気を感じる。 様々な困難を抱えた当事者の集まりや、世界の片隅にあるブログでの名も無き叫びの方が。。。 僕が19歳の頃、 漫画家になりたいと思ってデザインの専門学校に通うと思ったが、辞めて、紆余曲折を経て法律家になりたいと思って大学の法学部に進学した時も、そんな心境に近かった気がする。 僕はどこかでアーティストと名乗って創作活動をすることが卑怯な行動だと思っているのかもしれない。 卑怯…もしかしたら、 「物足りない」という感覚か…。 でもアーティストと呼ばれる人の中には自分の顔と実名を出して作品を創作し発表し、ある程度の社会的責任を負って活動している人もいる、と思う。 だから、もしかしたら、 創作物を媒介するかしないか、という分け方は本質的ではないのかもしれないが、やっぱり「表現の場」として用意された場所での表現は、物足りなく感じてしまう。 といっても、このkosaten magazine も、 見事に表現された場で、 僕のこの表現は余りリアリティーや訴求力が感じられないものとなっている可能性がある。 自分でもぶつけたりていない、 物足りない、 人に好かれたいと思っている自分、 表現っぽい表現を選んでいる自分がいる。 ぶつけたい。。 叫びたい。。 公差転回に集まる人たちよっ… 父よ、母よ、妹よ… オレの思い通りに動けっっっっっ! と叫んでやりたい。 少し疲れた…。 所詮こんなの本音じゃない。 ここまで書いて何となくこれは書いたり言ったりしたらマズイだろうと思う文章は削除したい。 だからきっと、 残された文章は無難なものになってると思います。 楽しんで頂けましたでしょうか? 今度このような場が与えられたら、 もう少しきっと、 本当の本当に本音が語れるように、 人々に希望が与えられるような文章を書きたいと思うので、 楽しみにしていてください。 世界中の皆んなが幸せになりますように、 心よりお祈り申し上げております。 井口[:]

[:ja]「公-差-転でどこまでできるのか?」 僕は公-差-転でこのような問いを何度も発してきた。 その問いに対して公差転に参加している人たちからの明確な答えは、 一度も返ってこなかった。   実際には、 今の公-差-転では個人の切実な境遇や問題意識について語り合う状況は、 充分にはできていないと僕は感じている。 少なくとも僕は出来ていない。   もちろん、それほど切実な境遇や問題意識について語らなくても、 居心地の良い居場所としての機能が果たせれば良いのかもしれない。   それでも僕は、 僕が公差転に居続ける限りにおいては、 僕にとって公-差-転が居場所として機能する限りにおいては、 いや、多少は居心地が悪くなっても… 「公-差-転でどこまでできるのか?」 という問いを発信しつつ、 語り合える切実度の度合いを高めていく実践をしていきたいと思う。   その実践の1つとして、 以前noteに公開した下記の2つの記事を、 kosaten magazine で紹介したいと思う。   「熟成下書き」~『S先生の課題』 https://note.mu/masaki_iguchi/n/n38a5bdd35642   熟成下書き2~『S先生の課題(表舞台)』 https://note.mu/masaki_iguchi/n/n20084e1f9841   「「熟成下書き」~『S先生の課題』」に書いたように、   《「自分の境遇や問題意識を人々や社会に伝えていきたい」という想いがある僕としては、 少しずつその躊躇いを解消していき、 発信していきたいと思う》。  [:]

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