(日本語) Language Beyond #8のレポート 2019年2月24日

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「滝山コミューン」とも、2月24日の公・差・転とも関係ないかもしれないけれど

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僕は、1996年からの10年ばかり、T-theater という詩の朗読の舞台集団の代表をやっていたことがあります。

代表といっても、当時知り合ったパソコン通信(インターネットはまだなかった)で知り合った方たちと一緒に、「詩の朗読の舞台をやろう」と立ち上げた、言ってみれば素人の集まりです。
(ただし、失礼のないように書いておけば、趣旨に賛同して協力して下さったプロの方々も参加しています。)
歌詞や詩に救われて生きてきた僕は、詩の朗読だって素晴らしいエンタティメントだと思っていました。
だから、朗読の舞台集団を始めました。

そこで僕が言い続けたことがあります。
:一緒に何かをやり遂げた達成感とか、頑張ったという自己陶酔に陥らないでください。
:会場に足を運ばれてくるお客様にとっては、あなた方の一人ひとりが何をやりたくて表現を行っているのかが大切なのです。
:身勝手にやりたいことをやってください。
詳細は触れませんが、同じ時期に詩の朗読、もしくはポエトリー・リーディングを始めた方々があちこちでおられました。

t-theaterは、2000年代に入ってから解散しました。
すでに、「集団」など作らなくとも、自由に朗読・リーディング活動を出来る場が、あちこちにできていました。

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t-theaterの解散と前後して、僕は単独の詩の朗読会を開催するようになりました。
音響・音楽・美術を揃えた舞台ではない、自分一人しかいない朗読に向かうようになりました。
概ね観客動員数の少ない会になりました。
それでも、お褒めの言葉もいただくことがありました。
そうした中で僕が何回か繰り返して語ってきたことがあります。
:もしも僕の言葉に心を動かされたのであれば、僕の言葉を肯定しないでください。
:いったい何に心を動かされたのかを考え始めてください。
:感動したからといって、誰かの言うことを無条件に受け入れてしまう。
:これほど怖ろしいことはないのですから。
これからも繰り返し続けると思います。
ところで、僕は子どもの頃から宮澤賢治の書く物語が好きでした。
とても神聖なものに感じていました。
妻と知り合った頃、妻が宮澤賢治を嫌いと知り、そうした考え方も理解するようにしました。
長く抵抗がありました。宮澤賢治はやはり、とても巧みな物語の書き手なのです。
やはり僕の好きな作家である山口泉が「宮澤賢治伝説」(河出書房新社)を出したのは2004年です。
初めて妻の覚えてきた違和感を受け止められた気がしました。
(錯覚かもしれません。)

何かを信奉せずに疑うことは大切であると同時に、いたずらに周囲の価値観の変遷の変化に追従してしまうことも恐ろしいことだと思います。
僕が子どもの頃には、絵本の結末に「ぶんどりひん」という言葉が使われていたのを思い出したのは、「世の途中からかくされていること」(木下直之、晶文社)を読んだときのことでした。
「ももたろうは ぶんどりひんを もちかえりました」といった文言が、「めでたしめでたし」一杯の雰囲気でえがかれたりしていました。
こうした言葉を肯定的に使っていた価値観の時代がかつてはありました。
映画「拝啓天皇陛下様」には、侵略戦争が終わった後も「ぶんどること」を止められなかった愚かな臣民の姿が描かれています。

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しかし、いつしか言葉は使われなくなり、そうした言葉を使う意識も忘れられていきました。
忘れ去ることで、「なかったこと」にできる状況が生じたのです。

「飛ぶ教室」、「滝山コミューン」の二冊に関する対話を聞きながら、僕が思い出していたのは「クオレ」(デ・アミーチス、複数の訳有り。)のことです。
僕が子どもの頃には、子どもへの啓蒙的な小説として数種の翻訳が出ていました。
後に、イタリアのファシズムを誘導した作品として分析された本です。

これは、いじめられっ子であった僕にとっては、ある意味、救いの一冊でした。
世の中に僕の実際の生活とはかけ離れたところで、「絶対の正義」みたいなものが存在していて、それと同化してしてしまえば自分は救済されるみたいな。

成長物語というのは、向上心のある子よりも、劣等感のある子にとっての救済の発想みたいだなと思っています。
「正しい/悪い」の価値観を確立し、自分が「正しい」側に身を置いていると思えれば、ある種の快楽が約束される。
先述の宮澤賢治の魔力にも通じるものがあります。
(一見求道的な「本当の幸せ」という言葉が、「本当」ではないものを選別することを前提としている怖ろしさ。)
塾教師という仕事柄、教え子といろいろなことを話すことがあります。
最近、「3年A組」というTVドラマが、彼らの心をひきつけていることに気がつきました。
学校を舞台にした作品です。
高校教師が、自分の担任している生徒たちを人質に取り、学校に立てこもるという設定です。
その中で、既に自死している一人の生徒に対して、「クラス」によって代表される社会がどれだけ「加害者」であったかが、浮き彫りにされていく展開となっています。
自分が加害者であることをまず自覚しろ。
そうしたドラマの内容が、とても複雑な思いの中で子どもらを捕えているのではないかなと思いました。

奥主榮

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