Language Beyond #12のレポート 2019年11月24日

lbn

読書というものはそもそも孤独な営みと言えるのでしょうが、今回の課題図書であった『地下室の手記』は、世をすねて隠遁生活のごときものを送っている主人公の独白であるということから考えてみても、より一層そうだということになるのではないでしょうか。そのような読書体験を人前で語るとするならば、普段は注意深く公共の場から隠されている生々しい「自分」というものが露わにならざるを得ないのかもしれません。従って(と言えるのかどうかは判然としませんが)、会は終始濃密な空気に包まれていました。

参加者のうち何人かの方は、まさに自分のことが語られているというような感覚でこの本を読み進められたとのことでした。私の好きな作家であるムージルが、人間とは「感情を透過しない皮膚の革袋に縫い込まれた脂肪の塊と骸骨に過ぎない」と書いていますが、感情を直接通わせることができない孤独な存在である人間にとって、自分の内面を描いたかのような作品に出会うという体験は、極めて感動的です。文学が人を魅了し続けているのは、そのような体験があるからこそなのではないかと思います。また一方で、この読書体験が不快であった方もいらっしゃったようです。実際問題として、この小説の中では喜ばしいことは何も起こりませんから、至極当然の感想のように思われました。さらには自分の直視したくない面がことさら強調されて描かれていると感じた方もいらっしゃったようです。このように、読者である自分をどこに置くかによって、読み方が180度変ってしまう本のようでした。まさに「自分自身との関わり方」、そして「自分と世界との関係をどのように捉えるか」が、この作品の隠れたテーマであるように私には思えてなりませんでした。ドストエフスキーは、自明と思われている世界像に反証を突きつけることで、我々読者に揺さぶりを掛けていると言えるかもしれません。これがいわゆる「ドストエフスキー体験」と言われているものだと私は考えています。

私にとって『地下室の手記』はとても今日的な選書のように思われ、今回、大変興味深く読み返したのですが、私がそう感じた理由を少し書いてみたいと思います。耳目を驚かす凶悪事件というものがときどき起こります。不特定かつ無関係の人を対象にした殺傷事件などです。残念ながら今年もそういった事件のニュースが何度か聞かれましたが、このような事件は、加害者本人にとっても自己破壊的というほかなく、起こした本人を含め誰の利益にもならないことから、いつも不可解という感がぬぐえませんでした。ニュース報道を聞いても専門家といわれる人の解説を聞いてもしかと納得できたという気持ちにはなかなかなれません。また、現在の政治的・社会的状況を見るにつけ、コミュニケーションの不全という問題が一段と先鋭化しているように思われます。そのような状況を鑑みるに、目立つ事件というものはまれにしか起こらないものですが、類似した精神的状況に置かれている人々は多くいるのではないかと感じさせられます。『地下室の手記』の主人公は、上記のような人たちと精神的に近縁であると思われるため、作品の中で自らについて語ってくれるということは、こういった人を内側から見るまたとない機会であって、彼らの主体という、現象の中心地に我が身を置くことで、これまで私が抱いてきた「なぜ」を解くヒントが得られるかもしれない思ったのです。

今回の読書を通じてさまざまな新しい発見があり、そのすべてをここで書き尽くすことはできませんが、一点だけ挙げるとすれば、彼の憎悪は「本人が自己の重要性をあまりにも軽視している」ということから生じてくるらしいということです。人間はおそらく、自己の存在を全く無意味であると感じながら生きていくことはできない存在なのでしょう。彼の心の中は、本人は意識できていないものの、自己が尊重されるべきだという感情と、自己に対する侮蔑とが戦う戦場と化しており、端から見て異常と思われる彼の行動は、そういった耐えがたい状態から何とかして脱出しようとするもがきのようなものだと言えるような気がしました。そして彼がなぜ自己に対して敬意や信頼を抱くことができないのかといえば、本の中にも少し描かれていますが、おそらく、本当の意味でよいといえるコミュニケーションが彼の生育環境に欠如していたからということが大きいのかもしれません。そのように考えると、この問題は、コミュニケーションを作り出す当事者である我々一人ひとりにとってもまさに問題であるということになります。対話は、それがうまくいった場合、双方に生涯忘れ得ぬ大きな喜びをもたらしますが、「対話」という言葉を聞いたときに、我々はもはや喜びを連想しなくなっているのではないでしょうか。参加者のある方が、「百発撃って百発打ち損じるよりは、一発も撃たないがゆえに打ち損じがなく、表面的な会話に終始した方がうまくいったという感じがある」と語ってくださいました。貧弱になったコミュニケーションに取り巻かれているという状況は、我々の多くに共通しているように思います。このようにして、この本に対してどのような立ち位置を取るにせよ、「いかにしてよいコミュニケーションを築きうるのか」という点に目を向けることで我々読者は皆、大きな円の中に包摂されることになるはずだという考えが私の中に生まれました。さて、私があの場でそういったよいコミュニケーションを作り出せたかというと……、残念ながらいろいろ反省すべき点が多かったようです。しかし、対話は芸術ですから、今回の反省を活かしてさらに成長していきたいと思っている次第です。参加者の皆さんがどのような思いを抱いて家路を辿られたのか、実に興味深いところです。

(清野)

一部屋に十五人ほどが集まりドストエフスキーの集会シーンのような読書会となった。登場人物の一人になった気分で発言を聞き、それぞれのトーンに耳を傾けた。合間に連想したことを書いておきたい。
まず、私たちがしばしば好きではない人に似てしまうということについて考えた。
どうしても好きになれない人の好きになれない部分を自分の中に見出すことがある。気づかないうちに自分はその人にそっくりだった、そんなこともある。本によると、その好きになれない部分というのは、実は予め自分の中にもあるものの場合が多いのだという。その部分を自分で認められず抑圧しつづけた結果、その抑圧が他者に対する不寛容となってあらわれてしまうということらしい(もちろん、一概に言えないと思う)。
少し、主人公にもあてはまるのではないか。主人公は同級生に対して俗物性を感じ、強い軽蔑を抱いているが、その俗物性はなんとなく彼の中にも見出せてしまうものだ。この話は、自分自身を長く許すことができなかったひとの悲劇なのではないか?(今回主人公について「自尊心の欠如」や「自分自身に対する冷笑的態度」を言及する声があったことも記しておきたい)
またぼんやりと個人的なエピソードを思い出していた(少し外れるかもしれないけれど)。
小学生の頃、スポーツクラブの練習終わりに卒業した先輩から話を聞く場面があった。当時高校生だった彼女はいろいろとアドバイスした後「自分に厳しく、人に優しく!」とはっきり言い残して体育館を去っていった。小学生の私にはその(いま思えば自己犠牲的な)響きがかっこよく感じられて、しばらく心の隅に置いていた(なのでいまだに口調までよく思い出せる)。
だが、いまになって彼女の言ったことは本当に可能なのだろうか、と思う。「自分に厳しく」ということがじっさいどういうことを指していたのかはわからないが(たんに自己管理しなさい、ということだったのかもしれないが)、多少なりとも自分自身を抑圧しながら人に対してはやさしい自分でいるという不均衡がありうるのだろうか(以下の箇所を思い出しつつ)。

人間関係の実質って(…)自分自身との関係だけで、あとはその反映、照り返しにすぎないのじゃないかと。たとえば、自分は無価値だという思いや見捨てられる不安が強いと、他者から承認してもらうことで自分を肯定しようとして過剰にいい人やったり、過労死しそうなほど頑張ったりしがちに。他者との関係の作り方や身の動かし方を見てると、その人が自分自身とどんな関係を作っているかが見えてくる。(田中美津『この星は、私の星じゃない』、p.93)

 

(ふじたみさと)