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[:ja]頭は低く、目は高く ●愛がその人にあるかどうか 僕は人を見る時 愛がその人にあるかどうかで判断している もちろん人によって愛の形は様々だが 少なくとも僕が仲良くなりたいと思う人は 僕が好きな形の愛を持っている人だ その他の愛の形を持っている人は 否定しないが、どうしても興味が湧かない みんなそれでいいと思うし みんな(無意識にでも)そうしてると思う しかしたまに どうしてここまで僕に対して冷酷になれるの? って人もいる 例えば僕が最近あるセンターに電話した時 多分似たような電話がかかって来すぎて 嫌気がさしてるのかもしれないが 物凄く冷酷な対応をされた もしその人にパートナーがいるとしたら パートナーの前では見せないだろうと 思わせるくらいだった そういう人はONとOFFを割り切りすぎで 使い分けているんだろうなぁと思うと やりきれなくなる その人の本質が垣間見えるような気がする 反面教師として使わせて頂きます ●マザーテレサへの悩み話 僕の敬愛するマザーテレサは 「貧しい人々の中でも最も貧しい人々は、 私たちにとってキリストご自身、人間の 苦しみを負ったキリストに他なりません」 と言っていますが、僕は、現代の僕を含めた 途方もなくひどい精神的な貧困を持った 人々をキリストご自身として奉仕する 必要があるのかわかりません ちなみに僕は無宗教です[:]

[:ja]kosaten magazine 42 『冷凍の春巻き〜俺はその先の世界が見てみたい』 冷凍の春巻きは、 全ておんなじ味だと思っていた。 LAWSONも、ファミリーマートも、 ライフもイオン系のスーパーも、 パッケージは異なるが、 全てニチレイフーズ、 みんなおんなじだと思っていた。 でも、違った。 LAWSONの春巻きは皮の風味が香ばしく、 きな粉っぽい香りがして、 僕好みだ。 ファミリーマート はどうだろう? と思って試してみたが、 LAWSONと同じような気もしたし、 他のスーパーで売っているニチレイ印の春巻きとおんなじ気もした。 でも、どちらかというとLAWSONの春巻きが一番きな粉っぽい香ばしさを感じるので、 しばらくLAWSONの冷凍春巻きを中心に買って食べてみようと思う。 食事を開始して最初の時間は、 なるべくトースターでコンガリ焼いてバリボリバリっと音を立てながら食べ、 後半からレンジで温めるだけの皮が柔らかい状態でその日のオカズのタレにつけながら食べたりする。 コンガリバリボリに焼くよりフニャフニャの状態の方が色んなタレが染み込みやすく、 美味しく楽しめる。 色んなオカズのタレを同時につけて食べるのが最高に楽しい。 そしてもちろんそこにキャベツIn生卵も待っている。 じっくり時間を掛けて、 約1時間45分の食事の時間、 動画を視聴しながらの至福の時。 出来ればもっと長い時間を掛けて、 出来ればもっとお腹を空かせて…。 視力矯正の不具合を改善して、 運動が思いっきりできるようになったら、 キックボクシングのジムに再び通って、 果てるまでサンドバッグに蹴り込みをしたり、トレーナーの方にミットを持ってもらって、もうぐったりするぐらい、 食事ができないくらい身体を疲れさせて、 回復させるために長時間、爆睡し、 目覚めた空腹な状態で、 ゆっくり散歩に出かけ家に帰り、 動画を視聴しながら、 ゆっくりストレッチをしながら、 ゆっくり準備しながら、 空腹の身体を焦らせながら、 トースターのチンっ!と焼きあがる音を何度も聴きながら、 いよいよ食事を楽しみたい。 幸せだ。 本当に幸せだ。 これが実家でなく、 オープンエアーの海が見える、 超素敵な風景の空間で行えたら、 本当に最高だ。 プロジェクターで海外のどこか素敵な景色を映し出せば実家でもリゾート気分を味わえるかもしれない。 暖かい風も欲しい。 まばゆい、 本物の日光の光も欲しい。 この先ボクには、 どんな食卓が待っているだろう。 どんな料理を楽しみたいと思うだろう。 どんな人と出会い、 どんな人が僕のそばに寄り添ってくれるだろう…。 理想の暮らし、パートナー。 いつも、想い浮かべる。 あの人は、 僕のこの異常な趣味に、 どこまで共感して付き合ってくれるだろうか。 最高の午後、 最高の陽射し、 眩しく暖かな光。 たどり着きたい。 視力矯正の不具合を改善するための当事者研究…なんて、 シンドそうな問題意識をすっ飛ばして、 たどり着きたいたい。 アトモスフィア…。 彼がその階段を昇ったのは、 困難を乗り越えた後だったのか。 それとも、 ただ、 楽に、 然るべき道を歩んだだけなのか。 セレモニー。 長く、深い闇を超えて、 穏やかな風に身を任せ、 たどり着いたまばゆい光、 セレモニー。 更にその先にあったのは、 本当に、 ロマンチシズムや脳天気なクラブサウンドだったのか。 僕はもっと先を見てみたかった気がする。 ブランキー・ジェット・シティの『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』の先の先、 スピッツの『隼』の先の先、 マイルスデイビスの『ネフェルティティ』や『イン・ア・サイレント・ウェイ』の先の先、 CANの『フューチャー・デイズ』の先の先、 無い物ねだり。 無い物は創れば良い。 心の中に。 イマジン…。 吐き散らせっ! 言葉を、心を、世界に。 気持ち良いぃぞぉーっ! ひょー、気持ちいいぞっ! ヒャッホぉぉぉぉぉウぃぃっっ! ウホーイホイっ! もしかしたら、 ボブディラン の『サブタレニアンホームシックブルース』は、 『ライクアローリングストーン』は、 『ディサレイションロウ』は、 いや、全ての曲は… いや、全ての音楽は、 それらの先の先の風景なのかもしれない。 もしかしたら、 グレングールド が弾く、 シベリウスが僕にとっての究極の音だと思っていたが、 どことなく、 どうともなく、 いや… キリがない。 俺は確かな、 具体的な音を、 想像ではなく、 具体的な物を、 その究極の音の世界を 具体的な物として、 俺の前に提示して欲しい。 さっさと魅せて欲しい。 バリボリバリ… もう少しだ、もう少しでたどり着きそうだ。 クローサー… それはまだアトモスフィアの一歩手前。 堂々巡りから抜け出すには具体的な物の提示、製作、行動だ。 まずはチラシを貼り付け広告したい。 俺はその先の世界が見てみたい。 (2020.04.01)[:]

[:ja]kosaten magazine 41 『快楽』 頭の中が、 ニチレイの冷凍の春巻きをコンガリ焼いて、 レトルトの銀座ハヤシにつけて食べることで一杯だ、 満たされている。 そうだ、 僕は満たされている。 今この時間、 スタバでほうじ茶を飲んでいる、 この時間、 僕は改めて自分の問題意識を言語化しようなどというシンドイことをしようとは思わない。 10年後、 20年後を大切に出来ていないのだろうか。 だけど、 シンドイことはやはり、やりたくない。 そんなことを書いているうちに、 シンドイことを書きたくなってきた。 とりあえず、 過去の動画の原稿のコピペを。 前回、 「医師と患者という関係性や、 障害者、健常者という分け方を前提とせず、 何かしら生じた個人の「不具合」に対して病名や障害名をつけることなく「不具合」のまま、例えば医師は医療の専門家として、 不具合を抱えた当事者はその不具合という苦労を抱えた専門家として、お互いが対等の立場で共に、 その「不具合」を改善していく問題解決=医療の形はないのだろうか。」 でも、そんなことよりも早く、 視力矯正の不具合を改善したい。 そのために、 淡路島に行くことは良い選択だろうか。 更にこの先へ… 先の先へ。 もっと先へ。 僕が、 日本一高い志や問題意識を持っている人と出会ったら、恐らく僕は然るべき行動が取れるようになるだろうと思っているということは、 僕は僕自身が日本一高い志や問題意識を持っていると思い込んでいる。 悶々と不全感を感じてどうしようもない日々を送っている今でも、 その自信だけはなくならない。 根拠のない自信、 なのか、 それとも明確に根拠のある自信か。 どちらでも良い。 ただ、この先へ行きたい。 もっと先へ行きたい。 視力矯正の不具合ゆえに、 視界の歪みがあり、 脳に不快感が生じ、 スッキリしない。 眼を閉じても、 その不快感はなくならない。 整えなければ、ならない。 早く、乱視用のソフトレンズを付けて、 一度、クリアな視界を体験し、 またハードレンズを入れて具合を調節して… 今はこれが自分にできる最大限の快楽だから仕方がない… (2020.03.28)[:]

[:ja]kosaten magazine 40 『もう我慢できない』 僕の頭の中は、 視力矯正の不具合による苦しみと、 食べることで満たされている。 視力矯正の不具合について語るのは辛い。 だから今日は食べることについて語りたいと思う。 以前お話ししたように、 僕は冷凍の春巻きを具材だけ取り出してトースターでコンガリ焼いて食べるのが好きだ。 バリボリバリボリ、 バリボリバリ。 オカズにローソンセレクトの煮込みハンバーグ。 一度に全ては食べれないので、 何食にも分けて食べることにしている。 賞味期限は余り気にしない。 そして、 とても美味しい。 バリボリに焼いた春巻きとの相性は抜群で、 そこに必殺の千切りキャベツIn生卵を合わせて食べれば… … 僕はこんな食生活がやめられないでいる。 デミグラスソースが掛ったハンバーグが美味しくないわけがなく、 コンガリ焼いた小麦のかたまりが美味しくないわけがなく、 生卵に溶けこました千切りキャベツが美味しくないわけがなく、 健康的で、 新鮮な食事に憧れていながら、 世界中にある色んなものが食べたいという気持ちがありながら、 殆ど毎日同じようなものばかり、 実家のリビングという狭い空間で、 代わり映えしない景色の中で、 僕はこんな食生活がやめられないでいる。 これも視力矯正の不具合のせいだと叫びたいし、論理的に証明したいが、 同時に、 「こんな食生活」と呼んでしまっているこの食事の楽しさや美味しさや魅力を、 人々に伝えたいという思いもある。 バリボリバリボリ、 バリボリバリボリ。 ローソンセレクトの煮込みハンバーグは、 セブンイレブンやファミリーマートの同価格帯のハンバーグに比べると個人的には程よくジューシーで美味しいと思うのだが、 バリボリの春巻きをデミグラスソースに付けながら食べる僕にとって、 デミグラスソースの量が少ないのが少し困ってしまう。 だから次食べるときは別売りのビーフハヤシも使ってデミグラスソースが少なくなってきたローソンセレクトの煮込みハンバーグを合わせて食べようかと思う。 とても贅沢な食事だ。 たまらない…。 本当に健康的ではないのだろうか。 本当の本当は、 ワンピースに出てくるコックのサンジのような料理人に憧れるが、 今は視力矯正の不具合ゆえに、 出来合いのものを組み合わせてプチ料理を楽しむとする。 ビュッフェ好きの僕にとっては、 出来合いのものを組み合わせながら、 台所とカウンターテーブルを行き来しながら、トースターで春巻きなど揚げもの料理がコンガリ焼き上がるのを待ち遠しく待ちながら、YouTubeなど動画サイトの動画を視聴しながら、 食事を楽しむ時間は至福の時なのかもしれない。 でも、 クリエィティブと言えるだろうか。 僕は健康でクリエィティブな生活を送りたい。 世の中に、 生きた証を残したい。 僕には何かが欠けている。 志や問題意識を共有できるパートナーが欠けている。 社会と対峙していけるような、 政治的なアクションが欠けている。 視力矯正の不具合の改善に協力してくれる専門家が欠けている。 「この人は話を聴くのが上手いなぁ」と、 心の底から思えるような人との出会いが欠けている。 世の中に出ていかなければならない。 世の中に出ていけば、 きっとそれらの欠けているもの全てが手に入る。 そして健康的な食事も手に入る。 未来の僕は、 今の僕を、 今の僕の生活を振り返った時、 心がじんわりとするだろうか。 一人で振り返るだけよりも、 未来のパートナーに、 今のこの僕の惨めな生活を、 笑いながら語りたいものです。 (2020.03.23)[:]

[:ja]kosaten magazine  38 『心地良い対話を求めてしまうという、 苦手意識』 また、今日も、 視力矯正の不具合を改善するための然るべき行動が、 取れなかった。 明日も取らないつもりでいる。 対話の場に出掛けて行って、 視力矯正の不具合を改善するための当事者研究を実現するためだと言い聞かせて、 半ば、現実逃避を無理矢理正当化しながら、 明日も、 然るべき行動を取らないつもりでいる。 僕は今、 頭に浮かんでいる眼鏡屋さんと眼科が一件ずつ存在する。 そのどちらも何度か足を運んでいて、 視力の検査を行なっている。 けれど、 眼鏡を作成したり、 コンタクトレンズを購入するまでには至らなかった。 どうしても、 眼鏡店のスタッフや、 クリニックの眼科医や検査員に、 心地良い対話を、 お互いに尊重し合い、 理解しようとする姿勢を、 求めてしまう。 相手にこちらの感覚や問題意識を尊重し、 理解しようとする姿勢を求めてしまう。 それが僕の苦手意識。 心地良い対話を求めてしまうという、 心地良いというより、 そもそも「対話」というものを求めてしまう、僕の苦手意識。 対話だけじゃない。 僕はその眼鏡屋さんの雰囲気も、 眼科のクリニックの雰囲気も、 何となく苦手だ。 検査を受けるのだって、 やっぱりシンドイ(もうこれまで何度も受けて来た…んだ)。 この苦手意識を改善しないと、 僕の人生は変わらないのだろうか。 この苦手意識を志だと貫いて、 現実逃避の先送りをし続けて、 時間を無駄にしてしまう日々の繰り返しを、 これからも続けてしまうのだろうか? どうして吉報が訪れないのか。 この先は本音を語ることになってしまうため、 どうしても告白できない。 やはり、本音を告白するためには、 カウンセリングルームという安心安全の場に甘えるしかないのだろうか。 (2020.03.19)[:]

[:ja]kosaten magazine  37 『恥ずかしいと思え!』 まず第1に、 今、僕は、 視力矯正の不具合を抱えて悩んでいることを伝えねばならない。 視力矯正の不具合を改善するために消費者や患者という立場では限界を感じてるなんて言ってるが、 視力矯正の不具合を抱える当事者と専門家とが主にゆっくりと丁寧な対話を通じて視力矯正の不具合を改善するための当事者研究のようなものをやりたいなんて言ってるが、 実際のところ、 ぶっちゃけ、 純粋にお前の話を理解しようとしてくれる専門家の人が現れて視力矯正の不具合の改善を助けてくれれば良いんだろう? 実際のところ、 眼科医や眼鏡屋が丁寧な対話ができないことくらい我慢して根気よく足を運んだり、 ダメ元でも我慢してメガネを買ったりコンタクトレンズを買ったり、 とにかく消費者や患者という立場に甘んじて、今より少しは良い状況にするために我慢して行動すれば解決するんだろ? 実際のところホントのところ、 視力矯正の不具合を改善するための当事者研究なんて投げ出したい。 そんな志、 もう、 捨ててしまいたい。 辞めてしまいたい。 そしたらもう本当に好きなことをやるんだ、 ろっ? (2020.03.17)[:]

[:ja]kosaten magazine34 『ノンタイトル』 この世界に、 本当は、 一つでも皆んなが楽しいと思えるコンテンツを残したいんだ。 僕は楽しいことがしたい。 もう今は楽しみたいだけなんだ。 そして、 暖かいところに行きたい。 問題意識なんて本当はどうだっていい。 (2020.03.14)[:]

[:ja]kosaten magazine32 『ノンタイトル、つまり、叫び。』 書きたいことが、 思い浮かばない。 … なんて… ウソ、つくなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! ニャッッハッハッウッーシッシッシ、 ウゴーゴールーがッ、 ガッーハッハッハッ! もう、 抑圧について語るなんて飽きたヨガー。 あぁ…頼む、お願いだ… 俺に本気を出させてくれ… お願いだ… 本気を出して良いんだと許可を出してくれっっっっ。 本気を出したら10億円やるよと言っておくれ…。 そうでもしないと、 俺はいつまでも本気を出せない。 でも、 頭に拳銃を突き付けられるのは嫌です。 このまま幸せになるのも容易い。 このまま不幸になるのも容易い。 あのままくたばっていたら後悔しただろう。 ここまで生きてこれて、 本当に良かった。 俺はまだ夢を見ていられる。 まだ、海の向こうに山ほど行きたい場所がある。 世界中に居場所を見出す可能性がある。 だから早く、 ここから僕を追い出しておくれ。 自分から出て行くなんてとてもシンドイ。 だから委ねたい。 詩を書くことに喜びを見出せない僕は、 詩人では物足りない。 もうだめだ。 徹底的に不毛な言葉もあるみたいだ。 詩の書き方なんて教わってないからこれを詩だと言い張って詩人を名乗っても良いが、 なんの喜びも見出せない。 バリボリに焼いた冷凍の春巻きをキャベツin生卵を食べている時の方が快感だ。 だから俺は詩人には向かない。 詩人でなくてもいい。 詩なんて面白いと思ったことがない。 世界中を旅したい。 非生産的な時間は嫌です。 (2020.03.09)[:]

[:ja]kosaten magazine 33 行き詰まってしまった。 嫌になってしまった。 息苦しくなってしまった。 自分に嘘をつき続けてきた結果、 視力矯正の不具合の改善を先送りにし続けてきた結果、 俺は自分に可哀想なことをし続けてしまった。 大事にしているつもりだった。 毎日食べたいものを食べ、 スタバでほうじ茶を飲み、 少しは自分の活動に協力してくれる人がいる… … それだけ? … 俺はまた嘘をついている。 本当はもっと自由に世界中を飛び回っていたいのに、 自分を思いっきり表現して人々とぶつかりあっていたいのに、 本当はもっと助けて欲しいのに、 本当はもっと叫んで怒りをぶちまけたいのに、 大人しく、 大人しく、 大人しく、 良い人であろうとしている。 所詮俺は、 人に嫌われて、 居場所をなくして世界に旅立つ覚悟がないだけか。 それが俺をこんなに可哀想な状態にさせてしまった。 ごめんよ… 俺… 寂しいよ… こんなに… 本当は寂しい気持ちが溜まっているのに、 どこにもぶちまけられないでいる…。 世界はこんなに広いのに、 世界はこんなに眩しく、豊かなのに、 視力矯正の不具合を抱えているだけで、 こんなにも寂しく惨めな気持ちになっている。 もうこんな想いはさせたくないよ。 俺に…僕に… 凡庸さに配慮するな。 いくら凡庸だって、 芸術的で、文学的な心情吐露でなくても構わないじゃないか。 だからこそ素晴らしい… やめよう。 素直に寂しさをぶちまけよう。 微睡みの中に落ちていこう… 酒を飲みまくったっていい。 コンガリ焼いたチーズのピザを食べたっていい。 タマゴやポテトサラダやハムがタップリ入ったサンドイッチを食べまくったっていい。 散々食べて、 食べたものを吐いてしまってもいい。 でももうやめよう。 こんなこと書き続けるのだって、 人に見せるつもりがなければ暇つぶしに過ぎない。 夜明けが近い。 そう、明日は夜明けだ。 君が暖かく、 尊重されて、 迎え入れられる日がやってくる。 アイ ワナ ビー アドワード。 アワナビーあどぅぉぉぉーッッ! レニだって叩いてくれる。 ビートを刻んでくれる。 夜の世界。 ジョン・スクワイアの宗教的なフレーズが、 夜の世界を演出する。 この世界に浸っていたい。 スタイルカウンシルのカフェブリュで微睡んだ後、 レニの刻む躍動感に導かれて、 未知の世界に突き進んでいきたい。 突き抜けたい。 行きたいところは分かっている。 60年代。 クリスピアンミルズのように、 あの時代に希望を、 堕落を見出しても構わない。 堕落が、 だらしなく酔い果てることが今の俺の逃げ道、希望。 疲れてきたよ。 やめたいよ。 足の裏を揉まれたいよ。 助けてよ。 こんなに頑張ってきたのにご褒美なしじゃ。 先送りした、 怠けてきた報いか。 … 本当に落ちよう… (2020.03.11)[:]

[:ja]kosaten magazine31 『スターバックス 成城学園前店にて』 今日は何だか寂しいなと思っていたと同時に、文章が書きたくなった。 昼食を実家で一人、食べている時だ。 人はやはり寂しくなると文章を書き残したくなるのかもしれない。 そして、 昼間に実家にいることはとても寂しい。 昼間に限らず、 そもそも実家に住んで毎日実家に戻ってきてしまう生活が、もう、どうしようもない。 本当に弱音を吐いてしまいそうだ。 本当に弱音を母に吐いたら、 母はどうするだろうか。 とはいえ僕はいつも大体弱音を吐いているから本当にもう泣き叫び暴れ出すくらいの弱音じゃないと母には響かないだろう。 寂しい生活。 分かっている。 こんな文章を書いているのは惰性に過ぎない。自分で暇つぶしに書いていることは自覚している。 眠い。 とにかく突っ伏せる机を探したい。 分かっている。 コンタクトレンズを付けて外して裸眼でしばらく過ごした後、 メガネを掛けると急激に眠気に襲われるんだ。 とても起きていられない。 でも返って良かった。 これで暇つぶしに書いているこの文章を終わらせられる。 ただただ寂しく虚しい。 人と協力できなかった、 孤立していったものの末路だ。 午後の時間はとにかく寂しい。 寂しいという言葉を別の言葉に言い換えて表現できれば詩的だが、 あいにく今の僕は頭が回らない。 語彙なんて活用できない。 文章術…昏睡せよ。 (2020.03.05)[:]

[:ja]kosaten magazine28 『苦しみ6』 苦しい苦しい苦しいと、 ただただ泣き叫べば良い。 誰も叫んでないからといって関係ない。 どんなに拙くても、 どんなに醜くくても、 居場所を無くしても、 社会的な成功は得られなくても、 叫びたいように叫べば良い。 綺麗事をいって、 自分らしく生きるんだと言ってカッコつけてる奴らなんか気にせず、 お前は堂々と泣き叫べば良い。 答えは出る。 俺は世間の奴らが言うことが、 表現することが、 詰まらない、物足りないと感じるのは、 所詮人間なんていくつかのパターンに当てはまってしまうから、 そのパターンを大体想定できてしまえば、 そんなに驚くような、 胸を打つような、 何か目の前の現実が変わっていくような、 本当にカタルシスを感じる希望のような表現がないのは、 当たり前だと思っていた。 でもやっぱり違う気がする。 物足りないと感じるのは、 単にそいつらがそれだけの奴らだった、ってことなだけな気がする。 だから俺は思いっきり叫んでしまおうと思う。 ちょっと論理的に言葉を並べ過ぎちまった。。。 ただ苦しい苦しい苦しい、と。 いやもっと純粋に相手を罵るような汚い言葉を並べて大声で叫べば良い。 ただただただただ純粋に、 上手く声にならなくても、 思いっきり遠慮せず、 もはや…のように、 というようにロックスターを例えに持ち出さずに、 ただただ純粋に泣き叫べばいい。 怒ればいい。 そうすれば答えは出る。 問題は解決する。 また、一つ、自分を許してしまった。 また、一つ、自分を解放してしまった。 また、一つ、自分を自由にしてしまった。 清々しい。 抱き合おう。 僕らは抱き合おう。 思いっきり笑い合おう。 そして僕に世界に旅へ出るための、 航空チケットを下さい。 (2020.03.02)[:]

[:ja]kosaten magazine 27 『気づき』 「成功者の言葉は信じなくて良い。 無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれないがそんなものは要らない。」 (『終わり〜然るべき場所』より) 「無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれない」 だと…。 それが人生に無駄なものはない、 ということなのか…。 (2020.03.01)[:]

[:ja]kosaten magazine 26 「終わり〜然るべき場所」 やった。 ここまではやった。 無駄な努力だった。 成し遂げるつもりだった。 でも、 もう駄目だ。 本当にやりたいこと、 行きたいところに行って、 幸せになりたい。 幸せを掴む握力を、 鍛えることができたのだろうか? それよりも僕は実績が欲しかった。 そして、 色んな出会いや体験がしたかった。 どうせ苦しむなら、 もっと絵になるような苦しみを味わいたかった。 視力矯正の不具合なんて寂し過ぎる。 余りにも不毛。 泣き叫んだり共感を得る権利さえ与えられていない。 無駄な努力。 世の中にはそんなものもある。 成功者の言葉は信じなくて良い。 無駄な経験もあるんだということを身を持って味わったというのが多少なりとも貴重かもしれないがそんなものは要らない。 俺はもう楽しみたいだけだ。 俺の話を聴いてくれ、 そして楽な道へと導いてくれ、 そう叫びたい、 願いたいだけだ。 また、 あの風景を想い浮かべてしまった。 ハワイのオアフ島、 カイルアの街にあるカイルアビーチ。 ビーチから観える青い景色の向こう、 先の世界。 俺の想像力はそこで終わっている。 想像…しようとは思わない。 例え今まで観た映画の世界を使って 先の世界を想像したとしても、 現実よりは遥かにつまらないだろう。 俺は仮想現実や、 脳の力を、それほど期待していない。 現実に関するどんな議論が繰り広げられたとしても、 俺はその先の世界に実際に足を踏み入れたい。 記憶を植え付けられたら抗えないかもしれない。 けれど俺がカイルアビーチまで行った記憶がリアルかどうか、 議論をしたいとは思わない (何が現実か、対話をするのは構いませんが…)。 俺はマトリックスの世界に憧れていた。 どこかでサイファーのような気持ちがありながら、 やっぱりネオのように真実を求めてしまうのだろう。 暖かく、柔らかく、安らかな毛布の中で。 結局オレはこんな具合の思考を巡らせて堂々巡りの思考に逃避してしまう。 具体的な手続きが必要だ。 超、具体的な、手続きが。 法律を作成するための具体的な手続きや活動が。 世界中を旅するための飛行機の便のチェックと予約と先立つ準備のアレコレが。 …… このまま遠くへ行けるのだろうか。 だったらこのままここに留まっていたい。 芸術なんて、 アウトプットなんてタネが分かればタカが知れている。 それでも真剣に成果物に向き合うのが批評なのか。 もう分からないんだ。 分かっているが、 分からないんだ。 でも、この先にある。 行きたかった、望んでいた世界は、 きっとこの先にある。 確実にそこに近づいている。 心と身体が、 それを教えてくれている。 (2020.03.01)[:]

[:ja]kosaten magazine 25 『然るべき場所』 然るべき場所へ行きたい。 僕が尊重できて、 僕が尊重されて、 僕が本気を出せる、 然るべき場所へ。 どこに行っても物足りない。 どこにも行っても自信が持てない。 退屈で、暇つぶしのように、 どうでも良い場所へ足を運んでしまう。 然るべき場所での顔ぶれはもう頭に浮かんでいる。 もう出会ったことのある人ばかり。 けれど、 話をしたことがない。 昔は僕は、自分をさらけ出せなかった。 まだ、さらけ出せる自分ではなかった。 それがとても悔しい。 まるで意味がなかった。 僕はきっともっと社会と対峙して良かった。 あの頃のまま、 今のまま、 もっと叫んでも良かった…はずだ。 僕は歌える気がする。 僕はいつだって歌う準備ができている。 舞台だってきちんと用意されている。 自分の壁は自分自身だなんて言葉は 身体の不具合の前には消滅してしまうけれど 歌うときには やはりカッコつけていたいけれど だから誰も醜態を晒さない。 少なくとも僕にはそう思える。 でも僕は、 僕は歌える気がする。 僕はいつだって歌う準備ができている。 舞台だってきちんと用意されている。 そして僕は、 然るべき人たちのいる、 然るべき場所へ行ける。 (2020.02.29)[:]

[:ja]kosaten magazine30 『嫉妬』 宇野常寛さんの『リトルピープルの時代』の表紙が、 もし、 仮面ライダー旧1号ではなく、 快傑ズバットかキカイダーだったら、 僕は嫉妬に狂っていただろう。 [:]

[:ja]kosaten magazine29 『直感』 直感に従ったら孤立してしまう。 だから僕は直感を疑った。 それでも直感を正しいと信じている。[:]

[:ja]kosaten magazine 23 『怒り』 小さな怒りかもしれない。 憤りという言葉に置き換えられるかもしれない。 少なからず、 最近、 よく人に言われることで、 腹が立っていることがある。 怒りを表現してはいけないと思っている人がいる、 と、よく言われることがある。 僕は、 怒りを表現できる人だと思っていた。 でも、 押し殺しているのかもしれない。 謙虚で素直な気持ちで、 相手を気遣っているんだと、 無意識に言い聞かせている気がする。 窮屈だ。 毎日が息苦しい。 怒りを表現すれば、 自分の歌を歌ってしまえば、 全ての問題は解決する。 そんなことは昔から、 分かっているのに、 縮こまっている僕がいる。 もうこんな暇つぶしで憂さ晴らしの文章は書きたくない。 書き続けたくない。 理想の自分は、 こんな文章を書くような惰性の毎日を送っているだろうか。 充実したい。 心の底から、 笑い合いたい。 本当の想いを叫びたい。 (2020.02.22)[:]

[:ja]kosaten magazine 24 『微睡み』 一言目から抑制している。 良い子ぶること前提に、 今、この苦しみを書き留めようとしている。 もう少しだ、もう少し。 この凡庸に嫌気がさしたら、 思う存分叫べるはずだ。 歌を歌えば解決する。 問題は全て解決してしまう。 頭に、 これまで観聴きしたロックスター達が、 頭をよぎる。 でも、そんなんじゃ物足りない。 地下の溜まり場に、 集い、交わされる何か… 暖かくもあり、怪しくもあり、 だらしくなく、 そして意識は微睡みの中のような… このまま堕ちていきたい… この凡庸さに嫌気がさしたら、 思う存分叫べるはずだ。 そしたら全ては解決する。 解決してしまう。 何て開放的な気分なんだろう。 こんな奇跡が訪れるなんて。 分かっていたはずだ。 全て分かっていた。 微睡みの中、沈んでいきたい。 その権利が僕にはある。 その資産が、僕には充分にある。 どこかにかしこまって出掛ける必要もない。 僕の居場所はきっとある。 だからもう叫んでしまおう。 この抑制された、 良い子ぶった空間からは、 もうおさらばだ。 良かったね、 良かった、 と、 微笑んでくれるあの娘が見える。 そう、 本当に良かったと思える。 ここだったんだ。 僕が求めていたのは、 楽になれるのは、 幸せになれるのは、 幸せにできるのは、 ここだったんだ。 だから、 本当に良かった。 楽しいことばかり、 幸せなことばかりだ。 再びこれまで観聴きしたロックスターが頭をよぎる。 というよりジミ・ヘンドリックスの顔が頭に浮かぶ。 意味はない。 僕のこのせっかくだらしなく気持ち良くなっている気分を加速させてくれるだけだ。 それはとてもありがたい。 このまま沈んで行こう。 そしたら超絶技巧のテクが手に入るかもしれない。 きちんとした生活はもうどうでも良い。 一度くらい、 存分に堕ちてみたい。 もう少し…。 もう少しで幸せになれる。 僕はまだ、 ロックの本当の素晴らしさを知らない。 本当の始まり。 良かった。 これでやっと、 幸せになれる。 意味はない。 尊敬もされない。 でも、これで良かったんだ。 筆を取ってアウトプットするのはオマケに過ぎない。 きちんとし過ぎている。 だからこれでいい。 これで良いんだ。 とても気持ちが良い気分だ。 きっと、初めての気分だ。 色んな人を救える気がする。 本当に良かった。 本当に僕が求めていた世界がここにあった。 本当に良かった。 (2020.02.25)[:]

[:ja]『揚げ物好きが高じて』 食べることが好きです。 肉や魚、野菜、豆類、卵、お菓子も含めて、 食べることが大好きです。 好きな食べ物や料理を挙げればキリがありませんが、 特に辞められないのが揚げ物、 特に春巻きです。 自分で作ることは余りありませんが、 スーパーやお弁当さん、ショッピングセンターの惣菜を始め、コンビニや冷凍食品も含めて、毎日買って家で食べています。 その食べ方も長年の間に色々と変化してきました。 まず何よりもトースターでコンガリと焼くことです。 惣菜として売られた状態ではパリパリ感が物足りないので、 僕は必ずトースターでコンガリと焦げ目ができるまで焼いてから食べることにしています。 このトースターで揚げ物を焼いている時は僕にとって至福の時間なので、 表面が焦げてしまわないように春巻きにアルミを被せつつ、10分以上、時には20分ほど、 もうそれ以上焼いてもコンガリ具合は変わらなくても焼き続けることがあります。 トースターでコンガリさせながら、 そのトースターの音をBGMにストレッチをしたり、 腕立て伏せをして、 美味しく食べれる身体の状態を整えています。 コンガリと焼いた春巻きをお皿に取り出す瞬間は溜まりません。 肉料理や魚料理を始め色んな料理が好きだし、 揚げ物もクリームコロッケ、エビフライ、カキフライ、串カツ、トンカツ(特に卵とじの、いわゆるカツ丼の上)、天ぷら類も好きなのですが、 毎日食べたくなってしまうほどの中毒性があるのは、 今のところ春巻きだけです。 春巻きの食べ方についてですが、 春巻き単体で食べ続けることは少ないです。 春巻きと同じくらい好物である生卵に千切りキャベツをつけて一緒に食べるのが主な食べ方です。 春巻きだけでなく、 揚げ物だけではなく、 大体の料理を僕は千切りキャベツと生卵の組み合わせと一緒に食べます。 多くの人が肉や魚を食べる時に一緒に白いご飯を食べるのと同じような感覚なのかもしれません。 最初の一口に食べるのはやはりコンガリ焼いた春巻きなのですが、 コンガリ焼いた春巻きを食べるパリッとした最初の一口は溜まりません。 しかしその食べ方も、段々変化してきました。 春巻きを食べ続けていくうちに、 春巻きの皮だけを食べたくなることが多いことに気づき始めました。 特に冷凍の春巻きの場合、 中身の具材がそれほど美味しいとは言えないこともあり、中身を出して皮と具材を分けてトースターで焼いて食べるようになりました。 そのようにして食べるとコンガリ焼いたパリパリの皮の食感や味だけを味わえるので、 とても幸せな気持ちになれます。 中身の具材も普通に焼いただけではそれほど美味しくなくても具材だけ出してコンガリさせると、それなりに美味しく食べることができます。 そんな調子で揚げ物が好きというよりも、 春巻きなら揚げた皮、他の揚げ物なら揚げ衣の部分への食欲が増していきました。 そのため、 エビフライ、カキフライ、串カツ、トンカツなどのしっかりした素材を揚げた料理だけでなく、 チーズパイやオンオンリングなど、 具材感が弱い、ほぼコンガリ焼いた生地や衣で覆われた部分で構成されている料理も好むようになってきました。 春巻きの皮、チーズパイ、オニオンリング、など 複数の揚げ物料理の揚げた部分を一度に口に含んでバリボリさせて食べる瞬間は溜まりません。 もちろん、 それらも千切りキャベツin生卵と一緒に食べます。 まだ、 油の塊である揚げ玉やかた焼きそばの麺だけを食べるという領域には達していないのですが、 それも時間の問題かもしれません。 揚げ物好きが高じて、 この先ぼくの欲望はどこに向かっていくのか、 今からとても楽しみです。 (2020.02.01)[:]

[:ja]『動画撮影の日々』 毎日、 動画撮影をして、 YouTubeで発信できる環境を整えたい。 自分の経験や考えや、 好きなことや日常の風景や、 誰かと対話している場面を、 映像に撮って表現していきたい。 そう思いながら、 もう、 だいぶ長い時間が経っている。 そう思いながら、 毎日、そのような環境を整えられず、 悶々と過ごしている。 自宅で撮れば良いじゃないか、 という声もあるが、 僕は今住んでいる世田谷区にある実家が余り好きになれず、 どうしても動画を撮影しようという気持ちになれない。 動画だけでなく、 僕は今の自宅にいて作業をするのが苦手だ。 そのような事情で、 今はkosatenメンバーのあるお方にお願いして、だいたい週に一回、 kosatenが開いている時間の数十分をお借りして、撮影を手伝ってもらっている。 でも、 やはりそれではもう物足りない。 もう、 「出したいっ!」 という想いが日に日に強くなってきている。 どこでも撮れるはずなのに、 一人でも撮れるはずなのに、 何でも出していいはずなのに…。 毎日、動画撮影をして自分を表現して、 世界に発信している日常を想像する。 世界とつながっていること。 それは、 とても素晴らしいことのように思える。 その日常は、 とても充実したもののように思える。 僕は、 本当に、 世界中のいろんな人たちとコミュニケーションがしたい。 もっと気軽に、 そして、本気で、 お互いを尊重し合ったり、 ぶつけ合ってみたい。 恋愛… というものもしてみたい… 幸せな道を、 歩んでいけたらと思う。 (2020.02.18)[:]

[:ja]『苦しみ5』 苦しい。 今の状況が苦しい。 視力矯正の不具合による視界の歪みや頭痛や違和感、それらにより、 やりたいことがやれない、 行きたいところに行けないのが苦しい。 暖かいところに行きたい。 でも、行けない。 相変わらず実家のリビングで食事をしながら、 そんなに眺めが良いわけではない景色を、 ボンヤリと眺めている。 ボンヤリと食べている。 苦しい、と身近な人に頻繁にLINEしてしまっている。 身近な人といっても心の支えになっているわけではない。 家族という存在。 それよりも僕は心の支えが欲しい。 僕はとてつもなく弱い。 最近、少しずつではあるが、 動画を撮り始めている。 けれど、 動画ではネガティブなことは余り言えない。 だから、ここで、 kosaten magazineで吐き出している。 人目を気にしながら。 いずれにしても最低だ。 叫んでしまえばどんなに気持ちが晴れるだろう。 どんなに心が解放されるだろう。 ああ、、、気持ちいい…。。。 僕が叫べば世界が凍りつく。 そんなことを詩にした詩人がいたような気がする。 凡庸だ。 後悔ばかりだ。 叫んでしまえばどんなに気持ちが晴れるだろう。 どんなに心が解放されるだろう。 ああ、気持ちいい。 天国だ。 人生で4度目の感動だ。 幸せだ。 (2020.02.13)[:]

[:ja]オマージュ桜の森の満開の下 作:カンダタ 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子を食べて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖しい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児をを人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり、見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)と いう話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。 「坂口安吾・桜の森の満開の下より」 多吉は親の顔を知らない 多吉は学問を知らない 多吉は眠りを知らない 多吉は女を知らない ただピッキングのやり方は知っていた 都市周辺郊外に建てられた高級マンションの一室の扉を電子ピッキングした 何故その部屋に目星をつけたかは子供の頃から薄気味悪いと毛嫌いしていた桜の木の影になる部屋だったから もう十年そうやって盗んだ金で凌いでいる 「こ、こ、今晩は金持ちの部屋か、つ、ついている」 部屋に入ると骨董価値ありそうなアンティークな家具 大型プロジェクターTV最新家電 膨大な量のクラシックのレコード 昆虫の蛾の標本が飾ってあった 「お、男の部屋か?女か?のっぺらぼうみてえな部屋だな、気味が悪い、寒気がする」 多吉は金目な物を物色しようとしてはたと気が付いた アンティークの家具の横に一体の球体関節人形が置いてあった 「き、綺麗だ今晩は此れを持って帰るとしよう」 球体関節人形は最初に震えそれから音声が流れた 球体関節人形は近頃独身男性向けに発売された セクサロイドだった 「お、お前喋れるのか、な、名前はあるのか?」 「ワタしハヒビヒビ アア、イやダ、オブッテオクレよ」 桜の森の満開の下、人形を 抱えた大きな影が夜の帳に消えて行った 多吉は嫌いだった桜が好きになった 「さ、桜は、つ、ついている」 其れから幾晩か過ぎた 「アア、イヤダ、ワタシハオマエニヌスマレタカラ不自由な生活をシテイル」 「お、お前が欲しがる物はなんでも盗んできてやったじゃねぇか」 「オマエハ、無学で田舎者ダカラ都会の女ノ暮らしガ分かカラナイ わタシはBABy,のべべが欲しい」 「わ、わかった今晩お前もこい望む洋服を盗んで来てやる」 桜の森の満開の下の夜 何軒かピッキングで入った部屋は女の部屋だった 「お、お前の望む洋服はこれか?」 「コンナべべデハナイ、お前はナサケナイな」 ピッキングで不手際をしたことのない多吉だったが 人形を連れてきたことで 隙があった部屋の住人の女が帰って来たのを気が付かなかった 「ひいい!泥棒!!!」 「ひ、ひびひびまずい」 「その女のべべが欲シイ」 「ひ、ひびひび逃げるぞ」 「ソノ女殺シナ」 「お、俺は殺しはしない!」 「後生だから助けて!」 「イイカラ殺しナ」 ……………………………………………………………………………… 桜の森の満開の下に人形をおぶった影があった 多吉は人形が恐ろしくなった おぶった人形を投げ出したくなったが 人形が自分で自分が人形になったように混合していた おぶった人形が重くなった気がした 人形はひびひびではなかった 人形は鬼だった 多吉は鬼を振り払い鬼の首を絞めた汗が流れた そして気がつくと横たわっていたのは 桜の花びらに埋もれたひびひびの残骸だった 多吉は産まれて初めて泣いた 多吉はひびひびの顔の上の花びらをとってやろうとすると多吉の手の下には降り積もった花びらばかりで人形の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていた そしてその花びらを掻き分けようとした多吉の手も多吉の身体も伸ばした時にはもはや消えていた。 あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりだった。[:]

[:ja] 最近、つくづく思うこと(オムニバス) 今の人類(少なくとも日本に住んでる人)の 最大の敵は孤独や寂しさだと思います 冒頭から蛇足ですが 最近2.5次元という言葉をよく聞きます 2.5次元のあくまでも僕の解釈は 悪い例えで申し訳ないですが 二次元がアニメやそのキャラクターだとして 三次元が現実や人間で 2.5次元は三次元の人間と 二次元のキャラクターとの 境が無くなってる状態だと勝手に思っています (決して否定はしてないです 気分悪くさせたらごめんなさい) 僕が言いたいのは孤独をかなり減らせるのは お互いがお互いの一番の理解者の存在 だと思います そういう人がいれば周りが全部敵でも 砂漠に咲く一輪の花のように きみは間違っていない、応援している と言ってくれたり アドバイスしてくれたりするからです もちろん自分もその人に同じことをして お互いいい関係になれたら 自分は一人じゃないと思えて 孤独や寂しさがグッと減ると思います 僕は自分に自信がありません でも「人間が大好き」です 人に傷つけられることもあるけど やはり人に「期待」をします また「自信というものはそもそも根拠がない」 ので勝手に自信を持つように心がけています 僕もいい歳ですので いい加減「自分の人生に慣れたい」です 僕は 「人間は他人に迷惑をかける為に生きている」 と思っています 例えば、赤ちゃんは世話をされながら 相手に愛を与えています そういう風に「迷惑をお互いかけながら お互いを認め合っている状態」 が、理想の関係だと思います そこには信頼関係があるからです また「信頼関係とは言葉じゃなくて 行動で築くもの」だと思います 人間は誰でも「闇」を抱えています マザーテレサの死後マザーテレサの「闇」を マザーテレサがインドの大司教などに 送ってた手紙が一般公開されました そこにはマザーテレサの とてつもない「闇」が書いてありました 僕は「「光」と「闇」が一緒に存在しているのが 人間として当たり前で、重要なのは その格差(振り幅)が振り子のように 幅があればある程、その人の人間性や人生に 「深み」や「味」が出る、また 「人生の醍醐味」を沢山味わえると思います 「人生の醍醐味」を沢山味わうと 自分が死ぬ時に「私は精一杯生きたぞ!」と 自分に胸を張って死ねると思います それでこそ「生まれてきた甲斐があった」 って物だと思います 僕はそういう人が大好きです 最近、凄くハードな日々を過ごして やっとお休みの夜、夢を見ました 夢の中で、僕が陸上部の部長をやってて 他の部員が言うこと聞かなくて 何回も部長やったの後悔して ある大きなことを達成する為に 半ば強制的に部員を集めて、何回も失敗して 僕も何回も失敗して、最後にその大きなことを 達成する最低限必要な人数が集まって ついに成功した瞬間僕は大泣きして 目が覚めたら現実でも泣いていました とても象徴的な夢でした 僕は「言葉に責任を持つべき」 だと思っています。よく、僕は相手に対して 僕は言葉に重点を置いていますと 自分から伝えたり、相手もたまに Y.Fさんは言葉を重要視しているんですね と、言われたりしますが そもそも論で言葉に重点を置くのが 常識だと僕は思います。でも 言葉をなあなあにして、後は察してねという 考えが多く、言葉を重要視するのが マイノリティのような気がします 言葉に責任を持つというのは 例えば僕が以前、ある所で他の人ともめた時 その人の話だけ聞いたスタッフから 「あなた王様ですか?」と言われました 僕は物凄い怒りと深い心の傷を負いました あのセリフは一生忘れられません しかし、その後同じ所で、僕がまた 違う人ともめた時、そのスタッフに伝えたら 自分は両方の言いぶんを聞くようにしている と、言われました もめた人は覚えてないの一点張りでした まあ、社交辞令嫌いのたわ言だと 思ってください 僕は今、あることを練習していますが 一緒にやる先輩から 少し難しい課題をもらいました 僕は笑いながら 「先輩、これは難しいですね〜」と言ったら 先輩が 「大丈夫、出来ない人には言わないから」 と、言ってくれた瞬間、僕は一瞬固まりました そりゃ頑張らなければならなくなったし モチベーションが物凄く上がりました笑 未熟な僕としてはこういう風に 言葉を使えるようになりたいものです [:]

[:ja]このブッククラブで、いつかチェーホフを読んでみたいと思っていました。チェーホフは「偉大な巨匠」というような作家ではないかもしれないけれども、しかしかれほど透徹した視線で人間を観察した人もいないのではないかと思います。わたしがロシア文学に足を踏み入れたきっかけは、やはりあの「偉大な」ドストエフスキーたちでしたが、その後折々にチェーホフを人に勧められてかれの作品と出会い、最初のとっつきづらささえ越えてしまえば、すでにチェーホフがお気に入りの、いや、かけがえのない作家になっていることに気づくのでした。 このとっつきづらさを、チェーホフを初めて読んだ人は感じたのではないでしょうか。それはおそらく、チェーホフの物語が、「大(だい)文学」にしてはあまりにささやかであるというところに一つの原因があると思います。チェーホフの世界は、あの華麗にして壮大なトルストイの世界や負のエネルギーに満ちたドストエフスキーの世界と比べ、あまりにささやかであり、透明であり、うかうかしていると横を通り過ぎてしまいかねないような、そんないわば身体の周囲5メートルほどの世界です。しかしちっぽけなこの「わたくし」にしてみれば、身体の周囲5メートル以内で起きるものごとを除いて、切実なことなどいったいあるでしょうか。 ところで、ささやかで小さな世界といえば、日本には「私小説」というジャンルがあります。しかしチェーホフの場合、「私小説」とも言えない気がします。そこには奇妙なほど「私」が欠けているからです。しかしそれがチェーホフのすぐれているところでもあって、つまりかれは我を通さない、ある一つの価値観によって他者を断じないのですね。──あまりにささやかで、うっかりしていると見過ごしてしまうような「誰か」の世界。大きな物語からこぼれ落ちたみすぼらしい人間たち、生活の中で未来を夢見ることを忘れてしまいながら、それでもなお生きることを諦めきれない人間たち。そこにはいつも、なおもこのどうしようもない世界を生きつづける「わたしたち」の姿があります。 そして、ささやかで見過ごされてきた世界…と考えたときに、チェーホフの作品、特に戯曲では、つねに女性が中心にいることに考えいたります。「かもめ」のニーナ。「ワーニャおじさん」のソーニャ。「三人姉妹」の姉妹たち。「桜の園」の母子。どの劇を観ても、最後に印象に残るのは女性たちの姿です。男性作家が女性を描く際には、つねに権力関係が潜んでしまうものであるとはいえ、チェーホフの場合、その「わたくし」の無さのおかげでしょうか、そうした副作用が最小限に抑えられているような気もします。声高に権利を主張するというのではないけれども、チェーホフの世界では女性が女性として、たしかに生きていて、チェーホフ最後の短篇である「いいなづけ(Nevesta)」の結末などを見れば、チェーホフはたしかにフェミニストなのだ、と納得できる気さえするのです。 そんなわけで、わたしにとってチェーホフはいつだって「わたしの作家」「私たちの作家」…現代的な作家であり続けていて、今回ブッククラブでチェーホフについてみなさんと話すことができたのは、わたしにとってとても嬉しいことでした。『三人姉妹』について、たとえば登場人物の徹底的なまでの受動性──自分から状況を変えようとするでもなく、生々しい現実を前に絶望してしまいながら、ただひたすらに漠然とした「明るい未来=モスクワ」に希望を託して死んでゆく態度──をめぐって、またディスコミュニケーションの問題──劇のなかでは自己完結した独り言が次々に浮かんでは消えてゆきます──をめぐって対話しながら、ますますわたしにはチェーホフが私たちの作家だ、と確信された気がします。 ディスコミュニケーションのあり方は、私たちがツイッターで目にする光景そのものです。そして明るい未来の象徴たるモスクワを決定的に失い呆然として立ち尽くす幕切れ──そこに立ち尽くす三人の姉妹の姿が、どうして私たちそのものでないと言えるでしょうか。私たちのこれからも、きっと「モスクワ」を失った、その地点からしかスタートしないのだと思います。しかしながら、わたしはこの結末に明るさもまた見たいとおもいます。つまり『三人姉妹』の結論は、すべてが終わった地点からもう一度スタートすること、「何のために生きているのか」それを分かりたいと希求しながら、なお生きることを諦めないこと…にあると思うのです。私たちもまた三人姉妹なのだと、お話をしながら静かに思ったブッククラブでした。 (工藤順) [:]

[:ja]『苦しみ4』 苦しみを解放したい。 ただ、苦しいと叫びたい。 本当はこの苦しさを論理的に証明したい。 苦しみを表現することは勇気がいる。 苦しみを表現したり、 弱音を吐いてはいけないという、 世の中の声を感じ取ってしまう。 思い込みだろうか。 視力矯正の不具合による頭痛で頭の働かない僕には、 そのような世の中の声を冷静に把握できない。 だから苦しみを解放しても良いと、 表現しても良いと、 泣き叫んでも良いと、 恥ずかしくても良い、 と、 直接、許可を出して欲しい。 もっとも、 「いいよ」 と言われても、 簡単に解放できるわけではないが。 恐らく、 「それがなかなかできないんですよ…」 と誤魔化してしまいそうだが。 もしこの苦しみを思いっきり表現できたら、 この苦しみからも解放される気がする。 とても気持ちが晴れてくる気がする。 また、 すぐに論理的思考が働いてしまう。 苦しみを具現化するための歌詞やメロディーを、 構築しようとしてしまう。 ガムシャラに泣き叫ぶ前に。 そして僕は閉じていく。 Beatlesの『All You Need is Love』に癒されながら… 泣き叫ぶ機会を伺っている…。 (2020.1.20)[:]

[:ja]【善人病】 遠い遠い未来のむかし話です となりのとなりの国である男が市場で食事をしているとしゃっくりを一回しました。はておかしいなあと、思い、また気のせいかなあと思い食事を終えて家に帰ると、その晩から三日三晩寝込んでしまいました。その男はお金持ちだったので、町一番のお医者様が来て、考えあぐねて、その男の書斎にある、環境保護の書籍をチラリとみて、その男の書き置き、(地球は今、病気だ、私がなんとかしなければ)をみて、たぶん知恵熱、【善人病】と命名しました。それから数日、今度はそのお医者が、ある疑念にとらわれました。私はもしかしたら町一番の先生と呼ばれてその名声にあぐらをかいていたのでは?私は、もしかしたら救える命を殺してしまったのでは ?石川五右衛門の生まれ変わり、またの名をアルセーヌルパンとは私のことでは?キリストをユダが裏切ったのはもしかしたら私のせいでは?かわいそうなユダ。私は罪人です。地球は今病気なんです、とメソメソと泣き出し寝込んでしまいました。町一番の先生が寝込んでしまったので、暫定1位の先生が先生をみ にきましたが、暫定1位の先生は競合他社のライバル先生、これ幸い、千載一遇のチャンスと思ったのですがヤクセキコウナク、ヤマイコウコウニイル。やはり後味が悪い結末になり、暫定1位の先生は酒場で飲んでいたのがいけない、酒場の有線放送で(一人酒場で飲む酒は)の唄に涙がポロリ、またポロリ、酒場の一同のお客様ももらい泣き 一同、すべての人々は罪人であります。地球は今病気ですと集団泣きながら大合唱。セリヌンテウス僕を殴ってくれ、いや僕も殴ってくれ、ああ、もっと殴って殴って、嗚呼もっと、ケチケチするなよ、頼むマスターもう一杯。 みなフリーハグ活動をするようになり一日一膳二膳は当たり前。やればできんだ君だって。しかしフリーハグをすればするほど。この善人病は増えていきました。ある家では突然、老人の家に電話がかかってきて(もしもし、あー俺、俺、宝くじがあたったんだ口座に振り込ませてほしい)ある家では、説教強盗がピッキングをして入り込み、あろうことか、掃除洗濯をしてこれを少ないけど世界中の恵まれない子供たちに分け与えてくれ、理由は三つある、一つは私だけの十字架。もう一つは地球は今病気です。最後は今はまだ言うときではないだが時が来たらいう、 ところ変わって。ある島国。テレビでは変わった出来事が起こっているなあと寝転んでいた三年寝太郎田は母さん今日の晩飯何?ときくと。お前が好きなカレーだよチキンに辛口、ジャガイモ、ニンジン、なんていったって地球は今病気なんだから。でもその前にフリーハグをしにいってからね、太郎はハテナ?と小首を傾げて一回しゃっくりをしました。ニュース速報が入りニュースキャスターは善人病です。パンデミック今すぐ慈善活動をしてください。普及率とは昔から50%を超えると爆発的に増えます。カラーテレビしかり全自動洗濯機しかり。最初は私も怖かった、でも善人病に侵されて行くのは快感です。そこのあなた、まだ善人病でないの?時代に取り残されていきますよ!我が国とはもともとそういう気質じゃあないですか!?地球は今病気なんですよ。テレビでは世界各国の敵対する首脳が民族が泣きながらハグをして核兵器廃絶。各国では平和を祝うパレードがひらかれるようになりました。 となりのとなりの国である男が市場で食事をしていると しゃっくりをしました。 はておかしいなあと、小首を傾げて 家に帰ると三日三晩寝込んでしまいました 町一番の先生がみにいき 先生は考えあぐねて男の書斎においてあるのは 平和になった地球ではもうみたことがない本で 考古学の学者に解析をさせると 本のタイトルは 【我が闘争】という言葉が書いてありました 終[:]

[:ja]Y.F ある一個人の超主観的な気づき 最後に辞めた会社は8年間勤務した 8年間勤めて結局最後まで 分からなかったことがある それは 「なぜ一部の人間性が冷たかったり酷い人が どんどん昇格していくのか」だった この今思えば厨二病みたいな疑問は 退社してから一年後くらいに謎が解けた 当たり前すぎることなのだが 「会社は営利目的なので会社にお金を落とす人を 昇格させるので人間性は関係ない」だった 自分の実務経験の少なさを情けなく思ったものだ 最近はプライベートが充実して サラリーマン時代よりもイキイキしてる今 ある瞬間、急に気づいたことがある 僕は敬愛するマザーテレサの 「人間の価値は何をしたかではなく どれだけ愛を持って行動できたかである」 という言葉が大好きだが 会社という組織は あくまでも僕個人の経験論だが 仕事に情を持ち込むと 失敗して怒られることがよくあり 逆に仕事に情を持ち込まない人が 評価されていくシステムだと思う 気づきというのは 僕にはそのシステムは合わないというものだった 上述した疑問に僕が8年以上も 答えが出せなかったことや マザーテレサの言葉に 強く反応したことからもわかる 勿論、他のサラリーマンを否定する気はない 僕には合わないだけだ 僕が重要視することは 「今、何をしているか?」だ 30年間、漫画家をしている人と 今日、漫画家を目指して始めた人とは 何も違いはない 夢を語って、今、具体的にアクションを 起こしてないなら 「いつか」なんて単語は無意味だ 「今を生きる」と言うと 今が楽しけりゃいいというイメージが 僕にはあるので 「今がすべて」だと思う 今の一瞬一瞬アクションを 起こし続けてさえいればそれだけでいいと思う 疲れたら「休息」と言うアクションも必要 そして、マザーテレサが言うように 今、しているアクションに どれだけ愛を持って出来るかが 勝負だと僕は思う[:]

[:ja]【鳥】 ある陽射しばかり強く少しも暖かくない午後、二人の作業員が缶珈琲を飲みながら作業の打ち合わせをしている 「この樹を伐ってしまえばよいのだろ」 「でももう十年鳥の巣にくっついた太った鳥が居座ってる」 僕は鳥だ、もう幸栄住宅の202号室のカーテンの閉まった、三畳半に二十歳からだからもう20年閉じ籠っている体重は120キロ、年老いた82歳の母と二人暮らし食事、洗濯は母がやってくれる、母はあまり難しい事がわからないようだ、僕は甘いものを食べたくないと、もう何度も訴えてるのが、 「康介、あんみつがあるぞ」 と、窓からみえる鳥の巣は巣立ちに失敗したとり、ほら、図鑑にのってる鳥だ、名前は忘れた、親がどんどん餌を持ってくるから10年間、太って巣に身体が挟まって、老親鳥が餌を運んできて食べさせている、どんな気持ちなんだろうか?僕はともだちがいない。古い漫画を読むか、昔の漫画をよむか、前の漫画をよむか、とにかく二階の窓からみえる風船のように膨らんだ鳥が僕の気持ちを代弁してる 僕は夢をみる 自分が北京ダックになり地上に首だけだして土に埋められてる 無理矢理身動きとれない僕にコックがきて口を金属であけて無理矢理、食事をさせる、苦しい、もう食べたくないとガアガアもがく あと見る夢は 水中にいて地上から酸素が送られてこなくなる夢 袋小路になりファミコンのボンバーマンに爆弾を置かれ潰される夢 ネットで調べた【悪夢障害】というらしい。毎日ハンニバル・ライジングのレクターみたいにうなされる 母は昔のひとで難しいのがわからない 僕は発達障害らしく やたらけむったいニィーチェだかショーペンハウアーを読む 母はあまり機能のついてない昔のブリキの風見鶏。餌を運んでくるしか機能がついてない 僕も鳥だけどただの鳥でなく、精密コンピューターだけど、バグが凄い、僕の超精密コンピューターが完璧にできるのはカップヌードルのお湯をいれてから美味しい食べ頃の【3分】を計るのみ、超精密、超高性能にカップヌードルをつくる、あとは企業でも使えずにコンピューターエンジンが火を噴いて。冷たい氷水を一日20リットルかけて機械を冷やさないといけない 親鳥ロボット 精密スクラップコンピューター トントン、トントン、 「ん?誰だこんな夜中に?」 「すいません、すいません、こんばんは、」 僕は二階の窓をノックするのを不思議に不思議がらない、カフカの不条理みたい 「はい?どなたですか?」 「康介さんわたしです、はじめて、おはなししますね、10年前から、私を見守ってくれてましたね、鳥です、あ、どうか、カーテンはあけないで、僕は10年巣に挟まっていたけど、今晩は、巣立ちをします」 「え?お前か、巣立ち?そんなことできるの?」 「まあ、駄目だと思うけど、老いた母が僕が嫌いな甘い、甘納豆を運んでくるのに油断して、猫に食べられたのです、それと明日の朝に、僕の住んでる樹が伐採されます、僕はばれないように餌を下に餌をこぼして少し痩せて、飛んでみようと、それは私に無理だとわかってるけど、こうやって10年も延命してるのが不自然なんです。ちゃんと鳥として、自然の摂理に従うのが本当なんです。ただ康介さんにはお別れの挨拶をしたかった。康介さんにお会いできてよかったです…………」 【翌朝】 あれ?夢をみていたのか? カーテンをあけてみると樹が伐採されてる 作業員にきいてみる 「すいません、この樹の上に鳥の巣ありませんでした」 「あったけど中味空っぽだったよ」[:]

[:ja]【ある精霊の見る夢】 (おかあさん、おかあさんはとても純粋、でもおかあさんは生まれてくるときにきっと大切な何かをもってくるのを天国に忘れてきちゃったんだね、) 「お金は限界効用の低減の法則が当てはまりません、こんな難解な道理は貴女に通じないのがわかって話してます」 【NHKニルスの不思議な旅最終回(僕だよ!モルテン!!ニルスだよ、僕の話が通じないのかい?) ガアガアガアガアガアガアガア】 「母さん!わかんねぇのかよ!俺はコントロール喪失なんだ、俺は希死念慮ある、アデクションだ、見た目には健常にみえても出来ること、出来ないことの落差が激しすぎる!なんかおかしいなあと違和感で今まで生きてきた。半径3mの世界あとはモザイクかかってる。ドラえもんの未来の住宅みたい、でもドラえもんが帰っちゃったらどうするの?。貴女が生命維持装置みたいだ。俺はもう47歳だ!でも時計が止まってるんだ。なんで言葉が通じないの?悲しい、悲しいよ!お母さん!俺は死んだ親父に殴られて父が俺を殺そうとしたから仲裁を警察に頼んだら、俺が、措置入院にもなった。警察は嫌がらせもした。父が俺を殺そうとしたから助けを呼んだ。近所に聞こえたから通報が何十件、今じゃ近所も挨拶をしてくれない家が我が家。親父に張り倒されたきっかけで水も一日二十リットル飲むようになった。専門機関も聞いたことがない量だと言われてる、テレビに出てる精神科医のトークショーで質疑応答したら心臓やられて死ぬと。私はさっきからアイメッセージで話してる、ダブ ルバインドとスポイルで完全に共依存、いろんな依存、アデクションで自力では無理だ、母子密着でカウンセラーからもめったにいないくらいくっついてると言われてる。幼少からサポートが必要だったんだ、ベトちゃんドクちゃんみたいだ! 俺は子供の頃からずっと孤独だったセルフエスチームが全然つかない緩慢な末期癌患者か死刑囚みたいな観念だ。僕は無謀でも摂理に抗議する!四苦八苦の愛別離苦に抗議する!一蓮托生だ!外部との比較のない世界で内観したから強化されて、そりゃ外部のサポートつけば生活保護やらで生きていけるかもだけど身辺自立を邪魔するじゃないか。知っているよ貴女が専門用語や難しい言葉が通じないってカウンセラーからも理解されないというより、わからないお母様に変わってもらおうは不可能、私が困っているのが貴女には想像できないんだ。 うちは仲の良い理想的な家庭。 そう思っている。僕は外界がわからないから砂漠にいてオアシスだと思っていた。おばあちゃんがいた幸せな子供の時代からうちは時計が止まっているんだ。人間は傷つくと時計が止まるんだ。僕は違和感が何かわからなかった。自分が家庭を壊している害虫なんだと思っていた。ただね、僕は自問自答して自分の究極のことがわかったんだ。僕の、僕の神様。 わからないお母様をいじめているようだよと、わざと難しい言葉をいっているんだ。この歳まで知らなかった 【貴女も何か決定的なハンデがあるんだ】 (おかあさん、おかあさんはとても純粋、でもおかあさんは生まれてくるときにきっと大切な何かをもってくるのを天国に忘れてきちゃったんだね、) もう貴女も八十代、何年も一緒にいられない。 まだサポート受ければ僕は生きていける でもね はっきりいうと僕はこの濁世が大嫌いなんだ!だいっきらいなんだ!だいっっきらいなんだ!!貴女の義理で生存しているんだよ。私は貴女のみている夢で貴女の生滅と共に消えるそう二十七年強化した。スライバーにはならない、サバイバーだ!私は全く自愛ができない。自愛できない人は人に思いやりを求めて、そういう人は誰にも思いやりを貰えないで終わっていく。正確には欲しい優しさしか受信できない。僕は毎晩二十七年睡眠になる前、どう生滅しようか考えて眠っているんだ。 現体験中の時間は常に過去の時間の総和と比較される。これから先の時間はもう落下するエレベーターだ、僕は怖い、人間臆病過ぎると死にたくなっちゃうんだ。 【四十七年前】 乳母車の赤ん坊が笑っている(さっきからくるおんなのひとふたりどちらがママ?) 「おかあさんとおかあさんの姉」 「おかあさん、ようちえんはべんきょうしないといけないところでしょ、いきたくないよ」 「おかあさんすきなお弁当、保母さんがストーブで温めてくれたけど、缶のみかんが温かくきもちわるかったよ」 「棚殿小学校の初日うえだくんと仲良くなったよ」 【おとうさんとおかあさんとおばあちゃんとイトウのハドヤホテルにいきました4年3組ほんだけいたろう】 「おかあさんのパート。駅のアクセサリー屋の鍵っ子で、本屋さんで、裸足のゲンと手塚治虫の火の鳥を読んだ。火の鳥は難しいけど僕は眠る前に。命がいつか終わるということに。お布団でさけびだしたいんだ」 Q、人間はいつか死ぬの?おかあさん、おとうさんは人間なの?おかあさん、おとうさんはいつか死ぬの? 右目を30回ウィンクして 左目を4回ウィンクしたら おかあさんは、おとうさんは永遠に死なないかな? 小学校帰りの下校、前に100歩、30歩戻れば永遠に3人一緒かな 神様をぼくはつくったよ 「おかあさま圭太郎君のことで相談が、彼は小学生低学年の読みは出来ても書きができません、算数の倍数もできません。通知表に書いたとおり、近々面談をしましょう」 「え、え、え?!圭太郎のおかあさん父兄参観でみたけど女優さんみたい。圭太郎はシャツだして汚いのに」 「おかあさま圭太郎君は高学年になっても女子生徒に抱きつきやスカートめくりがとまりません、児童精神科につれていってあげてください」 「英会話塾のみんな、最初に自己紹介ね、自分の身長を言ってね、え?圭太郎くん自分の身長わからないの?でもあなたは180センチも身長ないよ?え?わからない?」 「圭太郎!なんでお前日本地図で東京がわからない?!」 【仲村トオル、清水宏次朗主演、ビーバップハイスクール大ヒット上映中】 「お前何、睨んでんだよ!ガンたれてんじゃねぇよ、裏来いよしめてやるからさ」 「おい、圭太郎、お前、学校こないのか?ゲームやっているのか?お前行ける高校はっきりいうとないぞ、お前将来大変なことになるよ、わかってんのか?」 先生、先生、たくさんの先生、恩師、みな三十年以上ご無沙汰してます、幼少の頃の僕は言葉をもってなかったけど、たぶんこう思ってきいてました 先生、僕が将来大変なことになるのは知ってました。でも僕は心の中でこう答えてました 【先生、知ってます、でも抗えないのです】 「はい、今晩お送りしている【知っているつもり】はアドルフ・ヒトラーです、アドルフの母を看取ったベテランドクターが五十年医師をやっているが、こんなに母親の喪失を落胆した息子はみたことがないと述懐していたエピソードでした。それではCMです」 「お兄さんさ、まだ若いんでしょ、理髪店の私がいうのもなんだけど、もっと流行りの髪型にした方がよいのじゃないの?お兄さん仕事は何をしてるの?今日は休み?」 「お前、コーラのケース数える仕事30分かかって、また間違えて、なんで来たばかりの社会科見学の中学生に仕事手伝ってもらってんだ、何年やってんだ?」 「スキルス性の癌でステージ4です、お父様の余命はあと一年です」 「お母さん長い間ありがとう、僕は長年自分の中の神様と対話をしてきました。神様が貴方は選ばれて時が来たのです、人びとを救いなさい。ドイツの精神分析のエルンスト・クレッチュマーが【天才論】で天才は同輩からバカにされ教師から蔑まれ続け、その百人の天才の屍の上に立ち上がると、道徳とはスープにおける塩であると、さようなら僕は、子供の頃から神様と話していたんだ、全ては複線だったんだ、お母さんのことは親戚の恒忠のお兄さんによろしくおねがいしますと手紙を送った、いままでありがとう」 【都内の講演会場】 群衆の中、壇上で高らかに手をあげる男 「人間が神を認識するとき人間の拡大化したものとしか認識できないように、人間が天才を認識するとき人間の拡大化したものとしか認識できない!」 熱狂する群衆 【十年後】 新宿の冬、一人のホームレスが段ボールハウスの中、息を引き取ろうとしていた 男は黙って虚ろな目をしている 男は新宿の雑踏は聞こえてなかった 聞こえているのは ただ ただ 一人だけの声だった 【ほら、また喧嘩をしてきたな、お母さんが赤チン塗ってやるよ、手をあらったら食事だよ、寒いだろ、早く炬燵にあたりな】 ≪我は裸で母の胎より生まれたまた裸でかしこに帰ろう主が与え主が奪われたのだ主の御名は誉むべきかな:ヨブ記≫ 終[:en]【ある精霊の見る夢】 (おかあさん、おかあさんはとても純粋、でもおかあさんは生まれてくるときにきっと大切な何かをもってくるのを天国に忘れてきちゃったんだね、) 「お金は限界効用の低減の法則が当てはまりません、こんな難解な道理は貴女に通じないのがわかって話してます」 【NHKニルスの不思議な旅最終回(僕だよ!モルテン!!ニルスだよ、僕の話が通じないのかい?) ガアガアガアガアガアガアガア】 「母さん!わかんねぇのかよ!俺はコントロール喪失なんだ、俺は希死念慮ある、アデクションだ、見た目には健常にみえても出来ること、出来ないことの落差が激しすぎる!なんかおかしいなあと違和感で今まで生きてきた。半径3mの世界あとはモザイクかかってる。ドラえもんの未来の住宅みたい、でもドラえもんが帰っちゃったらどうするの?。貴女が生命維持装置みたいだ。俺はもう47歳だ!でも時計が止まってるんだ。なんで言葉が通じないの?悲しい、悲しいよ!お母さん!俺は死んだ親父に殴られて父が俺を殺そうとしたから仲裁を警察に頼んだら、俺が、措置入院にもなった。警察は嫌がらせもした。父が俺を殺そうとしたから助けを呼んだ。近所に聞こえたから通報が何十件、今じゃ近所も挨拶をしてくれない家が我が家。親父に張り倒されたきっかけで水も一日二十リットル飲むようになった。専門機関も聞いたことがない量だと言われてる、テレビに出てる精神科医のトークショーで質疑応答したら心臓やられて死ぬと。私はさっきからアイメッセージで話してる、ダブ ルバインドとスポイルで完全に共依存、いろんな依存、アデクションで自力では無理だ、母子密着でカウンセラーからもめったにいないくらいくっついてると言われてる。幼少からサポートが必要だったんだ、ベトちゃんドクちゃんみたいだ! 俺は子供の頃からずっと孤独だったセルフエスチームが全然つかない緩慢な末期癌患者か死刑囚みたいな観念だ。僕は無謀でも摂理に抗議する!四苦八苦の愛別離苦に抗議する!一蓮托生だ!外部との比較のない世界で内観したから強化されて、そりゃ外部のサポートつけば生活保護やらで生きていけるかもだけど身辺自立を邪魔するじゃないか。知っているよ貴女が専門用語や難しい言葉が通じないってカウンセラーからも理解されないというより、わからないお母様に変わってもらおうは不可能、私が困っているのが貴女には想像できないんだ。 うちは仲の良い理想的な家庭。 そう思っている。僕は外界がわからないから砂漠にいてオアシスだと思っていた。おばあちゃんがいた幸せな子供の時代からうちは時計が止まっているんだ。人間は傷つくと時計が止まるんだ。僕は違和感が何かわからなかった。自分が家庭を壊している害虫なんだと思っていた。ただね、僕は自問自答して自分の究極のことがわかったんだ。僕の、僕の神様。 わからないお母様をいじめているようだよと、わざと難しい言葉をいっているんだ。この歳まで知らなかった 【貴女も何か決定的なハンデがあるんだ】 (おかあさん、おかあさんはとても純粋、でもおかあさんは生まれてくるときにきっと大切な何かをもってくるのを天国に忘れてきちゃったんだね、) もう貴女も八十代、何年も一緒にいられない。 まだサポート受ければ僕は生きていける でもね はっきりいうと僕はこの濁世が大嫌いなんだ!だいっきらいなんだ!だいっっきらいなんだ!!貴女の義理で生存しているんだよ。私は貴女のみている夢で貴女の生滅と共に消えるそう二十七年強化した。スライバーにはならない、サバイバーだ!私は全く自愛ができない。自愛できない人は人に思いやりを求めて、そういう人は誰にも思いやりを貰えないで終わっていく。正確には欲しい優しさしか受信できない。僕は毎晩二十七年睡眠になる前、どう生滅しようか考えて眠っているんだ。 現体験中の時間は常に過去の時間の総和と比較される。これから先の時間はもう落下するエレベーターだ、僕は怖い、人間臆病過ぎると死にたくなっちゃうんだ。 【四十七年前】 乳母車の赤ん坊が笑っている(さっきからくるおんなのひとふたりどちらがママ?) 「おかあさんとおかあさんの姉」 「おかあさん、ようちえんはべんきょうしないといけないところでしょ、いきたくないよ」 「おかあさんすきなお弁当、保母さんがストーブで温めてくれたけど、缶のみかんが温かくきもちわるかったよ」 「棚殿小学校の初日うえだくんと仲良くなったよ」 【おとうさんとおかあさんとおばあちゃんとイトウのハドヤホテルにいきました4年3組ほんだけいたろう】 「おかあさんのパート。駅のアクセサリー屋の鍵っ子で、本屋さんで、裸足のゲンと手塚治虫の火の鳥を読んだ。火の鳥は難しいけど僕は眠る前に。命がいつか終わるということに。お布団でさけびだしたいんだ」 Q、人間はいつか死ぬの?おかあさん、おとうさんは人間なの?おかあさん、おとうさんはいつか死ぬの? 右目を30回ウィンクして 左目を4回ウィンクしたら おかあさんは、おとうさんは永遠に死なないかな? 小学校帰りの下校、前に100歩、30歩戻れば永遠に3人一緒かな 神様をぼくはつくったよ 「おかあさま圭太郎君のことで相談が、彼は小学生低学年の読みは出来ても書きができません、算数の倍数もできません。通知表に書いたとおり、近々面談をしましょう」 「え、え、え?!圭太郎のおかあさん父兄参観でみたけど女優さんみたい。圭太郎はシャツだして汚いのに」 「おかあさま圭太郎君は高学年になっても女子生徒に抱きつきやスカートめくりがとまりません、児童精神科につれていってあげてください」 「英会話塾のみんな、最初に自己紹介ね、自分の身長を言ってね、え?圭太郎くん自分の身長わからないの?でもあなたは180センチも身長ないよ?え?わからない?」 「圭太郎!なんでお前日本地図で東京がわからない?!」 【仲村トオル、清水宏次朗主演、ビーバップハイスクール大ヒット上映中】 「お前何、睨んでんだよ!ガンたれてんじゃねぇよ、裏来いよしめてやるからさ」 「おい、圭太郎、お前、学校こないのか?ゲームやっているのか?お前行ける高校はっきりいうとないぞ、お前将来大変なことになるよ、わかってんのか?」 先生、先生、たくさんの先生、恩師、みな三十年以上ご無沙汰してます、幼少の頃の僕は言葉をもってなかったけど、たぶんこう思ってきいてました 先生、僕が将来大変なことになるのは知ってました。でも僕は心の中でこう答えてました 【先生、知ってます、でも抗えないのです】 「はい、今晩お送りしている【知っているつもり】はアドルフ・ヒトラーです、アドルフの母を看取ったベテランドクターが五十年医師をやっているが、こんなに母親の喪失を落胆した息子はみたことがないと述懐していたエピソードでした。それではCMです」 「お兄さんさ、まだ若いんでしょ、理髪店の私がいうのもなんだけど、もっと流行りの髪型にした方がよいのじゃないの?お兄さん仕事は何をしてるの?今日は休み?」 「お前、コーラのケース数える仕事30分かかって、また間違えて、なんで来たばかりの社会科見学の中学生に仕事手伝ってもらってんだ、何年やってんだ?」 「スキルス性の癌でステージ4です、お父様の余命はあと一年です」 「お母さん長い間ありがとう、僕は長年自分の中の神様と対話をしてきました。神様が貴方は選ばれて時が来たのです、人びとを救いなさい。ドイツの精神分析のエルンスト・クレッチュマーが【天才論】で天才は同輩からバカにされ教師から蔑まれ続け、その百人の天才の屍の上に立ち上がると、道徳とはスープにおける塩であると、さようなら僕は、子供の頃から神様と話していたんだ、全ては複線だったんだ、お母さんのことは親戚の恒忠のお兄さんによろしくおねがいしますと手紙を送った、いままでありがとう」 【都内の講演会場】 群衆の中、壇上で高らかに手をあげる男 「人間が神を認識するとき人間の拡大化したものとしか認識できないように、人間が天才を認識するとき人間の拡大化したものとしか認識できない!」 熱狂する群衆 [:]

[:ja]『感動』 高3の頃、教室の机に突っ伏しながらレディオヘッドの『fakeplastictrees』を聴いて初めて音楽を聴いて感動した時のこと、 34歳の頃、初めての海外旅行でハワイのオアフ島にあるカイルアという町の雰囲気やカイルアビーチの景色を観ながら、 「これまでの自分は何て狭い世界に居たのだろう…」、 と感動した時のこと。 それまでの自分はこの社会で幸せに生きるために、 苦しい現状を変えるために何とかしたいと思って色んな努力をしてきたけれど、 何一つ成し遂げられなかった。 なのに、 ハワイにいた時は何の努力もせず、 ただ居るだけで幸せになってしまったことがもの凄く衝撃的だった。 今の僕は、 この世で何一つ成し遂げられなくても、 感動できる自分がいればそれで十分だと、 本当に、心の底から思える。 (2019.12.16)[:]

[:ja]『苦しみ3』 けれど、 「視力矯正の不具合を抱えていても、 苦しみを表現することはできる。 けれど、 その勇気がない。」 と、 表現する勇気だけはある。 あとは少しずつ、 自分自身を解放していくだけ…。 一気に解放したいという欲望に駆られつつ… [:]

[:ja]kosatenをあなたの表現の場にしませんか? パフォーマンス、ライブペインティング、踊り、朗読、歌、音楽、お話などさまざまなクリエイティブな表現を他の参加者の前で発表できます。 心に詰まってきた感情を吐き出す、生きづらさを叫ぶ、静かにもやもやしてきたことを引き出す 本番として完成した作品を演奏してもいいし、リハーサルとしていろいろなアイディアを試してみてもいいし、うまくいかなくてもいいので何かを何の形にしてみるというプロセスをぜひ一緒に探ってみましょう! 参加する方法: 一人持ち時間10分以内 (全員終了次第、2巡目もあり) 当日参加は可能ですが、事前の連絡もウェルカムです kosatenにある設備: スピーカー、マイク2本、CDプレーヤー、小さなミクサー、ギターアンプ、プロジェクター、ギター、ドラム。その他は持ち込んでも大丈夫です。(大きい機材などのお持ち込みは事前にご相談ください)着替えできるスペースもあります Murmur + Shout : Open Mic @kosaten We welcome you to take kosaten as your stage of expression! From performance and dance to music, poetry and spoken word kosaten may be your platform for numerous creative outputs. Shout out the feelings which have piled up inside, scream out the difficulty of everyday life, or quietly whisper uncertainties. The open mic may be your chance to present a completed piece or just a rehearsal to test out new ideas, it’s ok if it doesn’t go as planned, why not join in the process of tryin[ ai1ec cat_name=”Halloween, Thanksgiving Day” ]g to bring something to shape together? [:]

[:ja]むすめへのえのないえほん 「なんでもあり」 うさぎさんのおにんぎょうが… ドカーン!! ありんこが… ケーキになりました!! みかづきおつきさまが… あんころもちになりました!! ケロケロかえるさんは… メロンソーダになりました!! なんでもありってたのしいね なんでもありってステキだね きみのじんせいも なんでもありでいいんだよ パパとママはおうえんしているよ 「すきにいきていいんだよ」 きみはね じぶんのすきなふうにいきていいんだよ ほんとうになにをしたってかまうもんか!! え、なぜかって? それはね きみのこころのなかには キラキラしているなにかがあるからだよ だからママとパパは しんらいしてあんしんできるんだよ こころのおもうがままにいきよ なんじのこころに ぼさつあり 「ほんとうのともだち」 きみのまわりのみんなが きみとちがういけんでも きみがほんとうにだいすきだったり そんけいしているひとが きみとおなじかんがえなら きみはただしい きみのいばしょはそこだよ それがほんとうのともだちさ そんなともだちをたいせつにしてね!! 「いきるかち」 えっ!? じぶんにはいきるかちがないだって!? ふざけるな!! もしきみのたいせつなひとが しんでしまったら きみはかなしいだろ!! なくかもしれないだろ!! それだけで きみにはいきるかちがあるんだよ!! わすれないで!! 「かみさまっているの?」 あるとき、きみはおもいました かみさまってほんとうにいるの? そこできみはかみさまを さがすたびにでました そしてせかいじゅうを かみさまをさがしてたびしました しかし、かみさまは みつかりませんでした かみさまはいないのかなーと おもいながらきみはいえにかえりました いえにかえるとママとパパがまっていました きみはママとパパにきいてみました かみさまってほんとうにいるの? パパはいいました かみさまがいるかどうかは じぶんでかってにきめればいい ただ… ひとはかんしゃをしながら いきればそれでいいんだよ きみはニッコリわらいました 「にじ」 もし、かみさまがいるとしたら なぜ、どうぶつやにんげんに にじをみせるのだろう しかもあめがふりやんだあとに きみはそのこたえを いっしょうかかってかんがえてください ママもパパもいまだにわかりません 「さとり」 さとりってなんだろう? さとりってほんとうにあるのかな? もしあるとしたら それはいったいどんなものだろう? 1 あるけどまだわからない 2 じつはもうすでにさとりをひらいてる 3 ない もしかしたらべつのこたえがあるかも… さとりとはなにか? じぶんのじんせいをどういきるか? ママもパパもじぶんのいきるいみは じぶんできめられる おとなになってほしいんだよ 「じぶんにはなにもない」 きみはときどき じぶんはなにももっていないと おもうかもしれない じゃあ、たとえばここに いちまいのかみがあるとするよ これによのなかのすべてをかいてみよう すると…さいごには…こうなるね→ あれっ!?よのなかのものをぜんぶかいたのに まっくろでなにもなくなっちゃったね そしたら、みかたをかえてみよう ←なんにもないということは じつはよのなかのすべてがあるんだ じぶんにはなにもないと きづいたらそれがスタート!! そこからすべてがはじまるよ よのなかぜんぶをてにいれるチャンスだ!! さあ、あるきだそう!! 「ほんらいのじぶん」 きみは、きみのともだちに このひとはここがすきだけど ここがきらいとおもって どっちなんだろーとおもって ほんらいのじぶんがわからなくなるかもしれない でもあんしんしていいよ にんげんはね、むじゅんしたいきものなんだ だからそのかんがえが、しぜんなんだよ こたえはすべてきみのなかにあるよ まよったらじぶんのこころにきいてみて それがせいかいです 「じぶんらしくということばはパパはきらい じぶんらしいまえにじぶんであれ」 「ぜんたいのこうふくがなければ こじんのこうふくはありえない みやざわけんじのことば」 「すきなものはすきといえるきもち なくさないでね パパ」 「すがたやさしくいろうつくしく」 「さいのうって?」 きみは、さいのうってどういうものかわかる? じつはみんなさいのうの いみをまちがえてとらえているんだ さいのうとは、うまれたときから もってるのはすごくすくなくて ほんとうのさいのうってやつは そのことをやりつづけられる ちからのことなんだ だれにいわれなくても 20さいになったらねんれいは かんけいないってことばがあります ってことは、ほんとうにさいのうのあるひとは 20さいよりずっとずっとまえからもう はじめているんだ たとえば2さいでも れいがいはあるよ…

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[:ja]『苦しみ 2』 視力矯正の不具合を抱えていても、 苦しみを表現することはできる。 視力矯正の不具合による苦しみ、 ネガティヴな気持ちをさらけ出して文学作品に結実させれば、 素晴らしいものができるかもしれない。 けれど、 僕には、 文学作品を産み出したいというモチベーションが余りない。 いや、 視力矯正の不具合が改善して落ち着いて生活をしたり読み書きができれば、 文学作品を産み出したいという欲求も高まるかもしれない。 けれど今は、 視力矯正の不具合による苦しみを表現することよりも、 視力矯正の不具合による苦しみや ネガティヴな気持ちをさらけ出して文学作品に結実させるよりも、 視力矯正の不具合を改善したい。 視力矯正の不具合を改善するための然るべき行動が取れるようになりたい。 視力矯正の不具合を改善するための然るべき行動が取れるようになるための知恵を身につけたい。 視力矯正の不具合を改善するための然るべき行動が取れるようになるための知恵を身につけるために、 本をたくさん読み、 セミナーやワークショップに参加し、 新しい知識を身につけたり情報を入手したい。 そのためには視力矯正の不具合を改善しなければならない…。 しかし、 この負のサイクルに対する認識はどこか間違っている気がする。 もっと、力を抜こう…。 今の自分を動かすためには、 僕が、 「この人は日本一高い志や問題意識を持った人だ」 と、心の底から思える人に出会って触発しなければ、 僕は自分自身を動かすことができない、 そういう人に出会えれば、 きっと然るべき行動が取れるようになれるだろうというのが、 最初の直感だった。 でも、 もしかしたら力が入り過ぎているのかもしれない、 色々な人のアドバイスを、 素直に受け取れていない自分がいるのではないかという想いもよぎり続けている。 これが長いトンネルだろうか。 「トンネルを抜けると 次のトンネルの入口で」 と、 『天頂バス』で歌うミスチルの歌が頭に響き、残る。 直感と論理、 どちらが正解か分からない。 といっても僕は、 直感に従って思いっきり前に進んだとは言い切れない。 直感に従って思いっきり前に進むためにも自分を触発してくれる何かを必要としてしまっている。 このような思考がグルグルと回る。 でも、直感に従って思いっきり突き抜けることができたら、 どんなに気持ち良かったか。 突き抜けたい。 これも、最近の、 いや、だいぶ前からの口癖だ… …。 ここまで書いて自分の思考と文章を省みて読み直す。 文学作品としての価値があるだろうか、 よく分からない。 別に文学的価値なんてなくたって構わない。 ただ、今の自分を遺したいと思ったのは確かだ。 次へ行きたい。 [:]

[:ja]『苦しみ』 視力矯正の不具合を抱えていても、 苦しみを表現することはできる。 けれど、 その勇気がない。[:]

[:ja]『食事の時間』 食事の時間、 今日も千切りキャベツを更に千切り、 生卵を用意して、 春巻きを中心に 食べたい料理を並べながら、 食事の時間を楽しんでいる。 実家の、リビングで。 特別薄暗いわけじゃない。 陽の光も入ってくる。 YouTubeやpodcastを視聴しながら、 揚げ物をトースターでコンガリ焼きながら、 お湯を沸かしながら、 ゆっくりと料理を味わいながら、 食事の時間を楽しんでいる。 幸せな気もする。 なかなか食べ終えることができない。 何とか食べ終えた後、 どういうわけか、 あぁ、、、幸せだ、、、と、 感じることは少ない。 寂しい気持ちになることが多い。 実家のリビングは、 特別薄暗いわけじゃない。 陽の光も入ってくる。 だけど、 ハワイのホテルにある、 オープンエアーのレストランとは違い、 青い海は見渡せない。 周りの人々のガヤガヤもない。 食べ終わると眠くなってしまい、 歯を磨いた後、 そのままベットで横になり眠ってしまう。 起きた後は本当に寂しい。。 広い世界へ旅立ちたい。 そして今日も、 食べることを考えている、 楽しい食事の時間。 [:]

[:ja]読書というものはそもそも孤独な営みと言えるのでしょうが、今回の課題図書であった『地下室の手記』は、世をすねて隠遁生活のごときものを送っている主人公の独白であるということから考えてみても、より一層そうだということになるのではないでしょうか。そのような読書体験を人前で語るとするならば、普段は注意深く公共の場から隠されている生々しい「自分」というものが露わにならざるを得ないのかもしれません。従って(と言えるのかどうかは判然としませんが)、会は終始濃密な空気に包まれていました。 参加者のうち何人かの方は、まさに自分のことが語られているというような感覚でこの本を読み進められたとのことでした。私の好きな作家であるムージルが、人間とは「感情を透過しない皮膚の革袋に縫い込まれた脂肪の塊と骸骨に過ぎない」と書いていますが、感情を直接通わせることができない孤独な存在である人間にとって、自分の内面を描いたかのような作品に出会うという体験は、極めて感動的です。文学が人を魅了し続けているのは、そのような体験があるからこそなのではないかと思います。また一方で、この読書体験が不快であった方もいらっしゃったようです。実際問題として、この小説の中では喜ばしいことは何も起こりませんから、至極当然の感想のように思われました。さらには自分の直視したくない面がことさら強調されて描かれていると感じた方もいらっしゃったようです。このように、読者である自分をどこに置くかによって、読み方が180度変ってしまう本のようでした。まさに「自分自身との関わり方」、そして「自分と世界との関係をどのように捉えるか」が、この作品の隠れたテーマであるように私には思えてなりませんでした。ドストエフスキーは、自明と思われている世界像に反証を突きつけることで、我々読者に揺さぶりを掛けていると言えるかもしれません。これがいわゆる「ドストエフスキー体験」と言われているものだと私は考えています。 私にとって『地下室の手記』はとても今日的な選書のように思われ、今回、大変興味深く読み返したのですが、私がそう感じた理由を少し書いてみたいと思います。耳目を驚かす凶悪事件というものがときどき起こります。不特定かつ無関係の人を対象にした殺傷事件などです。残念ながら今年もそういった事件のニュースが何度か聞かれましたが、このような事件は、加害者本人にとっても自己破壊的というほかなく、起こした本人を含め誰の利益にもならないことから、いつも不可解という感がぬぐえませんでした。ニュース報道を聞いても専門家といわれる人の解説を聞いてもしかと納得できたという気持ちにはなかなかなれません。また、現在の政治的・社会的状況を見るにつけ、コミュニケーションの不全という問題が一段と先鋭化しているように思われます。そのような状況を鑑みるに、目立つ事件というものはまれにしか起こらないものですが、類似した精神的状況に置かれている人々は多くいるのではないかと感じさせられます。『地下室の手記』の主人公は、上記のような人たちと精神的に近縁であると思われるため、作品の中で自らについて語ってくれるということは、こういった人を内側から見るまたとない機会であって、彼らの主体という、現象の中心地に我が身を置くことで、これまで私が抱いてきた「なぜ」を解くヒントが得られるかもしれない思ったのです。 今回の読書を通じてさまざまな新しい発見があり、そのすべてをここで書き尽くすことはできませんが、一点だけ挙げるとすれば、彼の憎悪は「本人が自己の重要性をあまりにも軽視している」ということから生じてくるらしいということです。人間はおそらく、自己の存在を全く無意味であると感じながら生きていくことはできない存在なのでしょう。彼の心の中は、本人は意識できていないものの、自己が尊重されるべきだという感情と、自己に対する侮蔑とが戦う戦場と化しており、端から見て異常と思われる彼の行動は、そういった耐えがたい状態から何とかして脱出しようとするもがきのようなものだと言えるような気がしました。そして彼がなぜ自己に対して敬意や信頼を抱くことができないのかといえば、本の中にも少し描かれていますが、おそらく、本当の意味でよいといえるコミュニケーションが彼の生育環境に欠如していたからということが大きいのかもしれません。そのように考えると、この問題は、コミュニケーションを作り出す当事者である我々一人ひとりにとってもまさに問題であるということになります。対話は、それがうまくいった場合、双方に生涯忘れ得ぬ大きな喜びをもたらしますが、「対話」という言葉を聞いたときに、我々はもはや喜びを連想しなくなっているのではないでしょうか。参加者のある方が、「百発撃って百発打ち損じるよりは、一発も撃たないがゆえに打ち損じがなく、表面的な会話に終始した方がうまくいったという感じがある」と語ってくださいました。貧弱になったコミュニケーションに取り巻かれているという状況は、我々の多くに共通しているように思います。このようにして、この本に対してどのような立ち位置を取るにせよ、「いかにしてよいコミュニケーションを築きうるのか」という点に目を向けることで我々読者は皆、大きな円の中に包摂されることになるはずだという考えが私の中に生まれました。さて、私があの場でそういったよいコミュニケーションを作り出せたかというと……、残念ながらいろいろ反省すべき点が多かったようです。しかし、対話は芸術ですから、今回の反省を活かしてさらに成長していきたいと思っている次第です。参加者の皆さんがどのような思いを抱いて家路を辿られたのか、実に興味深いところです。 (清野) * 一部屋に十五人ほどが集まりドストエフスキーの集会シーンのような読書会となった。登場人物の一人になった気分で発言を聞き、それぞれのトーンに耳を傾けた。合間に連想したことを書いておきたい。 まず、私たちがしばしば好きではない人に似てしまうということについて考えた。 どうしても好きになれない人の好きになれない部分を自分の中に見出すことがある。気づかないうちに自分はその人にそっくりだった、そんなこともある。本によると、その好きになれない部分というのは、実は予め自分の中にもあるものの場合が多いのだという。その部分を自分で認められず抑圧しつづけた結果、その抑圧が他者に対する不寛容となってあらわれてしまうということらしい(もちろん、一概に言えないと思う)。 少し、主人公にもあてはまるのではないか。主人公は同級生に対して俗物性を感じ、強い軽蔑を抱いているが、その俗物性はなんとなく彼の中にも見出せてしまうものだ。この話は、自分自身を長く許すことができなかったひとの悲劇なのではないか?(今回主人公について「自尊心の欠如」や「自分自身に対する冷笑的態度」を言及する声があったことも記しておきたい) またぼんやりと個人的なエピソードを思い出していた(少し外れるかもしれないけれど)。 小学生の頃、スポーツクラブの練習終わりに卒業した先輩から話を聞く場面があった。当時高校生だった彼女はいろいろとアドバイスした後「自分に厳しく、人に優しく!」とはっきり言い残して体育館を去っていった。小学生の私にはその(いま思えば自己犠牲的な)響きがかっこよく感じられて、しばらく心の隅に置いていた(なのでいまだに口調までよく思い出せる)。 だが、いまになって彼女の言ったことは本当に可能なのだろうか、と思う。「自分に厳しく」ということがじっさいどういうことを指していたのかはわからないが(たんに自己管理しなさい、ということだったのかもしれないが)、多少なりとも自分自身を抑圧しながら人に対してはやさしい自分でいるという不均衡がありうるのだろうか(以下の箇所を思い出しつつ)。 人間関係の実質って(…)自分自身との関係だけで、あとはその反映、照り返しにすぎないのじゃないかと。たとえば、自分は無価値だという思いや見捨てられる不安が強いと、他者から承認してもらうことで自分を肯定しようとして過剰にいい人やったり、過労死しそうなほど頑張ったりしがちに。他者との関係の作り方や身の動かし方を見てると、その人が自分自身とどんな関係を作っているかが見えてくる。(田中美津『この星は、私の星じゃない』、p.93)   (ふじたみさと) [:]

[:ja]               僕は3ヶ月前までは数年間ほぼニートでした。 自分の家で今後の人生の方向性を考えてて、 でも見つからなくて苦しんでました。 ある時、知人に 「Y.Fさん、違うんだよ、自分の家で 頭かきむしって考えてたってダメだよ、 動いてるうちに人生の方向性が 見えて来るんだよ」 と、言われハッとしてその人に会いに行ったら その人が一冊の本を貸してくれました。 その本の著者は産まれてすぐ難聴になり 言語障害になって40歳で難聴も言語障害も 良くなりましたが、それまで思ってたこととは 違って、みんなせっかく会話出来るのに ぎまんしか言ってないことに気づいて、 舞台を立ち上げて舞台の脚本を書き 音楽療法士の育成をした人でした。 本を貸してくれた人は 「Y.Fさんは言語障害だからそれを生かしなさい」 と言ってくれて、その辺りから音楽療法士が 気になって、音楽療法士の資格を取れる学校を 探して説明会に行って、結局、金銭面や その他の理由で入学は出来ませんでしたが、 並行して受けてた音楽療法がとても良くて 音楽療法士の先生もいい人でした。 僕は、思い切って音楽療法士の先生に お手伝い出来ませんか?と聞いてみました。 先生の職場である病院の入院病棟での 音楽療法を見学させてもらえることになり、 凄く嬉しくなりました。 音楽療法で使えるようにギター教室の 無料体験レッスンに行きました。 蛇足なのですが、 今までなんでミュージシャンは安全な所から 愛の歌を歌って満足してるんだろうって 疑問でしたが、ギターを持つと愛の歌を 歌いたくなる現象が発覚しました(笑)。 前述の本にマザーテレサの逸話が載ってて 興味を持ち読んでみたら 文庫本一冊読み終わるまでに、20回以上 大泣きして、何回も自分で頭を叩きながら 泣きながら読むハメになりました(笑)。 本の最後に、マザーテレサの日本の修道院の 住所と電話番号が書いてあったので 本を読み終わって5分後に修道院に電話かけ、 話を聞きに行きたいとお願いしました。 シスターに色々話を聞き、僕がインドに 旅行した時、マザーハウスに行ったことや、 マザーテレサと僕が同じ誕生日って言ったら 喜んでくれて、マザーテレサのメダルを ネックレスにしたのを頂きました。 その後、ナイチンゲールの伝記を読んだり もう一度修道院へ行き、荒川の土手に住む ホームレス40人への炊き出しボランティアに 参加しました。 一見綺麗な土手にけもの道があって お弁当を持ってシスターの後をついていくと ホームレスの人が作った家があり、それぞれ 色々な家がありました。例えば元一流料理人が ホームレスになって友達と飲んでたり、 伝書鳩の小屋まであったり、 本当にボロボロの家も沢山ありました。 歩きながら修道院長が僕に各ホームレスの 裏話をしてくれました。 修道院に戻ると、コーヒーと甘い蒸しパンが 出され、やけに旨くて、後々僕は正しいことを したと蒸しパンで確信しました(笑)。 あくまで、僕が見たホームレスの一部の 人たちはですが、今のサラリーマンよりよっぽど 心豊かな生活してると思いました。 音楽療法の見学に行きました。 音楽療法士の先生のお手伝いは、 既にベテランのボランティアスタッフがいて 無理でした。先生が病院の他のボランティアは どうかと言ってくれて、言語障害があっても 大丈夫みたいなので、音楽療法に たずさわれないのは残念でしたが 自分がやりたい分野だし、 後は自分次第で変わっていくので、 病院でのボランティアを始めました。 そして前々から気になってた公差転に 足を運んで今に至ります。 この3ヶ月間に得た人との繋がりは 自分の財産になりました。 最後に 僕が違和感を感じている嫌なこと 「平和ボケ」してる世界 僕の中での定義は 生きる、死ぬが曖昧になってる日本 愛と言う言葉が安易に使われている世界 僕の東北に住んでいる親友が前に もう一度東日本大震災起きたら みんなまた気付くのにって 言ってたのが印象的だけど それでもまたみんな 平和ボケするんだと思う マザーテレサの言葉で 「愛の反対は無関心である」 ってあるけど 僕もそうだし、周りもそうだし、日本もそう 日本のマザーテレサの修道院のシスターは 本気でイエスを愛してるし 病院ではもっと生きたいって人が死んでいく マザーテレサの言葉で僕が大好きな言葉の一つに 「人間の価値は何をしたかではなく どれだけ愛を持って物事を成したかである」 ってあるけど僕もそれを価値観にしたい 小さい頃 愛って物凄いものなんだと思っていたが いつの間にか薄い愛ばかりしか見えなくて 感覚がマヒしてたけど マザーテレサの本を読んで あ、これが自分が小さい頃思ってたやつだ と発見して じゃあ、この世界に生きなきゃ嘘だと思った 僕も「平和ボケ」の世界から抜け出して 真剣勝負の絶対感のある世界に身を置きたい [:]

[:ja] 新しい公差転での、最初のブッククラブの課題本は樋口一葉の『たけくらべ』でした。 まず、同じ作品を読み合っても、現代語訳バージョンと、注釈付きの元の文体に近い状態で書かれたバージョンで読まれていた方がいて、今回私は現代語訳で読んだのですが、ブッククラブでは、元の文体(調べたところ、雅俗折衷体と言うらしい…)で書かれた作者の文章に着目したり、注釈を読むか、分からないところはそのまま飛ばして読むか、などの個々の読み方のスタンスが垣間見えたりして、難しくとも色々な楽しみ方が出来る文章であったことがわかりました。 私自身は、日本文学全集(河出書房新社,2015)の川上未映子氏による現代語訳バージョンを読み、「。」の少ない原文の特徴をそのままに、当時の吉原の熱気をヒリヒリと肌に感じられるような、独特な勢いのある小説の文章に圧倒されていました。 ブッククラブの中で、一葉は、江戸時代に書かれた文章を参照しながら、近代文学を書きあげたレアな作家ではないか、という見方や、彼女ならではの優しい目線で吉原の風俗を描いているといった見方が出てきました。 実際、小説を書いた理由は困窮した一家の生活を支えるためで、短い期間でこの傑作を書いたと言われていて、一葉は、当時の女性としても、本当にレアで凄い作家ではないかと思えました。 また、子どもを描いた文学であり、殴られても愛嬌のある三五郎、面倒見がよく我が儘放題だが、限りある子ども時代を予感させる美登里、など、個々のキャラクター描写にも長けていて、引き込まれるところのある作品でした。 「予感」という言葉が、この作品に通底しているキーワードとも言えるかもしれません。 余談ですが、今回、ソ連時代の不可解なテレビ放送のお話や、ファシリテーターのFさんの行かれたアートなロシア旅行のエピソードも聞けて、ちょこっとロシアな楽しいブッククラブでもありました。おしまい。 (H.Y.) 追記: ブッククラブに参加してくださったSatorさんも、感想をnoteで書いてくださいました。 https://note.mu/iutus_sator/n/n24ac944655be *** [:]

[:ja]『春巻き』 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 昇龍園さんの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 セブンイレブンの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 オリジンの春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 麗彩楼さんの春巻きを買って 食べている。 毎日買って食べている。 僕はいつも、 冷凍食品の春巻きを買って食べている。 毎日買って食べている。 立川に行くと、 エキュートに入っている中華屋さんでも春巻きを買って帰って食べている。 RF1でも、時々買って食べている。 毎日買っていると注文する前から、 「春巻き二本ですね」 と聴かれることもある。 店の近くに行くと、 店員さんがピースサインをして春巻き二本ですね、 というようなジェスチャーをしてくれたこともあった。 僕は恥ずかしそうに、 はい、と答えて会計を済まし、 春巻きを受け取った。 料理教室では2回作った。 数ある料理の中で、 何でも選び放題なのに、 世界には僕の知らない色んな料理があるはずなのに、 2回も春巻きを作ってしまった。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 家に持ち帰って食べている。 生キャベツに生卵、 そして、トースターでコンガリ焼いた春巻きがあれば、 僕はとても、 幸せな食事の時間を過ごすことができる。 至福の時だ…。 ビーフシチューもあったら最高だ。 トースターで春巻きをコンガリ焼いてる 時間、僕のテンションは上がりっぱなし。 パンはあまり食べないけれど、 いつか、 バルミューダを使って春巻きをコンガリ焼いてみたい。 至福の時だ…。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 今日はチキン竜田も食べたい気分だ。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 今日はトンカツも食べたい気分だ。 カレーパンだって、 あんまんだって、 時には食べたくなってしまうこともある。 僕はいつも、 春巻きを買って食べている。 同時に今日は、何を食べようか、 一日中、 悩んでいる。。。  [:]

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