Language Beyond #13のレポート 2019年1月26日

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lbn_edited-1このブッククラブで、いつかチェーホフを読んでみたいと思っていました。チェーホフは「偉大な巨匠」というような作家ではないかもしれないけれども、しかしかれほど透徹した視線で人間を観察した人もいないのではないかと思います。わたしがロシア文学に足を踏み入れたきっかけは、やはりあの「偉大な」ドストエフスキーたちでしたが、その後折々にチェーホフを人に勧められてかれの作品と出会い、最初のとっつきづらささえ越えてしまえば、すでにチェーホフがお気に入りの、いや、かけがえのない作家になっていることに気づくのでした。

このとっつきづらさを、チェーホフを初めて読んだ人は感じたのではないでしょうか。それはおそらく、チェーホフの物語が、「大(だい)文学」にしてはあまりにささやかであるというところに一つの原因があると思います。チェーホフの世界は、あの華麗にして壮大なトルストイの世界や負のエネルギーに満ちたドストエフスキーの世界と比べ、あまりにささやかであり、透明であり、うかうかしていると横を通り過ぎてしまいかねないような、そんないわば身体の周囲5メートルほどの世界です。しかしちっぽけなこの「わたくし」にしてみれば、身体の周囲5メートル以内で起きるものごとを除いて、切実なことなどいったいあるでしょうか。
ところで、ささやかで小さな世界といえば、日本には「私小説」というジャンルがあります。しかしチェーホフの場合、「私小説」とも言えない気がします。そこには奇妙なほど「私」が欠けているからです。しかしそれがチェーホフのすぐれているところでもあって、つまりかれは我を通さない、ある一つの価値観によって他者を断じないのですね。──あまりにささやかで、うっかりしていると見過ごしてしまうような「誰か」の世界。大きな物語からこぼれ落ちたみすぼらしい人間たち、生活の中で未来を夢見ることを忘れてしまいながら、それでもなお生きることを諦めきれない人間たち。そこにはいつも、なおもこのどうしようもない世界を生きつづける「わたしたち」の姿があります。
そして、ささやかで見過ごされてきた世界…と考えたときに、チェーホフの作品、特に戯曲では、つねに女性が中心にいることに考えいたります。「かもめ」のニーナ。「ワーニャおじさん」のソーニャ。「三人姉妹」の姉妹たち。「桜の園」の母子。どの劇を観ても、最後に印象に残るのは女性たちの姿です。男性作家が女性を描く際には、つねに権力関係が潜んでしまうものであるとはいえ、チェーホフの場合、その「わたくし」の無さのおかげでしょうか、そうした副作用が最小限に抑えられているような気もします。声高に権利を主張するというのではないけれども、チェーホフの世界では女性が女性として、たしかに生きていて、チェーホフ最後の短篇である「いいなづけ(Nevesta)」の結末などを見れば、チェーホフはたしかにフェミニストなのだ、と納得できる気さえするのです。
そんなわけで、わたしにとってチェーホフはいつだって「わたしの作家」「私たちの作家」…現代的な作家であり続けていて、今回ブッククラブでチェーホフについてみなさんと話すことができたのは、わたしにとってとても嬉しいことでした。『三人姉妹』について、たとえば登場人物の徹底的なまでの受動性──自分から状況を変えようとするでもなく、生々しい現実を前に絶望してしまいながら、ただひたすらに漠然とした「明るい未来=モスクワ」に希望を託して死んでゆく態度──をめぐって、またディスコミュニケーションの問題──劇のなかでは自己完結した独り言が次々に浮かんでは消えてゆきます──をめぐって対話しながら、ますますわたしにはチェーホフが私たちの作家だ、と確信された気がします。
ディスコミュニケーションのあり方は、私たちがツイッターで目にする光景そのものです。そして明るい未来の象徴たるモスクワを決定的に失い呆然として立ち尽くす幕切れ──そこに立ち尽くす三人の姉妹の姿が、どうして私たちそのものでないと言えるでしょうか。私たちのこれからも、きっと「モスクワ」を失った、その地点からしかスタートしないのだと思います。しかしながら、わたしはこの結末に明るさもまた見たいとおもいます。つまり『三人姉妹』の結論は、すべてが終わった地点からもう一度スタートすること、「何のために生きているのか」それを分かりたいと希求しながら、なお生きることを諦めないこと…にあると思うのです。私たちもまた三人姉妹なのだと、お話をしながら静かに思ったブッククラブでした。
(工藤順)