Midori Miyakawa

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Midori Miyakawa
夏、大量の汗をかき、ペットボトルの水を持ち歩いた。エアコンの効いた建物の中に入るとほっとした。商業施設はエアコンの冷気を、ドア全開に随時外に送り出すことで、通りすがりの火照った身体に否定しようのない安心感を与え、金儲けを狙う。

プラスチックを使用禁止にした国が増えていることを知る。ストローを使わず、プラスチックの袋をもらわないなど、いくつか心がけている。けれどペットボトルは毎日のように購入していたので、今度はかわいい水筒でも買おうと思ったのだった。アフリカのケニアでは、プラスチックを持って入国すると最高4万ドルの罰金か最長で4年の禁固刑が課されると聞いた。

地球の寿命はどんどん縮んで、南極の氷は溶け、アマゾンが燃えている。
熱射病で人がバタバタと倒れていく東京オリンピックを見たくない。
わたしはあと何回この猛暑を味わうのだろうか。

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「少女像」のあるはずの部屋の前に立ったけれど、びくりともしない白い扉の前で何も見えなかった。加害責任と向き合えない政府の暴力が、わたしの日常で常態化していることを、許してはいけない。加害の歴史について、否定と肯定の両論併記で「どっちもどっち」と言ってはいけない。デズモンド・ツツは、不正な場において中立であることで、私たちは抑圧する者の側に立ってしまうと語っている。

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「この星は、私の星じゃない」
田中美津さんの印象に残った言葉。
自分を映したドキュメンタリー映画の上映後、こんなことを語っていた。

自分なんて大したことないと言うが、大したことないことが、すばらしいと。

そうか、大したことないわたしを、わたしが受け入れてみよう。大したことない人生をゆらゆら泳いでみよう。

わたしがわたしであることは、偶然にすぎない。あなたはわたし、わたしはあなただったかもしれない、そう考えると、他者への共感、連帯が生まれるんだと。

あなたはわたしだったかもしれないって、愛の告白みたいに聞こえるけれど、おかしいだろうか。

この星は、私の星じゃない、という言葉の背景にある、田中美津さんの話を聞いて悲しくなったが、このタイトルがわたしはとても好きだ。
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最近自分の身の回りに起きたセクハラ、性別にまつわる蔑視発言に気を落としていた。記事を読んで怒ったり悲しくなったが、自分にされたことにうまく怒れなかったり、すぐにそれがハラスメントだと認識できない時もある。そのことがあっけなく、悲しかった。ずっとどんより曇り空の下にいるようだった。

精神をすり減らしてしまわないように、安心して夜眠れるように、
一人寝そべっていても、誰かの手とつながって、星空を見上げていられるような。

もっとやさしく生きられるはずなのに、なんでこうなのだろうと辛くなる。
なんでわたしはもっと人にやさしくできないのだろうか?
わたしは自分と生きている人への信頼を失いたくない。
人を信じることができないのは、とても辛いことだ。
きっと誰かもわたしと同じ思いでいるだろう。
そして別の場面では、自分が加害者になりうる。

人を信じることができなくなったと感じた時、同時に、人を愛することも尊重することも、到底できないように思えてくる。
自分のこともどうでもよくなってしまって負の連鎖、悪循環だ。

でも、思いがけない抜け道もあって、安心できる人や場所が見つかることもある。
全てがそうではないのだと、気がつくことができる。
その時自分は、それがありがたいと思う。
しかし、全ての人がそうであるように、できることを、何かをしなくてはいけない。
暴力から目をそらさずに、人と、生きることを、愛せるようになるためには…..