[:ja]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。
今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。
・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選)
・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選)
*
まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。
*
今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。
今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。
プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。
とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。
挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。
・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある
・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる
など。
あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。
また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。
一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。
*
コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。
まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。
次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。
とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。
他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。
*
今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。
第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。
読んでいただいてありがとうございました!
(工藤杳)
[:en]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。
今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。
・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選)
・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選)
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まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。
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今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。
今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。
プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。
とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。
挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。
・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある
・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる
など。
あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。
また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。
一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。
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コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。
まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。
もう一つ論点になったのが、この短篇の中心にある「写真に写ってしまった事態」は、小説中では曖昧に描かれていますが、実際のところ何を表しているのか、ということです。人身売買ではないか、とか、同性愛行為が含意されているのではないか、という見かたがありました。Kaさんは、もしこれが同性愛行為を暗示しているのだとすれば、この短篇は語り手のミシェルがホモセクシュアリティに目覚める話だといえないだろうかという見かたを提示してくれました。Nさんによれば、ラテンアメリカでは伝統的にマチスモがあり、同性愛、特にホモセクシュアリティや男性がもつフェミニンさのようなものを許容しない社会がながく続いていた/るそうです。「悪魔の涎」の舞台はパリですが、それと絡めて考えればコルタサル自身のセクシュアリティに関わる苦心を透かしてみることができるのかもしれません。
次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。
とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。
他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。
*
今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。
第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。
読んでいただいてありがとうございました!
(工藤杳)