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[:ja]Language Beyond #17 トルーマン・カポーティ 「夜の樹」 2020年11月22日16:30~18:30 Sさん、工藤さん、牛山さんご夫妻、野田さん、吉川 *最近気になっていることなどの共有 *議論 ・日本では「ティファニーで朝食を」のイメージが強いが、カポーティはもっと暗く、狂気に満ちた作品を書く作家だ(そこから、「ティファニーで朝食を」の映画版を見たか、本を一冊読んだか、などの話になった)。 ・けったいな話だと思った。シーンの意図など、どうしてこういう展開になるのか、理解の難しい部分があった。(牛山さん) ・カポーティの作品では「遠い声 遠い部屋」、この本なら「無頭の鷹」がおすすめ。カポーティは、どうしてこの作品を書かざるを得なかったかなどが、自分のことのようにわかる稀有な作家である(その他は、ハクスリーや、テネシー・ウィリアムズ)。(Sさん) ・そういう作家はあまりいないので、面白い。ふだんロシア文学を読み慣れているので、アメリカ文学は新鮮だった。(工藤さん) ・「夜の樹」だけを読むと、盲目の人や背の低い人のあつかいという意味で、難しさがあるかもしれないが、他の作品も読むと、まだ必然性がわかったりする。(野田さん。話し合いの結果、野田さんが読まれたのは1970年版で、最新の新潮文庫版にはない、現代では差別用語とされている単語が使用されていることが分かった)。 ・カポーティは、囲いの外側や、危なっかしい人に惹かれた人だった。差別的な用語がたとえ使われていたとしても、どちらかといえば彼らの側に立つように、その囲いの外側にある豊かさを主張した人だったと思う。(Sさん) ・それが、地面のぬるぬるするようなきみのわるさでもあるが、もっと読んでみたいという気にさせられたきみのわるさだった(牛山さんの妻さん)。 ・この物語は、ポリティカル・コレクトな人がその世界の外側に出会う話として読めるような気がする。(吉川)[:]

[:ja]Language Beyondオンライン読書会 方丈記 2020年5月24日(日曜日)16:30〜18:50 参加者:15名 (当日の流れ) 初めての参加者が複数名いらっしゃったこともあり、読書会は自己紹介(名前やコロナウイルス状況下で気になっていること等)から始まった。その後は「方丈記」の感想を五分程度の休憩も挟みつつ自由に話し合い、全員からのフィードバックという形で締めくくった。 (方丈記について、参加者の方々の感想) ・前半と後半で、災害のルポルタージュから文学へと変化している等、作品のスタイルに変化がある。震災やコロナ等、現代の日本もまさに無常を体験している。(Tさん) ・作品として、構成が非常にロジカルである。はかなさを表す水の泡の話に始まり、事実を並べ、そのなかで自分の選択(隠遁)を描いている。現代とも共通点がある本だ。(Uさん) ・山奥に一人で暮らせることを羨ましく思った。独りでずっといると寂しいので、他人との関わりはあったほうがいいと感じた。(Sさん) ・(鴨長明が隠遁していたことを受けて)一人は独りと一緒ではない。独り=孤立、一人=ひとりでも大丈夫、という違いがあると思う。イベントの最後に、個々の参加者の感想が聞けるとよかった。(Yさん) ・現代と鴨長明の時代と大きく違う点は、現代人は、無常観は感じていない点ではないか。改めて、本書を最後まで読んでみようと思った。(Iさん) ・コロナもそうだが、鴨長明のように独りになると、個人個人が大切なものを見つめ直し始めるように思う。しかし、鴨長明の無常観は大災害に対するもので、社会に対するそれと一概には議論できない面もある。(Kさん) ・コロナウイルスの現状について、ニヒリズムのような感覚を抱いている。その一方で、アクションを起こす、声を出していく必要性も最近感じている。(Iさん) ・飢饉の中、仏具を焚きつけにして売っている人たちをあさましいと呼ぶ描写があるが、はたしてその渦中にいる人たちにそういうことを考えられただろうか。作品が書かれた時代にあって、鴨長明もまた衰退していく貴族側の人間だったのではないか。この人が描いた歴史の向こう側にリアルなまた別の歴史があるはずだ。(Nさん) ・言いたいことは言える世の中であってほしい。鴨長明にとって、この作品は当初の予定とはまた違った書き上がりになったのではないか。(Fさん) ・鴨長明がこの時代にこういう思想のものを書いた点に感心した。本人の晩年にこれを書いたことも着目する必要がある。最後に(南無阿弥陀仏を唱えてやめたというところで)彼の人間くさい部分が垣間見えて面白かった(=鴨長明は実は悟っていない)。(Iさん) ・今回のコロナは人災か天災か、鴨長明が見た災害は人災か天災か、という点も考えてみたいと思った。(Tさん) (運営として感じた、オンライン開催のメリット・デメリット) オンライン開催をして良かったこと ・遠方の人も参加することができた。 ・同時に複数の人が話せないため、一人一人の話が傾聴されていた。これは参加されたみなさんの協力のおかげが大きいです。 オンライン開催で留意すべきと感じたこと ・どうしても1対1の対話の連続になってしまい、対面で起こるような偶発的な・同時多発的な対話が起こりにくい。 ・だからこそ、主催者が事前に問いかけや観点をできるだけ広く準備しておくこと、そしていつも以上に話の振り方に工夫することが必要と感じた。 ・今回の『方丈記』はボリュームもそう多くなく、通読した上で自分の中で考える余裕が参加者にあったため、どんな方向に話が向かっても参加者みんながそれなりに受け止めることができていた。大著よりは、短めの本がオンラインの場合向いている可能性はある。 ・沈黙を恐れないこと。どうしても対面よりも、沈黙が重い。しかし喋らない時間があってもよく、そこは最初に参加者どうしの確認があっても良いかもしれません。 ・休憩は大切。少なくとも1時間に1回は必要。オンラインは疲れやすいと感じた。 ・アプリによる参加方法について、より細やかな案内を送る必要がある。 (運営側からの感想) ・今回のブッククラブは、はじめてzoomを使ってオンラインで開催しました。オンラインでこのような会を運営すること自体初めてだったので最初はかなり緊張していましたが、結果としてはかなり深くまでしっかり話すことができたかな、と感じています。Language Beyondでは、「中心がない」ブッククラブということを大切にしてきましたので、その意味ではオンラインでのコミュニケーションにはまだまだ課題があると感じました。しかしオンラインならではのアドバンテージも大きく、こういう形も全然アリだと感じています。 最後に、今回初めてのオンライン開催のテーマが『方丈記』であったことはとても面白くて、私はzoomの会議画面を見ながら、参加者一人一人の「方丈」がここにあるのだな、と一人で興がっていました。ブッククラブの中でも、「一人であること」についての問いかけがありましたが、一人一人が自主隔離する中、一人でいる時間の意味を『方丈記』を通じて考えることができたという意味で、今だからこその有意義なブッククラブにすることができたのではないか、と思いました。(工藤) ・初めて企画に参加したが、たくさんの方に参加頂けて大変嬉しかった。反面、パソコンの操作が分からず参加できなかったという連絡も頂き、次回以降、企画者としてより細やかな説明が必要であると反省した。Zoomには参加者を少人数の小部屋に分ける機能があり、もう少し少人数で話したい時に有用かと思うが、参加者の方々のストレスになる可能性もあるので、検討が必要。「方丈記」については、ささやかなものに愛着を持った後にそれさえも否定する、という思想の過程に、幸せよりも清らかさが重要だと答えたジッドの「狭き門」を連想した。中世のステイホーム随筆は、タイムリーな選書でした(私のアパートは狭いです。さすがに方丈=四畳半よりは広いけれど・・・)。次回も楽しみにしています。(吉川)[:]

[:ja]このブッククラブで、いつかチェーホフを読んでみたいと思っていました。チェーホフは「偉大な巨匠」というような作家ではないかもしれないけれども、しかしかれほど透徹した視線で人間を観察した人もいないのではないかと思います。わたしがロシア文学に足を踏み入れたきっかけは、やはりあの「偉大な」ドストエフスキーたちでしたが、その後折々にチェーホフを人に勧められてかれの作品と出会い、最初のとっつきづらささえ越えてしまえば、すでにチェーホフがお気に入りの、いや、かけがえのない作家になっていることに気づくのでした。 このとっつきづらさを、チェーホフを初めて読んだ人は感じたのではないでしょうか。それはおそらく、チェーホフの物語が、「大(だい)文学」にしてはあまりにささやかであるというところに一つの原因があると思います。チェーホフの世界は、あの華麗にして壮大なトルストイの世界や負のエネルギーに満ちたドストエフスキーの世界と比べ、あまりにささやかであり、透明であり、うかうかしていると横を通り過ぎてしまいかねないような、そんないわば身体の周囲5メートルほどの世界です。しかしちっぽけなこの「わたくし」にしてみれば、身体の周囲5メートル以内で起きるものごとを除いて、切実なことなどいったいあるでしょうか。 ところで、ささやかで小さな世界といえば、日本には「私小説」というジャンルがあります。しかしチェーホフの場合、「私小説」とも言えない気がします。そこには奇妙なほど「私」が欠けているからです。しかしそれがチェーホフのすぐれているところでもあって、つまりかれは我を通さない、ある一つの価値観によって他者を断じないのですね。──あまりにささやかで、うっかりしていると見過ごしてしまうような「誰か」の世界。大きな物語からこぼれ落ちたみすぼらしい人間たち、生活の中で未来を夢見ることを忘れてしまいながら、それでもなお生きることを諦めきれない人間たち。そこにはいつも、なおもこのどうしようもない世界を生きつづける「わたしたち」の姿があります。 そして、ささやかで見過ごされてきた世界…と考えたときに、チェーホフの作品、特に戯曲では、つねに女性が中心にいることに考えいたります。「かもめ」のニーナ。「ワーニャおじさん」のソーニャ。「三人姉妹」の姉妹たち。「桜の園」の母子。どの劇を観ても、最後に印象に残るのは女性たちの姿です。男性作家が女性を描く際には、つねに権力関係が潜んでしまうものであるとはいえ、チェーホフの場合、その「わたくし」の無さのおかげでしょうか、そうした副作用が最小限に抑えられているような気もします。声高に権利を主張するというのではないけれども、チェーホフの世界では女性が女性として、たしかに生きていて、チェーホフ最後の短篇である「いいなづけ(Nevesta)」の結末などを見れば、チェーホフはたしかにフェミニストなのだ、と納得できる気さえするのです。 そんなわけで、わたしにとってチェーホフはいつだって「わたしの作家」「私たちの作家」…現代的な作家であり続けていて、今回ブッククラブでチェーホフについてみなさんと話すことができたのは、わたしにとってとても嬉しいことでした。『三人姉妹』について、たとえば登場人物の徹底的なまでの受動性──自分から状況を変えようとするでもなく、生々しい現実を前に絶望してしまいながら、ただひたすらに漠然とした「明るい未来=モスクワ」に希望を託して死んでゆく態度──をめぐって、またディスコミュニケーションの問題──劇のなかでは自己完結した独り言が次々に浮かんでは消えてゆきます──をめぐって対話しながら、ますますわたしにはチェーホフが私たちの作家だ、と確信された気がします。 ディスコミュニケーションのあり方は、私たちがツイッターで目にする光景そのものです。そして明るい未来の象徴たるモスクワを決定的に失い呆然として立ち尽くす幕切れ──そこに立ち尽くす三人の姉妹の姿が、どうして私たちそのものでないと言えるでしょうか。私たちのこれからも、きっと「モスクワ」を失った、その地点からしかスタートしないのだと思います。しかしながら、わたしはこの結末に明るさもまた見たいとおもいます。つまり『三人姉妹』の結論は、すべてが終わった地点からもう一度スタートすること、「何のために生きているのか」それを分かりたいと希求しながら、なお生きることを諦めないこと…にあると思うのです。私たちもまた三人姉妹なのだと、お話をしながら静かに思ったブッククラブでした。 (工藤順) [:]

[:ja]読書というものはそもそも孤独な営みと言えるのでしょうが、今回の課題図書であった『地下室の手記』は、世をすねて隠遁生活のごときものを送っている主人公の独白であるということから考えてみても、より一層そうだということになるのではないでしょうか。そのような読書体験を人前で語るとするならば、普段は注意深く公共の場から隠されている生々しい「自分」というものが露わにならざるを得ないのかもしれません。従って(と言えるのかどうかは判然としませんが)、会は終始濃密な空気に包まれていました。 参加者のうち何人かの方は、まさに自分のことが語られているというような感覚でこの本を読み進められたとのことでした。私の好きな作家であるムージルが、人間とは「感情を透過しない皮膚の革袋に縫い込まれた脂肪の塊と骸骨に過ぎない」と書いていますが、感情を直接通わせることができない孤独な存在である人間にとって、自分の内面を描いたかのような作品に出会うという体験は、極めて感動的です。文学が人を魅了し続けているのは、そのような体験があるからこそなのではないかと思います。また一方で、この読書体験が不快であった方もいらっしゃったようです。実際問題として、この小説の中では喜ばしいことは何も起こりませんから、至極当然の感想のように思われました。さらには自分の直視したくない面がことさら強調されて描かれていると感じた方もいらっしゃったようです。このように、読者である自分をどこに置くかによって、読み方が180度変ってしまう本のようでした。まさに「自分自身との関わり方」、そして「自分と世界との関係をどのように捉えるか」が、この作品の隠れたテーマであるように私には思えてなりませんでした。ドストエフスキーは、自明と思われている世界像に反証を突きつけることで、我々読者に揺さぶりを掛けていると言えるかもしれません。これがいわゆる「ドストエフスキー体験」と言われているものだと私は考えています。 私にとって『地下室の手記』はとても今日的な選書のように思われ、今回、大変興味深く読み返したのですが、私がそう感じた理由を少し書いてみたいと思います。耳目を驚かす凶悪事件というものがときどき起こります。不特定かつ無関係の人を対象にした殺傷事件などです。残念ながら今年もそういった事件のニュースが何度か聞かれましたが、このような事件は、加害者本人にとっても自己破壊的というほかなく、起こした本人を含め誰の利益にもならないことから、いつも不可解という感がぬぐえませんでした。ニュース報道を聞いても専門家といわれる人の解説を聞いてもしかと納得できたという気持ちにはなかなかなれません。また、現在の政治的・社会的状況を見るにつけ、コミュニケーションの不全という問題が一段と先鋭化しているように思われます。そのような状況を鑑みるに、目立つ事件というものはまれにしか起こらないものですが、類似した精神的状況に置かれている人々は多くいるのではないかと感じさせられます。『地下室の手記』の主人公は、上記のような人たちと精神的に近縁であると思われるため、作品の中で自らについて語ってくれるということは、こういった人を内側から見るまたとない機会であって、彼らの主体という、現象の中心地に我が身を置くことで、これまで私が抱いてきた「なぜ」を解くヒントが得られるかもしれない思ったのです。 今回の読書を通じてさまざまな新しい発見があり、そのすべてをここで書き尽くすことはできませんが、一点だけ挙げるとすれば、彼の憎悪は「本人が自己の重要性をあまりにも軽視している」ということから生じてくるらしいということです。人間はおそらく、自己の存在を全く無意味であると感じながら生きていくことはできない存在なのでしょう。彼の心の中は、本人は意識できていないものの、自己が尊重されるべきだという感情と、自己に対する侮蔑とが戦う戦場と化しており、端から見て異常と思われる彼の行動は、そういった耐えがたい状態から何とかして脱出しようとするもがきのようなものだと言えるような気がしました。そして彼がなぜ自己に対して敬意や信頼を抱くことができないのかといえば、本の中にも少し描かれていますが、おそらく、本当の意味でよいといえるコミュニケーションが彼の生育環境に欠如していたからということが大きいのかもしれません。そのように考えると、この問題は、コミュニケーションを作り出す当事者である我々一人ひとりにとってもまさに問題であるということになります。対話は、それがうまくいった場合、双方に生涯忘れ得ぬ大きな喜びをもたらしますが、「対話」という言葉を聞いたときに、我々はもはや喜びを連想しなくなっているのではないでしょうか。参加者のある方が、「百発撃って百発打ち損じるよりは、一発も撃たないがゆえに打ち損じがなく、表面的な会話に終始した方がうまくいったという感じがある」と語ってくださいました。貧弱になったコミュニケーションに取り巻かれているという状況は、我々の多くに共通しているように思います。このようにして、この本に対してどのような立ち位置を取るにせよ、「いかにしてよいコミュニケーションを築きうるのか」という点に目を向けることで我々読者は皆、大きな円の中に包摂されることになるはずだという考えが私の中に生まれました。さて、私があの場でそういったよいコミュニケーションを作り出せたかというと……、残念ながらいろいろ反省すべき点が多かったようです。しかし、対話は芸術ですから、今回の反省を活かしてさらに成長していきたいと思っている次第です。参加者の皆さんがどのような思いを抱いて家路を辿られたのか、実に興味深いところです。 (清野) * 一部屋に十五人ほどが集まりドストエフスキーの集会シーンのような読書会となった。登場人物の一人になった気分で発言を聞き、それぞれのトーンに耳を傾けた。合間に連想したことを書いておきたい。 まず、私たちがしばしば好きではない人に似てしまうということについて考えた。 どうしても好きになれない人の好きになれない部分を自分の中に見出すことがある。気づかないうちに自分はその人にそっくりだった、そんなこともある。本によると、その好きになれない部分というのは、実は予め自分の中にもあるものの場合が多いのだという。その部分を自分で認められず抑圧しつづけた結果、その抑圧が他者に対する不寛容となってあらわれてしまうということらしい(もちろん、一概に言えないと思う)。 少し、主人公にもあてはまるのではないか。主人公は同級生に対して俗物性を感じ、強い軽蔑を抱いているが、その俗物性はなんとなく彼の中にも見出せてしまうものだ。この話は、自分自身を長く許すことができなかったひとの悲劇なのではないか?(今回主人公について「自尊心の欠如」や「自分自身に対する冷笑的態度」を言及する声があったことも記しておきたい) またぼんやりと個人的なエピソードを思い出していた(少し外れるかもしれないけれど)。 小学生の頃、スポーツクラブの練習終わりに卒業した先輩から話を聞く場面があった。当時高校生だった彼女はいろいろとアドバイスした後「自分に厳しく、人に優しく!」とはっきり言い残して体育館を去っていった。小学生の私にはその(いま思えば自己犠牲的な)響きがかっこよく感じられて、しばらく心の隅に置いていた(なのでいまだに口調までよく思い出せる)。 だが、いまになって彼女の言ったことは本当に可能なのだろうか、と思う。「自分に厳しく」ということがじっさいどういうことを指していたのかはわからないが(たんに自己管理しなさい、ということだったのかもしれないが)、多少なりとも自分自身を抑圧しながら人に対してはやさしい自分でいるという不均衡がありうるのだろうか(以下の箇所を思い出しつつ)。 人間関係の実質って(…)自分自身との関係だけで、あとはその反映、照り返しにすぎないのじゃないかと。たとえば、自分は無価値だという思いや見捨てられる不安が強いと、他者から承認してもらうことで自分を肯定しようとして過剰にいい人やったり、過労死しそうなほど頑張ったりしがちに。他者との関係の作り方や身の動かし方を見てると、その人が自分自身とどんな関係を作っているかが見えてくる。(田中美津『この星は、私の星じゃない』、p.93)   (ふじたみさと) [:]

[:ja] 新しい公差転での、最初のブッククラブの課題本は樋口一葉の『たけくらべ』でした。 まず、同じ作品を読み合っても、現代語訳バージョンと、注釈付きの元の文体に近い状態で書かれたバージョンで読まれていた方がいて、今回私は現代語訳で読んだのですが、ブッククラブでは、元の文体(調べたところ、雅俗折衷体と言うらしい…)で書かれた作者の文章に着目したり、注釈を読むか、分からないところはそのまま飛ばして読むか、などの個々の読み方のスタンスが垣間見えたりして、難しくとも色々な楽しみ方が出来る文章であったことがわかりました。 私自身は、日本文学全集(河出書房新社,2015)の川上未映子氏による現代語訳バージョンを読み、「。」の少ない原文の特徴をそのままに、当時の吉原の熱気をヒリヒリと肌に感じられるような、独特な勢いのある小説の文章に圧倒されていました。 ブッククラブの中で、一葉は、江戸時代に書かれた文章を参照しながら、近代文学を書きあげたレアな作家ではないか、という見方や、彼女ならではの優しい目線で吉原の風俗を描いているといった見方が出てきました。 実際、小説を書いた理由は困窮した一家の生活を支えるためで、短い期間でこの傑作を書いたと言われていて、一葉は、当時の女性としても、本当にレアで凄い作家ではないかと思えました。 また、子どもを描いた文学であり、殴られても愛嬌のある三五郎、面倒見がよく我が儘放題だが、限りある子ども時代を予感させる美登里、など、個々のキャラクター描写にも長けていて、引き込まれるところのある作品でした。 「予感」という言葉が、この作品に通底しているキーワードとも言えるかもしれません。 余談ですが、今回、ソ連時代の不可解なテレビ放送のお話や、ファシリテーターのFさんの行かれたアートなロシア旅行のエピソードも聞けて、ちょこっとロシアな楽しいブッククラブでもありました。おしまい。 (H.Y.) 追記: ブッククラブに参加してくださったSatorさんも、感想をnoteで書いてくださいました。 https://note.mu/iutus_sator/n/n24ac944655be *** [:]

[:ja]6月30日のLanguage Beyondはスペシャル回として、あるテーマから思いつく本をみなさんで持ち寄り、紹介しあう回となりました。 今回、テーマとして提示したのは「変わる?/Change(s)?」というキーワード。事前に、次のような文章を提示していました。 * 〈変わる〉という感覚。〈変わらない〉という感覚。わたしたちは、今の自分の身体や感覚というあいまいな立脚点に立ちながら、世界や時代、自分自身や他者をながめます。そして自分をとりまくものや自分自身が、変わったこと・変わらないことに気づきます。 〈変わる〉ことは、時には未知の世界へのあかるい希望を抱かせるものでもありますが、時には自分自身や他者、周りの世界に変化を強制する、恐ろしい力にもなりえます。あなたにとって〈変わる〉ことは、どんな感覚をもたらすものでしょうか。 子どもの頃から、変わったもの/変わらないものはあるでしょうか? 自分をとりまく世界は、変わったでしょうか? 変わらないでしょうか? これからの世界はどう変わるのでしょうか? あるいは、どう変わってほしいと思いますか? いまここにいる〈わたし〉から変わりゆく世界/変わってしまった世界に向けて、あるいは世界から〈わたし〉に向けて、どんなことばが投げかけられるでしょうか? これはヒントの一例にすぎませんが、こんなことに思いをはせながら、本を紹介しあってみませんか? * 当日は以下の本が紹介されました。 マヤコフスキー『南京虫』(群像社) 池辺葵『繕い裁つ人』(講談社) 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社) 堀辰雄「菜穂子」(新潮文庫) 吉本ばなな『キッチン』(新潮文庫) 樋口一葉『たけくらべ』 ムジール『特性のない男』(新潮社) 太宰治「メリイクリスマス」(ちくま文庫『太宰治全集』8) 遅子建『アルグン川の右岸』(白水社) 鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』(KADOKAWA) 朴沙羅『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房) 中島京子『長いお別れ』(文藝春秋) 一新塾『「根っこ力」が社会を変える』(ぎょうせい) * すべてを紹介することはできませんが、一口に〈変わる〉といっても、一人ひとりがさまざまな意味でその言葉を受け止め、ヴァラエティ豊かな本たちが集うことになりました。 社会を変えること。年を重ねることで変わること。少数民族の伝統的な生活が変化すること。戦争を経ても何も変わらなかったこと。未来について、過去を語るように語るのではなく、可能性において語ること。 * 次回のLanguage Beyondでは、今回紹介された本のなかから1冊を選び、それをみなさんで読んでみたいとおもいます。 (工藤)  [:]

[:ja] 『風船を買った』チョ・ギョンナン(趙京蘭) 関係ないかもしれないが、じぶんと韓国のこと。   高校のとき、東方神起が好きな友人がいた。それがきっかけで、彼女は韓国語を勉強してもいた。帰り道、いつも彼女が「ペゴパヨ(お腹が減った)」といって、お腹が空いた手振りをするので、そういうときは、いっしょにローソンに寄って、Lチキを買うのが定番だった。が、わたしはなぜか、「ペゴパヨ」というのは彼女の造語で「お腹が減った」という意味なのだと思いこみ、それが韓国語だとは気づかなかった。「ケンチャナ(大丈夫だよ)」や「オットッケ(どうしよう)」なども、日常的に使っていたように思う。ただ彼女はとても表情豊かで、なんとなくその意味がつたわってきたので、それぞれのことばについて、あえて聞き返したりはしなかった。   ついさいきん、韓国語に触れるようになった(わたしも、K-POPにはまった)。そこでやっと、彼女があのときなにをつたえようとしていたかわかった。学校から駅までの道のりと、そのときの空気とともに、とてもおおげさにいえば、記憶が変容していった。それはわたしにとって、とても感動的なことだった。ことばがことばにされてから、十年が経っていた。   と同時に、韓国のひとについて、いくつか発見があった。どんなときに、どんなことばで表現するのか。どんなふうに、年上、年下、同い年のひとと接するのか。全然、知らなかったことだった。   なかでも、個々のひとの自信のもち方が、ちょっとすごい。これは伝えにくいのだが、ただアイドルだから、というものではないと思った。たとえば、「このなかで〇〇に一番すぐれているひとは?」とかいった、〇〇にポジティブなことばが入るような質問に対して、「ナ!(僕!)」と、ごく自然に答える。その自然さがすばらしい。しかも、それに対して、まわりは茶化したり、嘲笑したり、絶対にしない(たぶん)。どころか、そういう自信をもっているひと、じぶんを好きでいることができるひとのそばにいることを、誇らしく思うような雰囲気もある(わたしの妄想でなければ)。   書いてみるとあたりまえのような感じ。なんだけれど、テレビのように既定のコードがある場で、なかなかできることじゃない。だから、そんなやりとりが、最初印象的だった。とにかくなんだか、ああ、いいなあ、と思った。じぶんを好きでいられることの価値、自尊心というものに対する理解の深さ? 新鮮さ、そして、うらやましさとまぶしさ。   個人的なトピックについて、書いてみた。   あなたとわたしのちがいがうれしい。すぐには思い出せないが、そんな詩があったような気がする。ひとつのものごとについて、ちがった見方のあることが、ちがっていることが、こんなにうれしい。なんとなく、韓国に触れるとき、そんなことを思う。 藤田瑞都 [:]

[:ja]「滝山コミューン」とも、2月24日の公・差・転とも関係ないかもしれないけれど 僕は、1996年からの10年ばかり、T-theater という詩の朗読の舞台集団の代表をやっていたことがあります。 代表といっても、当時知り合ったパソコン通信(インターネットはまだなかった)で知り合った方たちと一緒に、「詩の朗読の舞台をやろう」と立ち上げた、言ってみれば素人の集まりです。 (ただし、失礼のないように書いておけば、趣旨に賛同して協力して下さったプロの方々も参加しています。) 歌詞や詩に救われて生きてきた僕は、詩の朗読だって素晴らしいエンタティメントだと思っていました。 だから、朗読の舞台集団を始めました。 そこで僕が言い続けたことがあります。 :一緒に何かをやり遂げた達成感とか、頑張ったという自己陶酔に陥らないでください。 :会場に足を運ばれてくるお客様にとっては、あなた方の一人ひとりが何をやりたくて表現を行っているのかが大切なのです。 :身勝手にやりたいことをやってください。 詳細は触れませんが、同じ時期に詩の朗読、もしくはポエトリー・リーディングを始めた方々があちこちでおられました。 t-theaterは、2000年代に入ってから解散しました。 すでに、「集団」など作らなくとも、自由に朗読・リーディング活動を出来る場が、あちこちにできていました。 t-theaterの解散と前後して、僕は単独の詩の朗読会を開催するようになりました。 音響・音楽・美術を揃えた舞台ではない、自分一人しかいない朗読に向かうようになりました。 概ね観客動員数の少ない会になりました。 それでも、お褒めの言葉もいただくことがありました。 そうした中で僕が何回か繰り返して語ってきたことがあります。 :もしも僕の言葉に心を動かされたのであれば、僕の言葉を肯定しないでください。 :いったい何に心を動かされたのかを考え始めてください。 :感動したからといって、誰かの言うことを無条件に受け入れてしまう。 :これほど怖ろしいことはないのですから。 これからも繰り返し続けると思います。 ところで、僕は子どもの頃から宮澤賢治の書く物語が好きでした。 とても神聖なものに感じていました。 妻と知り合った頃、妻が宮澤賢治を嫌いと知り、そうした考え方も理解するようにしました。 長く抵抗がありました。宮澤賢治はやはり、とても巧みな物語の書き手なのです。 やはり僕の好きな作家である山口泉が「宮澤賢治伝説」(河出書房新社)を出したのは2004年です。 初めて妻の覚えてきた違和感を受け止められた気がしました。 (錯覚かもしれません。) 何かを信奉せずに疑うことは大切であると同時に、いたずらに周囲の価値観の変遷の変化に追従してしまうことも恐ろしいことだと思います。 僕が子どもの頃には、絵本の結末に「ぶんどりひん」という言葉が使われていたのを思い出したのは、「世の途中からかくされていること」(木下直之、晶文社)を読んだときのことでした。 「ももたろうは ぶんどりひんを もちかえりました」といった文言が、「めでたしめでたし」一杯の雰囲気でえがかれたりしていました。 こうした言葉を肯定的に使っていた価値観の時代がかつてはありました。 映画「拝啓天皇陛下様」には、侵略戦争が終わった後も「ぶんどること」を止められなかった愚かな臣民の姿が描かれています。 しかし、いつしか言葉は使われなくなり、そうした言葉を使う意識も忘れられていきました。 忘れ去ることで、「なかったこと」にできる状況が生じたのです。 「飛ぶ教室」、「滝山コミューン」の二冊に関する対話を聞きながら、僕が思い出していたのは「クオレ」(デ・アミーチス、複数の訳有り。)のことです。 僕が子どもの頃には、子どもへの啓蒙的な小説として数種の翻訳が出ていました。 後に、イタリアのファシズムを誘導した作品として分析された本です。 これは、いじめられっ子であった僕にとっては、ある意味、救いの一冊でした。 世の中に僕の実際の生活とはかけ離れたところで、「絶対の正義」みたいなものが存在していて、それと同化してしてしまえば自分は救済されるみたいな。 成長物語というのは、向上心のある子よりも、劣等感のある子にとっての救済の発想みたいだなと思っています。 「正しい/悪い」の価値観を確立し、自分が「正しい」側に身を置いていると思えれば、ある種の快楽が約束される。 先述の宮澤賢治の魔力にも通じるものがあります。 (一見求道的な「本当の幸せ」という言葉が、「本当」ではないものを選別することを前提としている怖ろしさ。) 塾教師という仕事柄、教え子といろいろなことを話すことがあります。 最近、「3年A組」というTVドラマが、彼らの心をひきつけていることに気がつきました。 学校を舞台にした作品です。 高校教師が、自分の担任している生徒たちを人質に取り、学校に立てこもるという設定です。 その中で、既に自死している一人の生徒に対して、「クラス」によって代表される社会がどれだけ「加害者」であったかが、浮き彫りにされていく展開となっています。 自分が加害者であることをまず自覚しろ。 そうしたドラマの内容が、とても複雑な思いの中で子どもらを捕えているのではないかなと思いました。 奥主榮 [:]

[:ja]Language Beyond #7のレポート 2018年12月16日 今回読んだ本: ・レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 ・多和田葉子『地球にちりばめられて』 私にとってこのブッククラブは2回目で、すでに本を選ばせていただいてとても嬉しかったです。自分が読んで気に入った本について本格的に話し合う機会が意外と少ないからです。文学に近い分野で研究していますから本当にそれは不思議ですが、周りの人たちは大体自分のテーマに打ち込んでいて、誰かに勧められた本を読むまで手が回らないことが多いです。結局、本を読んで、アマゾンなどの口コミを覗いて意見交流の疑似体験のようなものをして、終わりということが多いですね。でも、同じ本を読んでいる人たちとリアルなコミュニケーションを取って、意見を話し合うということはなかなかない貴重な体験です。ですから、とてもありがたいですし、他の人の選んだ本も大事にだいじに読みたい気持ちになります。   私は多和田葉子の『地球にちりばめられて』という最近の本を選びました。日本が何らかの理由で消滅したという設定で、そのときに北欧で留学していた日本人女性Hirukoは難民の立場になる。法律で定期的に国から国へ移らなければならないことが決められていて、Hirukoは各国の言語を覚えるのが嫌になって、北欧の各国でなんとか通じる言語を自分で作る。そこから不思議なつながりでHirukoの周りに色々な人が集まり始める。言語学を専門とするデンマーク人の学生、女性として生きようとするインド人の青年など、本当に多彩な人たちが集まって、彼女の言語(日本語)を母語として話す人を探すために一緒に旅に出る。目標達成はともかく、この旅で得るものは予想よりずっと大きい。   この本には移民の問題、原発問題、日本の社会が秘める色々な問題、そして、私にとって特に歯ごたえのある言語問題など、たくさんの問題が取り上げられていますが、言葉遊びなどが多くて、その割には明るい本です。ブッククラブの皆さんもこの本を読んでくれて、以下のテーマを中心に話し合いました:   ・この本では、母語の常識の外に出ることが様々なアングルから取り上げられています。なので、(主に)日本語の制限や時々その外に出る必要について話しました。例えば、英語やロシア語のような Good luck という一般的な表現がない日本語では、「頑張って」の使用頻度がとても高くなり、息苦しくなることがあります。その対策として、「お気楽に」など、もう少し相手に肩の力を抜かせる表現を積極的に使うことなど挙げられました。また、今の日本語と江戸時代の日本語がかなり違っていて、そのときの人も違っていたのではないかという指摘もありました。 ・主人公は自分の国の消滅に対して素っ気なすぎるのではないか、という疑問もありました。この本では、日本の消滅はとても曖昧に描かれて、むしろ象徴的な存在になっています。主人公もあまり詳細(親戚がどうなったかなど)について興味を持たないようです。転々と国を変えると、母国に対しても素っ気ない感覚になってしまうのではないでしょうか。確かに愛国の概念が薄い未来を描いている本ですが、それをポジティブにとらえるか、ネガティブにとられるかは、人によって違うようです。少なくとも考えさせられるのは確かです。 ・日本を批判し、北欧を可愛がっている著者の立場についても話し合いました。多和田さんの国際作家なりの批判的な観点が確かに色々なところから見えてくる。原発を考えさせるところや北欧の方が気楽に生きれるという主張がたくさんあります。しかし、一方で、ヨーロッパの潜在的な問題(テロ、移民問題など)についても述べられていますから、極端な立場ではないことを、話し合いながら分かりました。   現代を生きる皆がよく直面する社会的な問題や言語の制限が取り上げられている作品で、話し合うのはとても楽しかったです。続きを唆すインタビューも出ているので、もし続きが出たら、またこのブッククラブで話し合いたいな~と思いました。 さて、今回の二冊目の本はブラッドベリの『華氏451度』という有名な本でした。時代背景がかなり違います(1953年 vs 2018年)が、多和田さんの本と同様に、未来の世界を描くファンタジーです。その世界の中では、人が何も考えたり悩んだりせずに幸せに生きられるように、本がほぼすべて禁止され、見つかったらファイアマンに燃やされます。その代わりに、お楽しみ番組いっぱいのテレビやラジオがどんどん発展していきます。考えることをやめた人々は自分たちが幸せだと思い込んでいるが、本当は幸せではなく、自殺未遂を起こすのも日常茶飯事です。そして、ある女性との出会いをきっかけに、その現状に気付くファイアマンの主人公がいます。(続きはスポイラーなので書きません)   これも色々な面から現代人にも十分に通じる作品で、話し合いがかなり盛り上がりました。話題に上ったものをいくつか挙げましょう:   ・女性と男性の比率について。この作品では、主人公や教授や最後に出てくる老人たちなどを含め現状に気付いている人が主に男性であるのに対して、主人公の妻やその女性友達などはかなり馬鹿な存在、現状を見ようとしない存在として描かれます。一方で、主人公も女性との出会いをきっかけで現状に気付いたことも忘れてはいけないし、秘密で本を家で保存している人たちの中にも女性はいました。でも、確かに、まだフェミニズムやジェンダー研究が今ほど普及していなかった時代を感じるところがあります(ファイアマンにも女性がいなさそうで、今は差別として見られるかもしれません)。作家の無意識的(または意識的?)女性観が現れているのかもしれないし、男性の作家はどうしても男性を主人公として取り上げやすいという傾向も現れているのではないでしょうか。 ・この作品はテレビの悪影響を語る作品ですが、今の時代だとむしろインターネットの方が危険に感じる人が多いです。ブラッドベリも今の時代に生きるなら、依存症になりやすく情報量もとても多いSNSを取り上げたのではないでしょうか。一方で、その対比項目として挙げられたのはきっと同じ本ではないでしょうか。本の価値はそのときでも今でも変わりません。このように「現代ブラッドベリ」を想像してみると、考える力を育てる本という媒体(文化)の良さが分かります。 ・検閲問題についても話し合いました。検閲には良いことがないという人もいた一方で、ある程度の不自由があった方が作家はそのストレス発散を含めて陰で良い作品が書けるのではないかという人もいました。私の生まれたロシアでは、詩人は不幸な存在であるべきだ、という言われがあります。つまり、苦しみから様々な悩み、考え、そして、人生の意味を探そうとする努力が始まり、結果的には苦しみがいい作品を生むというのです。それも極端な意見ですが、やはり問題性があってはじめて作品が成り立つため、周りに問題がないと作家も熱意を入れて書くことは難しいかもしれないですね。ただ、作家体質の人なら、自分の内面など、どこにも問題性を見出せるのではないでしょうか。それで、わざわざ外から苦しみを加えなくてもいいのではありませんか。本当に難しい、多面的な問題です。   このように、二冊ともについてとても充実した話し合いができて、嬉しかったです。色々な意見が受け入れられる堅苦しくないブッククラブの存在は、文学にとっても喜ばしいものだと思います。また、最初の自己紹介もとても貴重な場だと思いました。最近気になったこと、昔の出来事、自分の詩など、話す内容は具体的に決められていないからこそ、その人その人の個性がよく見えます。そして、このようによく知らない人同士で個人的な話をし合うことは、親しい友人の輪ではできない大事な心の体験になっている気がします。文学に対する色々な意見だけではなく、色々な人の色々な事情を受け入れる練習(実践?)の場として、これからも長く活躍してほしいと思います。 Language Beyond マリア  [:]

[:ja] ランゲージビヨンド 第6回 10月21日 「香港パク」 [あらすじ(さわり)] 理不尽な社長の下、出版社で働く主人公と同僚たちにとって、「香港から船が来れば大金持ち」と嘯き、 怒られても不敵な笑みを絶やさないパクは希望の象徴になっていく。しかし、何年か後、摘発されTVニュースに映った密輸団の中にパクの姿があった。主人公の気持ちは複雑に。 [対話] 選者から「何とも暗くて、引っかかりのある文体」というコメントで話が始まりました。 韓国文学は読む機会が少なく(多くの参加者がそうであった)手探り状態で対話をしていく中で ・当時の韓国の国情を表している 経済破綻(IMF危機)の前であり、張り子のトラのような経済状態への不安の反映ではないか ・パク(食わせ者に見えるが)への希望(メシアとの表現がある)はその表れか キリスト教の信仰は強いのか・・土着宗教と一体化した現世的信仰 韓国訪問時に教会の十字架が光っているのは不思議に思えた ・パクの人格が変わったのは徴兵以降との記述があるが、何があったのか 光州事件との関わりがあるのか、光州事件は今でも韓国社会に影を落としている ・一方で主人公は、世間とは距離を置いて冷静に生きているように見える ・この状態は今でも変わっていないはず ・グローバルな視点を持つ友人でも、就職に関しては大企業志向で保守的 など、国情や社会の雰囲気と結びついているとの解釈が進みました。 一方で ・現代の中国文学にはこんな暗さはない ・アジア文学が日本でマイナーなのは、大学の主流が欧米文学のせい など、アジアへの興味も促されました。 「コンビニ人間」 2時間以上に及ぶ、この読書会で最も長時間の対話となりました。 [あらすじ(さわり)] 人格障害から社会に溶け込めない主人公にとって、人もシステムも機械と化したコンビニの一部になり働くことは、社会の一部と認識されることでの安心感があり、18年もアルバイトを続けていた。 ところが、反抗的な新人アルバイト(白羽)の登場により、その世界が崩れていく。 [選者から] ・一見、アスペルガー(発達障害の1種)を自覚する主人公が、機械のようなコンビニに順応して 生きる話に見えるが、いろいろな視点がありそう ・この会に来る人は主人公に同情的と思えるが、別の視点も知りたい とのコメントで始まりました。 [対話] 「主人公は分かる」という意見が大勢を占める中、いろいろな面へ広がり、深まりをみせました。 ①内面(人間的)な考察 ・周囲(現状の社会)に抵抗せず冷静に生息場所を探す主人公に対して、怒り反抗する白羽のスタイル は対照的。物語がそのことで展開していく ・周囲は主人公を金魚鉢の中を見るように見ているのだろうが、一方で、金魚鉢の中から周囲を見る ことも実は同じではないのか ・主人公は自分を中心に(自分の世界を)組織化できない。 そのために周囲に秩序ある存在を求める。その対象がコンビニ。 ・主人公は成長しない。 いろいろな事態が起きるが、常にワンパターンな対応をし、同じことを繰り返す。 それで、救いがない物語になっている。 ・一部にハッピーエンドとの意見もあったが、課題を残した終わり方との意見が大勢 ・(あちらとこちらを)分けへだてなく見て直言する白羽の弟夫人は貴重な存在ではないか こうした問題への解かもしれない ②自分の経験に即して ・周囲に同調して生きる人の「自分」とは何だろう。 機械の一部になっているのは同じで、自覚がないのは同じではないか →希薄だろうという感じだが、意見が出ず、分からない ・自分も、少年期には「どこまでやったら周囲がどう反応するのか」を観察しながら生きた ・今も周囲にはこんな人が多いので、読みだした当初は何が面白いのか分からなかった ③社会的な考察 ・主人公はコンビニの店員としては完ぺきである。社会のシステムが機械的、効率的なモノを求める ならその点で完璧な主人公を迫害するのは理不尽だし可哀そう ・社会(この場合はコンビニが代表する)が常に異物を排除し続けるなら、一旦異物を排除しても 新たな異物を作るのだろうか ・機械的なコンビニは日本にしかない。 海外のコンビニは良くも悪くも人間的(店員の感情が出る)である あえて似たモノを探すと、工場か役所だろうか ④文学的な考察 ・「諦めの物語」が多いのは日本文学の特徴に思える この物語も明確な結末やメッセージがない。欧米文学にはそれが必ずある。 [対話全体に対する感想] 多くの視点や深みが出て、楽しかったし驚きです。事後の気づきとしては ・周囲も自分も、動物園だと思って双方を冷静に観察すれば気楽ではないか ・日本文学は「諦めの文学」としたら、村上春樹が海外でも受けるのは、欧米人も疲れてきて 曖昧な内容や結末を求めているのではないか 以上 (牛山) [:]

[:ja] 今回のブッククラブは、「怒り」についての話題から始まりました。最近、某国会議員に対する抗議デモに参加したAさんは、デモの熱が高まるにつれ、自身の「怒り」の対象が当人の行為から当人の存在そのものへとうつっていくことに、ある種のこわさ−−自分自身がコントロールしているはずの「怒り」という感情の向く先がぼやけてわからなくなるこわさ−−を感じたといいます。 今回、私はソル・フアナという作家を選びました。冒頭の話と結びつけて考えるならば、フアナは自分自身の「怒り」という感情を、かなり率直なかたちで表現した作家だと言えます。「怒り」という感情を持つとき、その感情の実体について無反省でいるのは危険です。ただ、それ以前に、フアナという作家にとっては、感情の存在そのものの方が重要だった。自分の中にある感情の実体を、すみずみまで把握するよりも早く、その感情の存在を、ただみとめること。フアナのテクストからは、そのことの重視が強く感じられます。それは、自分が自分の感情を抑圧してしまい、なかったことにしてしまうことに対する、おそろしさのあらわれであったかもしれません。 何の縁もなかったソル・フアナという作家、あるいは手紙という形式を選んだ理由のひとつに、「個人的な物語を語ること」への興味がありました。旧くからある日記や手紙の他に、最近はZINEやSNS等による方法もあります。たとえばZINEは、気軽な個人出版の形態として広まるにあたり、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムのスローガンと呼応していました。それもあり、ZINEにおけるテクストは、社会的な自己ではなく、個人的な自己を始点として書かれることに主眼が置かれています。今回は、そうしたテクストが個人を始点としながらより大きな問題へとつながっていくことの可能性について、ブッククラブのみなさんと考えてみたい、という意図もありました。 ただ、みなさんの色々な意見を聞く中で、それは個人の感情をなかったことにしてしまわないという意味で−−「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを読み手にうけわたす役割で−−重要なのだと気づきました。小さな問題が、より大きな問題−−たとえば沢山の人間に共通するような普遍の問題へとつながっていくか否か、という問いもありますが、それよりもただ単純に、私たちは個人的なものを始点にしてもいいのだ、と・・・。私たちには、そこから話をはじめる権利がある、と。それを知っているだけで、どんなに勇気が出るだろう、と思うのです。シンプルですが、「個人的な物語を語ること」の要点はそこにあるのかもしれない、と思います。 ひとりひとりのうちにある物語は、断片的な論理の中で書かれる、かよわいものかもしれません。それに、脈絡がなかったり、いったりきたりの話になってしまうかもしれませんね(フアナが、自分の詩は万全の状態で書かれたものではないのだといいわけしていたのを、なんとなく連想します)。・・・だとしても、だとしても・・・三百年前にフアナの抱いた怒りや、「学びたい」という感情を、抑える権利は誰にもありません。もちろん、フアナ自身もそれを抑える気はありません。・・・いきいきとした文章から、彼女の声が聞こえてくるようです。「ほら、私の情熱を見て。世界は広い」と。 藤田[:]

[:ja]Language Beyond #4 レポート 野田光太郎  私にとってブッククラブは、消えかけていた文学への関心をかき立ててくれる貴重な場である。やはりこの世には文学でしか描けないものがあるのだ、と参加するたびに気づかされる。この日は期せずして、植民地支配の問題をテーマにした小説が二本そろって取り上げられた。特にケニアの先住民解放闘争を背景とするグギ・ワ・ジオンゴ『泣くな、わが子よ』に関しては、ギニアとナイジェリアからの参加者があり、身近で語り継がれてきた植民地支配の過酷さについて生々しい話を聞かせてくれた。そのため、この日の会はどことなく緊張感をはらんで始まった。  政治的あるいは社会的なテーマを強く感じさせる作品についておしゃべりをする場合、ややもすると自分の政治的な意見を表明することが中心になってしまいがちだが、小説の内容に立ち戻るよう意識的に心がける人がいたおかげで、小説の細部や書き手の背景へと改めて思いをめぐらせて、かえって社会的な認識を深めることができたように思う。たとえば『泣くな、わが子よ』では、キリスト教とアフリカ先住民の宗教の関係など、一人で読んでいるだけではなかなか考えが及ばないテーマについて意見交換することができた。  沖縄を舞台とした大城立裕『カクテル・パーティー』は、大城の他の作品や、戯曲版をも読み込んできた方々がいて、テキストを提案したわたしのほうが感心してしまった。後半から主人公が「おまえ」と呼ばれることで、語り手の視点が変化し、物事の見え方までが反転する、という手法面に関心が集まった。そこから主人公の娘の描かれ方など戯曲版との比較、さらには米軍基地労働者による反基地闘争の歴史を紹介したテレビドキュメンタリーなど、作品外の現実にも話題が及んだ。  参加者の皆さんの鋭い洞察力と、それを的確に表現する言語能力、誰もが議論に加われるよう話の流れを整えるバランス感覚、興味・関心の広さなど、文学への熱意に触れ、作品への思いを共有できて、非常に楽しい時間を過ごせた。テキストを読んできていない人も、スマートフォンですばやく情報を取り出しながら話に参加したり、他の作品から話題を提供したり、形にとらわれないこのブッククラブの面白みが感じられた。  わたし自身は、つい時を忘れて自説を語りすぎてしまったが(まぁ、ええカッコをしたかったということですな)、もっとさまざまな立場からの意見を出してもらうよう心がければ良かったかなと思う。イギリスとケニアのような旧宗主国と植民地の関係は、それを通じて価値観が互いに浸透していくような逆説めいた面もあり、突き詰めれば沖縄と日本の関係にも相通じるわけで、じっさい小説の中ではそういったコンプレックス——対象への嫌悪と憧れと恐れが切り離せないような形で入り混じった感情——がテーマの一つにもなっている。特に『泣くな、わが子よ』の前半では、幼年期の叙情性と素朴な大家族の共同性、それらを必然的に破壊していく白人「文明」の拡大と、しかしそれにどうしようもなく引きつけられていく主人公という、外部からでは容易に飲み込めない構図を提示している。  このように心のシリアスな部分を深くえぐり出している今回の文学作品を通じて、社会のありようによってどうしようもなく左右されてしまう個人の、それでも尊厳を求めてあがく姿への強い関心を共有できた気がする。 [:]

[:ja]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。 今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。 ・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選) ・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選) * まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。 * 今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。 今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。 プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。 とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。 挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。 ・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある ・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる など。 あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。 また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。 一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。 * コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。 まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。 もう一つ論点になったのが、この短篇の中心にある「写真に写ってしまった事態」は、小説中では曖昧に描かれていますが、実際のところ何を表しているのかということです。人身売買ではないかという見方や女性を通して誘惑しようとしている、または強制セックスワーク(強制売春)やレイプ(性暴力)が暗に示唆されているのではないかという意見もありました(Eさん)。またKaさんはこの短篇は語り手のミシェルがホモセクシュアリティに目覚める話だといえないだろうかという見方を提示してくれました。Nさんによれば、ラテンアメリカでは歴史的にマチスモの傾向が根強く、同性愛、特にホモセクシュアリティや男性がもつフェミニンさのようなものが社会的に認められにくい時代があったそうです。   次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。 とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。 他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。 * 今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。 第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。 読んでいただいてありがとうございました! (工藤杳) [:en]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。 今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。 ・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選) ・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選) * まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。 * 今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。 今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。 プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。 とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。 挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。 ・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある ・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる など。 あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。 また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。 一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。 * コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。 まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。 もう一つ論点になったのが、この短篇の中心にある「写真に写ってしまった事態」は、小説中では曖昧に描かれていますが、実際のところ何を表しているのか、ということです。人身売買ではないか、とか、同性愛行為が含意されているのではないか、という見かたがありました。Kaさんは、もしこれが同性愛行為を暗示しているのだとすれば、この短篇は語り手のミシェルがホモセクシュアリティに目覚める話だといえないだろうかという見かたを提示してくれました。Nさんによれば、ラテンアメリカでは伝統的にマチスモがあり、同性愛、特にホモセクシュアリティや男性がもつフェミニンさのようなものを許容しない社会がながく続いていた/るそうです。「悪魔の涎」の舞台はパリですが、それと絡めて考えればコルタサル自身のセクシュアリティに関わる苦心を透かしてみることができるのかもしれません。 次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。 とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。 他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。 * 今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。 第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。 読んでいただいてありがとうございました! (工藤杳) [:]

ブッククラブ「Language Beyond」第1回 レポート ブッククラブ「Language Beyond」の第1回は、12月9日(土)の16時30分から2時間にわたって行われました。今回は、11名の方が参加しました。 前回のオリエンテーションを兼ねた「ミーティング」(10月)では、このブッククラブの考え方や進め方を話し合ったのですが、そこで ・隔月(2ヶ月に1回)で開催する ・それぞれの回で2名の方に選書をお願いする ということが決まりました。 ということで、さっそく今回選書を担当してくださったのは、JさんとNさん。選んでいただいた本はこの二冊でした。 ・井上靖『天平の甍』(Jさん選) ・イェホシュア『エルサレムの秋』(Nさん選) Language Beyond、スタートです。 …… 初対面の方もいらっしゃいましたので、はじめに自己紹介を兼ねて近況(最近気になっていること、はまっていること、読んだ本など……)についてのおしゃべりから始めることにしました。ご自分の仕事、ブッククラブに興味をもった理由、最近はじめて挑戦したこと、読んでいる本、長年携わってきたこと、気をつけていること……様々なお話をきくことができました。参加されたみなさんの年齢層も(20代の方から50代くらいの方までだったでしょうか)幅があり、様々なバックボーンや興味、活動について知ることができたとおもいます。個人の伝手でブッククラブをするとなると、メンバーがどうしても同年代の人に偏りがちですが、今回のブッククラブはこの年齢層の多様さも一つの特徴で、「あなたの公-差-転」という場所ならではの場になったと感じました。 …… その後に、さっそく今回みんなで読んだ本をめぐるおしゃべりの時間に入りました。最初はJさんが選んだ井上靖の『天平の甍』を取り上げます。 Jさんは、井上靖のほかの本は特に読んではいないそうですが、この『天平の甍』を読んだ時に、文化を伝えることにかける人間の真剣さとか情熱といったところに深い感銘を受けたのだそうです。参加されたUさんによれば、ある年代までこの作品は教科書に掲載されたり、教師の推薦書であったそうで、かなり有名だということです。Eさんは、この本を英語版で読まれていました(英訳は東大出版会から出ていて、The Roof Tile of Tempyoという題です)。 当日話題に挙がったテーマの中で、個人的に面白く感じたのは以下の2つです。 ★留学生であることについて 当日、たまたま留学経験のある人がメンバーの中に数名いらっしゃったので、留学生の物語としての『天平の甍』という話題がありました。当時の日本から唐にわたった留学生たちは、現代の留学生にも通じる留学生の典型的なタイプを表しているのではないか、という話でした。例えば放浪に出るタイプの留学生としての戒融、現地で結婚して落ち着いてしまうタイプとしての玄朗、ひたすら勉強に勤しむ業行、などのタイプです。こういう意味でも現代に通じる小説だったのか!という点は、この小説への視線を新鮮なものにしてくれました。この視点は、ただ面白いだけでなく、思いがけなく深いところにつながりました。留学生は、文化の狭間にいる存在です。留学先で、どのようにオリジナリティを獲得していくかという論点は、いまも昔も変わらない普遍的な問題だと思います。簡単に言えば、「日本人であることを捨て、唐の文化に没入する」か「必要以上に日本人であることで、唐文化のなかに日本人として存在を確立する」か。留学先と母国との距離感、バランスの問題です。ここでは、異文化コミュニケーションにおけるアイデンティティの確立が問われています。井上靖は昭和の人ですから、唐の時代のことを書きながら、こうした点で現代的な視座を提供しているのではなかったでしょうか。 ★歴史小説の文体について Iさんが問題提起されたのは、この小説の文体の奇妙さということでした。Iさんはヨーロッパ、ロシアの小説に造詣が深く、そうした地域の歴史小説と比較して、『天平の甍』の文体が継ぎはぎだらけのように感じ、違和感を覚えたそうです。この違和感はどこから出てくるのか? Nさんは、地の文が漢文調、会話文は和文と、違う文体が共存していることを指摘します。Uさんは、この小説の文体が「海外ドキュメンタリーみたいだ」とおっしゃっていました。つまり、ナレーションと、登場人物の台詞とで文体のレベルが異なるのですが、違うものが一つの場所に合わさっていることからくる違和感だったのかもしれません。 他にもいろいろな話題が出つつ、40分ほどお話ができたと思います。 …… 次に、『エルサレムの秋』に話題が移りました。これはイスラエルの作家アブラハム・イェホシュア(Abraham Yehoshua)の日本語で読める唯一の本です。選書してくださったNさんは大学でアラビア語を勉強されていたのですが、日本であまり知られていないイスラエルの小説を知ってもらいたいという理由から今回この本を選んでくれました。また、訳者の母袋夏生(もたいなつう)さんの文体(漢字とかなの選択など)が好きなのだそうです。トランプの「エルサレムはイスラエルの首都」宣言がこのクラブの数日前にニュースになり、奇しくもアクチュアルな読書となったようです。 当日出た話題から、興味深かった論点を2つほど紹介します。 ★物語の「うすさ」 例えばUさんが指摘されていましたが、『天平の甍』と同時に読んだおかげで、「エルサレムの秋」の「うすい」感じが浮き彫りになったようです。この「うすさ」とは、どういうことでしょうか。 まず一つ、見た目の問題として、行間が広く、スカスカな印象を受けることがあります(Nさん)。体言止めが多用され、結果として歯切れのよい、読みやすい文章になっている。吉本ばななの文章を想い出すという感想もありました(Jさん)。淡々と日常を描きながら、しかしそこでは何かが起こっている、という点です。 二つ目に、主人公の「うすさ」が挙げられました。主人公はあらゆることに客観的で、あらゆることから距離があるようだ(Iさん)。子どもが家に来ても、友人とあっても、自分のことばかりで、真剣に人に向き合おうとしていないのではないか。「研究者」タイプの人の「浮き方」(Kさん)。地元で浮いてしまうこと。「まだ結婚しないの、子どもいないの」とか(Mさん)。「Three Days AND a Child」という原題が、主人公のこの距離間をうまく表している気がしたという感想もありました(Kさん)。withでなく、andであり、「3日間」と「子ども」、まるで物体が二つ並べられているようです。 三つ目として、「うすさ」とはちょっと違うのかもしれませんが、シンボルの街としてのエルサレム(90ページ)という舞台設定にも関係が深いかもしれません。Nさんによると、エルサレムは、歴史地区である旧市街と、イスラエルが建設した新市街とに別れていて、このお話は新市街を舞台にしているそうです。エルサレムのどこか現実離れした感じ。日常のすぐ隣に踏み越えられない境界線がある。あらゆる現実の挙措がメタファーになってしまう特殊な街、エルサレム。そこでは現実の感覚はある意味「うすく」、すぐに突き破って、歴史の層に沈潜してしまう……そんな感覚がありました。またEさんが、この物語はメタファー(暗喩)に満ちている、アレゴリーの物語ではないかと指摘されていました。聖書(ヤギ、3日間、創世記、アブラハム)を想起させるエピソードが随所にあること、また動物の名をもつ登場人物たちが登場することからです。 ★子どもを愛しているのか、愛していないのか 原題が「Three Days AND a Child」であり、withでないことについては、上で書きましたが、この題に特徴的に現れているのは、子どもの「異物」感ではないでしょうか。預けられる子どもは、主人公の男の部屋に突然侵入してきた他所者として描かれているようです。動物園で子どもを遊ばせる(放っておく?)シーンでは、子どもが塀から落ちて死ぬところを想像しさえします。 子どもの異物感。子どもへの殺意。Jさんは知人から聞いたことのある、ある言葉を想い出しました。その知人の方が子育てをしているときに、Jさんが「子どもってかわいいよねえ」と話しかけたところ、知人の方は「う~んかわいいだけではないね、時々殺してやりたいと思うこともある」と答え、Jさんはびっくりしてしまったそうです。 主人公は子どもを「それでもやっぱり愛している」のか「まったくの無感動」なのか。主人公は自分がやりたいことしかやっていないようにも見える。毒蛇を持った友人に対する態度もひどい。Jさんは「それでもやっぱり愛している」のではないかと言います。逆にIさんは人間としての感情を持っているとは思えない、と反応します。 さて、とはいえこのブッククラブは正解を求めることが目的ではありません。この議論を通して、なるほど捉え方ひとつでこうも違うものか、という点を知り、それぞれが自分の見方についてもう一度考える機会を持つことができたのではないか……とおもいました。 本が品切れ状態でもあり、またamazonの中古本在庫も値段が高騰してしまった(このブッククラブのせいでしょうか……)ために、本を入手することができない人もいましたが、そうした方も、実は会話を深めることに一役買ってくれていました。というのは、本を読まれていない方に対して、読み終わった人が説明しながらクラブを進めていくことで理解を深めることができますし、本を読まれていない方の質問は、テクストに対して少し距離がある抽象的なものであったり、そもそもの前提を問うものであったりするからです。こうした存在もブッククラブにとっては大変ありがたく、貴重なのだ、と気づけたことは面白かったです。 また、ブッククラブの終了後に、参加者の一人から以下のコメントがありました: 「このようにきちんとした読書会は初めてです。 2冊を読むこと、その選択等も工夫され、参加される方のバリエーションも広く、素晴らしいと思いました。 あと、その場で言い忘れた(すぐ思い出して言えば良かったと後悔した)ことなのですが、「エルサレムの秋」が書かれたのは、1970年だということでした。 この時期は、第3次中東戦争の直後です。 この戦争は、イスラエルの歴史的完勝ですが、実態は国連が定めたアラブ地帯を不法占拠したのです。 この占拠は、今も継続しています。 また、占拠地には東エルサレムも入っています。 イスラエルは完勝に浮かれていた時期ですが、それに批判的な眼を持って、あのように力ないストーリーが書かれたように思えます。 精いっぱいの抵抗だったのではないかと思えます。 」 …… 2冊の本を比較しながら読むことができたことで、テクスト同士の予想できない出会いを生み、ブッククラブではそれが面白い効果を生んでいました。あえて共通点を探すとすれば、「学者・研究者」が主人公の「宗教」を背景にした物語というところでしょうか(Fさん)。 参加してくださったみなさんのおかげで、当日は時に深く、時に楽しく、時間をかけて話を膨らませることができたのではないかな、と感じました。今回とてもよかったと個人的に感じたことはこんなことです。 ・一人ひとりがお互いの話にしっかりと耳を傾けていたこと。話を遮ったり、一人の人がしゃべり過ぎるようなことがなかったこと。(当たり前のように思われるかもしれませんが、これが結構難しいし、信頼の醸成という点で本質的なことだと思います) ・年齢層の多様さ。普段出会うことのない方々に会い、お互いの感じたことを交換できたこと。 ・知識を補いあいながら、話を深めていくことができたこと。 そして何より、 ・様々な人と同じ本を読み、会話をする楽しさを感じられたこと。 今回のブッククラブでは、年齢的な多様さに恵まれましたが、言語的な多様さがあっても、また別の意味で興味ふかいお話ができるのではないか、と思いました。 次回のブッククラブは、 ◆2月4日(日)の16時30分から 開催予定です。 今回も2人の方に選書をお願いしています。続報をお待ちください。 じっくりお話しをするには10名ほどがちょうど良い人数なのかな、とも感じましたが、新規メンバーも大歓迎です。試しに参加してみるだけでも、ぜひお気軽にご参加ください。 (工藤杳)

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