Category Archives: reflection

[:ja]とても難しい問題が多く一度に考えると支離滅裂になってしまいますのでエマさんの提案に沿って答えてみます。 ① 一人ひとりの話を聴く機会 自分の経験・当事者性・問題意識を共有する他、 個人的な背景や人生の出来事について話さなくても自分が大事にしたいこと、主に取り組んでいることでも紹介できればと思っています。できるだけいろいろな声を聞く機会があればうれしいです。 >>一人一人の話は聞いてみたいです。でも自分のことを話すのは少し苦手です。 ② kosatenで気になった発言があった時どうすればよかったかを話し合う いくつかの事例をピックアップして、テストの形ではなく、どのように反応したかったかをそれぞれに聞き合う → ロールプレイでもいい >>素朴な疑問があるのは仕方のないことです。誰でも育った環境や経験が違いますので。でもそのことの持つ意味を知ること、背景を知ることは必要である、と思うので私たちはこれからも学び続ける必要があると思っています。気になる発言を聞いたらその時にさりげなくそのことを伝える勇気を持ちたいと思います。 ③kosatenで何がしたいか?何のために関わっているか? 様々な背景を持った方と交流することによって人間や社会に対する理解が広がり、深まっていくのでこれからも関わり続けたいと思っています。ただ私はkosatenの運営やイベントに直接関わることは難しいので出来る範囲で参加したいと思っています。 ④(kosatenの想い)をすべて理解し体の中にしみこませるには時間がかかることだと思います。この理念を印刷してkosatenの中のどこかに張り出したらいかがでしょうか?常に目に触れることで意識されるので頭の中に残っていくと思います。勉強会も必要だと思います。 ⑤2か月リモートでやってきました。リモートの良さは自宅にいながら参加できることです。でもkosatenという同じ空間で一緒に過ごす楽しさもあります。これからは両立でやっていってほしいです。 ⑥具体的には特に様々な背景を持った外国の方々の交流の場作りに参加したいと思います。現在、にほんごを一緒に勉強していますがこれからも続けたいと思います。パントリーにも関わっていきたいです。[:]

[:ja]Reinventing Conflict in Everyday Life By Jong Pairez 12 September 2020 —   I have not been actively participating in the activities of Kosaten since the past two years. It is because my day job as a service worker has completely taken over my time. The precarious work in the IT industry demands so much energy and time. This is perhaps the reason why I am a bit detached with the development of Kosaten recently.   Kosaten is a cross-platform community space and safe space for different minorities in Tokyo. It started as a women-run art project but eventually evolved into a long-term project that aims to bring together different people from all walks of life. From the website, Kosaten is described as a place of meaningful conflict and a public crossing for everyone. As a practicing artist who is critical of a stereotypical art world, Kosaten was a perfect…

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[:ja]今回、立ち止まって反省と学びの場をもつことを、長い間求めていたと思います。自分の違和感や疑問をどのように周りの人に伝えるのかを保留にしたまま、長い時間を過ごしてしまったからです。2ヶ月間イベントを全て休むことになって、自分の気持ちと向き合う時間もできました。自分が活動に積極的に関わることに負担を感じていたところ、コロナ渦で全体の活動も変化することになりました。その間にも、関わっている人たちにさまざまな負担がかかってしまったことを反省しています。せっかく話し合いの場が設けられたのに、その場に参加することができないジレンマがありました。他にも予期せぬ出来事もあり、さまざまな場面で私ではない誰かに大変なケア労働が発生しました。これまでにも意見の衝突や違和感の共有で、辛い思いをしたこともあるし、傷ついた人がいました。そのことを省みる必要性を感じています。でも、このことを誰かに話したいという気持ちになかなかなれずにいました。それを話したら、また誰かが傷つき、怒り、誰かがそのケアをしなくてはいけない、言葉を発することが億劫で、かといってそれも無責任なことのように感じていました。書きたい気持ちはあったけれど、どうしても書くことができませんでした。ひどく怒っているのか、悲しんでいるのか、絶望しているのか、その全部なのか、わからない。でも、何が問題なのか、自分自身に真摯に問うていき、学んでいきたいと思います。 ——————————————————————————————————————   時間をかけて、多少びくびくしながら文章を書いて、後で後悔することも容易に想像ができるけれども、書くことをやめるわけにはいかなかった。   強く抗議したり、抵抗せず、NOとはっきり言わないこと。 強いられた痛みに対して、どのように応答するか。どう責任をとればいいのだろうか。 深い痛みと失望が私を襲った。 自分が時にはなぜここにいるのかわからなかった。 怒りにのみこまれて、何がなんだかわからくなってしまった。 どうしても言えない、表現できない。 痛みが痛みをさらに呼び出して、どこにも逃げ場がない。 自分や誰かを責めたり、何かに怯えたり、焦ったりせずに向き合う姿勢をもちたい。 真摯に批判を受け入れ、自分の言葉を紡いでいくことは難しいけれども、そうすることでしか私は自分を受け入れることができないと思う。 でも自分を支配しそうなほどの圧倒的な怒りが、おそろしく、傲慢なようで、かなしい。   信頼は一方的に築かれるものではない。 相手の立場を想像することなく、身勝手なふるまいによって人を傷つけた自分自身の経験。 問題を自分の想定範囲のなかでだけ受け入れて、それ以外はなかったことにしてしまった時。 他者にとっての「興味深い」エピソードとして、マイノリティの経験が消費された時。   痛みと向き合うことからでしかはじまらない、対話があると思う。 あの時、なぜそう言ったのか? なぜ、あのようにふるまったのか? 自分が責められないため? 問題をうやむやにするため? 私は、何をした? 過去を乗り越えるという言い方はあまりしない。 乗り越えられないけれど、ずっとその痛みを忘れないことが、今を生きるための私の責任だ。 ひどく苦しみ、憎み、怒りを覚えるその瞬間に、自分自身とも、深く向き合っていけるようになりたい。   ゆっくりと対話する時間・考える時間に余裕がなかったこと。 自分のできなさを心苦しく思った。 少人数での意思決定、ケアと労働……… 負担を当然視して、我慢することに慣れてしまうこと。 誰かに任せる、押し付けること。 責任とは、平等とは、どういうことだろうという、漠然とした問い。 お金のやりとりをなるべく避けて関係性を作っていくことへの希望と、矛盾を、おもった。 負担を「同じ」にするのではなく、各々の関わり方を尊重することが平等だと感じていた。 みんなそれぞれとまとめるのは簡単だが、主語を大きくしたら何が言いたいのかわからない。 個々に存在している問題を普遍化して、結局みんな大変だし、仲良くやっていけばいいじゃない…と無造作に言ってしまったらかなしい。 それにしても、お互いを尊重できる、理解しているとは、どうやって「わかる」のだろうか。   「…それってそんなに重要なの?」 「真面目に考えすぎ」 「頑張っていて偉いですね」 …………これまでの学びと経験を活かすことができなかった。 私は自分の頑張りを誰かに認めてもらいたいのだろうか。 自分に酔っているのだろうか。 「かわいそうな自分」ごととして、「偉い自分」として、何かをアピールしているのか。     加害と被害の二項対立で何事も普遍化できないとわかっているけれど、はっきりしているのは、自分の被害を訴えることと、自分の加害を認めることと、どちらにも痛みが伴うということ。たとえば後者の痛みと、私自身はどう向き合えば良いのだろうか。自分の過ちを見つめて、そこから成長していける場所を、求めている。自分が直に受ける「抑圧」には敏感だけれども、自分が意識せずにいられる別の「暴力」には、無頓着で、あまりにも無関心に日々過ごしているから。どうやってそういう場所を作ったらいいのか、わからない。辛くても、自分の当事者性と他者のそれを天秤に掛けるのではなく、相手の立場も想像して一歩引いてみることができるだろうか?自分の失敗や過失も認めた上で、どういう構造で差別が起きるのかを時間をかけて向き合っていき、次に活かすことができるのかどうか?     私が怒りを表明しようとした途端、それを許すまいとするもう一人の自分の声が聞こえる。 私のこの怒りは「不適切」で、自ら謝罪すれば、静寂を手に入れることができるのだ。 ああ、もう何も言いたくない。 ある種のミソジニーとエイジズムではないかとも考えた。 そういう環境に一方では自分も甘えているのかもしれない。 怒れなかった自分に絶望した。 怒りが微塵も伝わっていないこと。 そもそも、怒りが伝えられないこと。   自分が信念をもって、真摯に何かに取り組めているという自負は? もっと頑張らないといけないんじゃない? バーンアウトではなくて、怠けてるだけじゃない? 「頑張る」という言葉は好きではないのに、頑張るって言うのは矛盾だな。 本当に辛いことは、しばしば言葉にできないと思う。 だから「頑張らなきゃ」とか「大丈夫」とか言うんだと思う。 自分なりの問い方、議論の場のあり方、暴力を再生産させないための、安心安全の場のつくりかた。 考え続けていくこと、学び続けていくこと。 まだまだ、掘り下げて、内省する時間も必要だ。 やり方はいろいろあると思う。複数のやり方を探す。 誠実さは言葉や態度によっても示されるものだと思うけれど。 誰にも何も話したくなかった、長いあいだ言えなかったこと。 なんとなくごまかしたこと。 抑圧されたもの、対象化されたもの、揶揄されたもの、矮小化されたもの。 そのひとつひとつ。 さまざまなことを放り投げて、自分の身勝手な憶測と妄想の中に落ちてしまっていないか。 私は今まで何のために何を「頑張ってきた」? そもそも何を?ってもう一度、問うてみよう。 m.  [:]

[:ja]7、8月、勉強会という名の話し合いを重ねる間にも、問題として指摘された「目の前で起きている抑圧に対処できない」ことが何回か起きました。 あなたの公差転には、様々な人が自由に出入りできるため、偏見や決めつけ、善意の差別、エイジズム・ルッキズム・セクシズム・レイシズム、性別二元論、異性愛主義、性別役割分業、家父長制や世間の主流の価値基準も持ち込まれます。私たちは、公差転が多様な人たちの居場所であることを願い、しかし誰も排除しないことを望んだため、抑圧した側ではなく、抑圧された側が退出するという矛盾が、今回またも発生しました。 抑圧する側を制止することができなければ、これからも同じことが繰り返し起きます。主催側は、ジェンダー格差や権力差のある双方の意見を同等に考えることはできません。私は主催側として、これから抑圧や暴力や差別を察知したとき、受け入れられない要求をされたとき、率直にやめてほしいと相手に伝え、相手にやめる様子がみられない場合、出て行くように伝えることを選択します。「私はいまこの場の安全が保てないと感じています。後日あなたの話を聴きますので、一旦退出していただけますか」と。 しかし、その場が安全になったとしても、その後、紛糾することには変わりないかもしれません。なぜなら自分の低い立場はよく見えるけど、特権はよく見えないからです。特権とは不都合なくあたりまえにできることです。言いたいことが言える、話を聞いてもらえる、部屋を借りられる、公的支援が受けられるなど。この社会では「男性」「日本人」という立場はとても大きな特権をもっています。 特権を批判されるとこう感じるかもしれません。 「差別(抑圧・ハラスメント)とは知らなかった」 「みんなの前で、突然批判されて驚いた。くやしい、恥ずかしい。悲しい。つらい」 「侮辱されて謝りたくないし学ぶ気にもなれない。みんなの前で批判したことを謝って欲しい」 「自分は特権を感じたことはない。逆に相手の方が特権を持っている」 現在、特権への批判を自分の存在への非難と感じ、自身を被害者と認識した相手との葛藤が続いています。しかしこの構造は、数年前にすでに起きていました。そのとき、考え方や対処の方針を合意していなかったことが、現在の状況に続いていると思います。相手の事情を考えて人権侵害を許容してしまう私たちが呼び込んだものです。ゆえに主催する者は変わらなければなりません。相手を変えることはできませんが、自分が変われば関係性は変えられます。 あなたの公差転は、様々な属性、背景、価値観の違いを持った方たちが、その違いをないことにせず、どのような関係性がつくれるか、試行錯誤しながら互いに学べる場所です。しかしその過程で、自分の価値観や態度が問われたり、意見が批判される場合があります。それは私も同様です。自分の当たり前が揺さぶられる不安を感じたり、自らを問い直すという苦い思いをしたり、居心地悪さを感じるかもしれません。 これまで公差転では、異なる価値観がぶつかったとき、それらを個別に話し合っても、みんなで聴き合う機会はほぼありませんでした。言いっぱなしになったり、別の話にたくさんの時間をとられたりで、互いの思いや考えを深く知り合うことができませんでした。これから「警察と収監」で起きたことについて、言葉として表れていない声も含めて、いろんな視点を深く聴き合う状況が必要ですが、8月末に勉強会を終えた後、その機会をつくることはまだできていません。 勉強会のあいだ、わたしは暴言を浴びたり、恐れたり、泣いたり、はらわた煮えくり返ったり、自分を振り返って苦々しい思いをかみしめながらも公差転にとどまり、お金を出し、労働をし、アサーティブに努めていて、我ながらアホかと思います。でもその泥沼のような対立と対話の先に、異なる属性をもちながら、互いの存在を尊重して意見を聴きあえる新たな関係性を作れる可能性があると考えています。しかし試行錯誤を経たうえでそれが叶わなかった場合は、私はしかるべき決断を下すつもりです。 あなたの公-差-転としてどうするかのステイトメントを作るには、まだ時間がかかりそうです。もうしばらくお待ちいただけるとありがたいです。 佐野[:]

[:ja]居場所というのは、社会の大河の流れに棹を差す小船のようなものである。 流れ着く人が体を乾かし、また泳ぎ去っていく。 そのうちの幾人かが、船の乗り組み員を買って出る。 そうして、船は流れに反してその場にとどまったり、時には航行してほうぼうを回ったりする。 感傷的なたとえはこのくらいにして、今回は実務面からこの「船」を見てみよう。 「船」の運営にはスタッフ(乗り組み員)が必要だ。船長はいる場合もいない場合もある。船長がいない場合は合議制だろう。しかし船頭多くして船山に登るということわざもあるとおり、多すぎるのはよくない。かといって少なすぎるのも過重負担になるので、バランスが難しい。いずれにしても、乗り組み員全員が納得して運営の方向性を決めていくことが望ましい。 乗り組み員としてどのような人を迎え入れるのかは悩ましい問題だ。 乗り組み員を希望する人はひとりひとりスキルとエネルギー(情熱)を持っている。持っていない人を乗り組み員として受け入れてはいけない。このエネルギーをどういう方向にもっていくかで、社会を動かす運動にもなるし、内紛や場合によっては分裂の危機をもたらすこともある。乗り組み員と信頼関係を築き、そのエネルギーの方向性を見極めて、うまく活かすことができるかが、船の発展を決める。 また人によっては最初から他人を傷つけるのが目的だったり、船を乗っ取ることが目的だったりして、そうした目的を隠して入ってこようとすることもある。そうした背後の目的がわかったときに、その人をどう処遇するかも決めておかなければならない。 乗り組み員として受け入れることを決めたら、船の意思決定に参加してもらい、一人の仲間として対等に接し、そうして任せられるところから任せていくこと。そのうちに乗り組み員としての自覚が生まれ、主体的に参画していくようになる。 さらに、乗り組み員はいつまでも船にとどまるわけではない。当初の目的が達成されたり、本人と船の方向性が違っていたり、環境の変化だったり、仲たがいだったり、あるいは不幸な事故だったり、さまざまな理由で船から離れていく。そのときに理由をつけて先延ばしにしたり、じゃけんにしたりすると感情的なしこりが残り、あとあとまで尾を引くこともあるので、「来るものは拒まず去る者は追わず」といった境地でいることが大事である。 「船」の大きさが小さい場合、一人でもトラブルの種をかかえこんでいると容易に崩壊する危険性がある。[:]

[:ja]勉強会となってからは、あまり参加が出来ていません。オンラインとなっているので まだなれていないのが理由です。 kosatenで起きている問題、いろいろな意見もでてくるので、そういう考えもあるのかと考えさせられることが多い。問題提起されてはじめて気づくことも多い。 暴力構造について気付いたこと、知識が多いほど良いという社会だと思いますから、言葉をしゃべるほど力が増強するかもしれませんね。 これからやりたいこと言葉にたよらない意思疎通。[:]

[:ja] 無自覚な言動 文責:黒岩堅 今回学んだことをまとめてみました。 その人にとっては常識であること、その常識は他人を傷つける可能性があるということ そして相手を傷つけたということにはその人は気が付かないということ。 その人の中では傷ついた相手がおかしいんだと信じていること。 私はどうなのだろう?!言動はどうなのか?その人と同じことを他の人にしていないか? 無自覚な言動、常識は差別を生む。 この2か月で差別の温床となっている構図を学んだと思いました。自分自身の差別の温床と向き合っていきたいとおもいました。 [:]

[:ja]公差転について考えたこと 野田光太郎 自分は「アートと社会的な意識の関係」というテーマから公差転に興味を持ったので、表現の自由と責任のあり方については気になっています。最初に公差転の存在を知ったのが、とあるイベントのウェブサイトだったので、そのイベントの周辺で起きたトラブル(セクハラ発言とそれへの責任追及、および仲裁しようとした人への排除行動)を解説したブログを読んで、そういえばそんな話を耳にしたことがあったなぁと思い出しました。何にせよ、こういうことはどこでも起こりうるな、と感じました。 以前、誰かから「公差転でのコミュニケーションが表面的なものにとどまっていて、本音をぶつけ合う場になっていない気がする。本気で問題を解決しようとしているのか、疑問がある」という指摘があったと思いますが、私もそのことは薄々感じていました。しかし、このスペースが他者への配慮を優先事項として掲げている以上、不用意に「本音をぶつけ合う」=「思ったことをそのまま表現する」ことは許されないだろうし、それをすれば厄介な対立を生じるだろう、と考えていました。 公差転のような社会的弱者(この呼び方が適切なものかわかりませんが)に配慮した場所では、日本国籍保有者、男性、「健常」者、就労者など、社会的により優位な立場にある人間は、発言に気を付けた方が良いと考えていました。もっとも、私自身は自己が社会的に優位な立場にいるなどとは考えておらず、むしろきわめて低い地位にあるのですが、こういうことはあくまで相対的な比較の問題ですので、やはり自分はこの場では控えめにしているのがいいだろうと判断していました。そもそも私の本来の動機は、公差転の掲げているような理念や方法論を知りたいということにあるので、自分が自己表現したり意見表明することには積極的ではありませんでした。あえてお互いの考えを問いたださなくても、同じ空間に座っているだけでも何かしらの相互理解にはなるだろう、という消極的な態度を取ることが多かったです。ただ、イベントの質疑応答に参加したり、オープンマイクの出演者に触発される中で、もう少し自己主張しても良いのではないか、という気持ちが出てきたことも確かです。そうしないとイベントの趣旨に貢献できないし、自分自身の学びとしても中途半端だなと感じていました。 公差転マガジンに創作風の文章が載るようになったことは、ちょっと注目していたので、それが今回の事態をもたらしたことは残念です。特に「監督失格」(林由美香の映画)の紹介など強い印象を受けました。たしかに、公差転のカラーからすると場違いな言葉づかいや内容が目だちましたが、いわゆるマジョリティの、マスのサブカルチャーにはありがちな表現なので、そういうものが内面から出てくるパーソナリティとどう向き合っていくか、という問題提起にはなるかもしれないと感じていました。個人的にはけっこう書き手の孤独感や鬱屈に共感して読んでいる部分もありましたね。 創作など自己表現としての文章は、どれだけ自己を率直に出せるかという辺りに真剣さが問われるので、それを抑えて読者への配慮をどこまでするべきか、というのはなかなか難しいところがあります。私もよその発行物へ寄稿した時に、原稿を根本的な部分に及んでいろいろと修整させられたことがあり、こういうことは編集者の権限と責任が明確にされた上で、書き手との信頼関係ができていないと、なかなか納得できることではないなあ、と感じたことがあります。 私は他人を支援しなくてはならないとか、嫌な気分にさせてはならないという、配慮を前もってめぐらせておくことが苦手です。そういう責任感が希薄であり、そういうことは「自分がそうしたいからそうする」ものだと考えているので、行動はその時の気分に左右されます(あるいは「依頼されたからやる」という受動的な態度)。また、私は自分の思考や発言に対して、他人から制限をくわえられるというのは好きではないのです。それは、今までの人生で自分が散々そういう目に遭ってきて、かなり理不尽な抑圧を受けていたという感情があるので、常にそういう制限からの自由・解放を求めているところがあります。他人からジャッジをされるという体験は多いのですが、それをそのまま受け入れるということはまずありません。私にとって「自分が自分であること」を守ることはきわめて重要で、人間性なり認識を根本的に変えるということは深い納得がないと起こりえません。その「認識を変える深い納得」に出会いたくていろいろな場所に出かけていく、ということもあるのですが。 コミュニケーションというのは根本的には自我と自我のぶつかり合いだと思っていて、必ずしも平和的に進行するものではないと考えています。その衝撃をどのように、どれぐらい和らげるか、という「さじ加減」の問題であって、不安や憤りを全面的に回避することは難しいと考えています。そういう意味で自分自身の安全・安心(安全と安心はどう違うのか?)は「自衛」によってしか守れないし、他人によって守ってもらうことは期待できないと思っています。 とはいえ、こういった認識は自分の頭で考えたものでしかなく、実際にそういった態度や考え方が実践された時に、どういう現象が起こるか、ということは理解していないのです。そういう意味で今回のメーリングリストでのやりとり、そしてZOOMを使ったミーティングは、私にとっては公差転におけるかつてないほど「ホットな」コミュニケーションの体験だったといえます。残念なのは新型コロナウイルスの影響で生身の対面した対話ができないことで、そのことが非常にぎこちなく、信頼感の築きづらい状況が生じていると思いますが、逆に対面でないことから率直な発言がしやすくなった人もいるかもしれません。 今回のZOOMミーティングは、自分の人生経験の乏しさから、他人の心理状態を推察することがまったくできない、ということが判明しました。「想像力を働かせる」といっても、しょせん自分の経験以外に参考できるものは、フィクションやドキュメンタリーといったメディアを介した疑似体験しかないし、そういったメディアにしても、自己の偏った好みで選んだ作品にしか触れていないので、大して役に立たないわけです。私は今まで友人知人を含めて他人と本音で話し合ったことがどれくらいあったかなあ、と反省せざるを得ません。 まず、言葉という道具をうまく使いこなさないと、自分の思いを正確に伝えることができない。それが非常に難しい。こういうことは実際の人間関係で失敗を重ねながら学ぶしかない気がしますが、自分にはそういう体験が決定的に欠けているな、と感じます。むしろ、そういう難しい局面を回避するために他人との深い関係を避けて生きてきたので、他人のことがわからない、またそのことがまたハンディや恐れとなって、対人関係が表面的なところに留まってしまう、という繰り返しが、今までの自分の人格を形成してきたと言えるでしょう。 そのように気持ちに余裕がないので、他者への配慮を十分にめぐらせることができない。しかし公差転ではリラックスした空間が「用意されている」ので、いつもの自分より一歩踏み出して、今までより幅広い交流をできた気がします。そこのルールというか、disciplineに従う、というようなことではなくて、その場所が心地よいからそこの考え方を尊重しようということです。 むろん、「ゲスト」である(という意識でそこにいる)私にとって居心地の良い公差転の空間は、誰かの(「メンバー」なり「協力者」の)努力なり献身、あるいは我慢や忍耐、「犠牲」の上に成り立っていることは感じていたわけですが、そういう「貢献」の姿を見ることで、こちらもそれをほんのわずかずつですが「見習う」という面もあったと思います。具体的には、新しく入ってきた人にお茶を入れてあげるとか、声かけとか、そんな程度のことですが。一方で「運営」の本質にかかわることには関与しない、口を挟まないというのは、「ゲスト」としての「分をわきまえた」態度、あるいは「面倒なことには関わらない」という責任回避の行動であります。このような「つまみ食い」的な態度は、公差転のコンセプトとは違うものでしょうが、自分としてはそこをコミュニティではなく、社交場としてとらえてきた(そこがコミュニティであるなら、自分はその外にいる存在であると考える)ということです。 こういう態度ゆえに、私は公差転の抱えている問題点については気が付かないか、深く考えないようにしてきたと言えます。その点では、7/11の勉強会の記録で指摘されたような、「他の場所で自己を抑圧された男性が、己の見たされないマッチョな自我の発散欲求を満たすために公差転にやってきて、女性はそのケアをさせられる」(正確な引用ではないがそのようなこと)という状況を見過ごしてきたし、私自らも多少そういう風潮に便乗して、助長しているような面もある気がします。自分自身ではそこまで「困ったちゃん」な行動は自制できているつもりですが、他人から見たらどうかわからないですから。少なくともそういう構造に気づかないでいた(自分は負担を感じてないから)とか、うすうす感じていても見て見ぬふりをしてきた(それは「メンバー」が考えるべきことだから‥)ことは確かです。 今回、公差転という貴重なスペースの活動が中断してしまった、あるいは問題を解消しないと存続が危うい、という状況が現れて、それは困るし、もったいないと思ってミーティングに参加してみたのですが、では自分にとって公差転がどういう存在であり、なぜ必要か、ということは明確につかめていません。その目指していることが何なのか、おおまかな趣旨は賛成なのですが(「kosatenの想い」は改めて読み返してもすばらしい内容だと思います。あまりにもすばらしいのでユートピア的に感じるところもあります)、問題のとらえ方とか言葉の使い方で違いがあるように感じます。 たとえば、公差転の抱えている問題を表す言葉として、暴力構造とか植民地主義、帝国主義とか家父長制という用語が使われていますが、それによって目の前にある問題の実際的なところが明確に見えてくるという感覚がありません。何か抽象的で巨大な命題に飲み込まれてしまったようで、「非常に悪い状態だ」という以上のことが今ひとつピンと来ないのです。組織とか集団の問題を考える場合に、私は「抑圧」「不公平」「依存」「搾取」「同調圧力」「権威主義」「従属」というような言葉で考えることが多いです。たしかにエドワード・サイードが「ポスト・コロニアル」という言葉を使った本を読んだ時に、植民地主義や暴力という概念を経済構造や国家(軍事・警察力)だけでなく、文化・表象や個人の精神構造の問題にまで拡張したと感じましたが、それは慎重な手続きで論証され、定義されたものだったように記憶しています(まったくおぼろげな記憶ですが)。 他人の陥っている偏狭な古い価値観を指摘するにしても、「何々主義」(○○ism)という言葉を使うことに、私は慎重です。当人が何らかのismを自ら信奉しているのならば別ですが。たとえば権威主義というような批判はかなり強硬で断定的な言い方で、よほどのことがないと私は使わないです。その言葉が事態をうまく言い表している時で、しかもそういう言い方をするのが必要な場合・・。 どうも、考えが抽象的になってしまってまとまらないのですが、公差転が「代表者」を持たない構造を目指しているにしろ、現状では誰かが方針を示し、みんなをある方向へうながし、そのことでその人格が権威を帯びるとともにその結果の責任を引き受ける、というプロセスは必要ではないかなという気はしています。リーダーが常に独裁的な存在だということもないでしょうし。ただ、それが特定の個人だけに負わされるのはおかしいし、危険というか、あまり面白くないことで、段階的に複数の人間がそういう役割を分担して担っていく、そうしてその権限と役目の負担を徐々に信頼できる諸個人全員に委譲していく、ということは考えられないかなと思います。 リーダーなり責任者でもファシリテーターでも何でもいいのですが、その場に応じた委任によって一時的にトラブルに対応する‥積極的な言い方をすれば他人と全体に配慮してケアするというか場を整える‥係を指名して、その役割を固定化せずに、また他の人々が受動性に眠ってしまわないようにする工夫はあるのではないか?と思います。前にもこんなことを話したおぼえがあるので、思考の堂々巡りもあるようですが。[:]

[:ja]沈黙と暴力   kosatenの暴力構造について話し合うつもりでしたが、その構造によってそのことができませんでした。 差別的な発言、偏見、マイクロアグレッションはどこでも起こるのですが、起こった時周りの対応がとても重要です。Kosatenではその対応が十分できていないのです。 目の前でハラスメントなどが起こっているのにそれも止めることができない。黙ってしまう文化をどうやって壊せるのでしょう。何でここまで暴力を許してしまったか? 何でここまで暴力を越してしまったか?   Kosatenって? 私は5年間以上、kosatenの運営と関わってきました。最初の頃は少人数で、近所の方、遠くからいらっしゃった方、さまざまな年齢、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍、アビリティ(障碍)のある方が立ち上げて、コミュニティの中で表現と対話を重視するパブリックスペースとしてそれぞれの「違い」を共有し、社会的な変化につながるような場所を作ろうとしました。個人の望みとして、この場所ではそれぞれ関わる人が自分の主体性を活かして、中心がない、オープンで、有機的に展開するチームとして一緒にこのスペースを作っていくことを目指しました。社会においてさまざまな抑圧を受けている人たちがこの空間で自分の居場所を見出して、連帯する可能性を掘り探ることを願いました。   パブリックとコミュニティ Kosatenが始まる前でも長い間「パブリック」と「コミュニティ」の意味についてよく考えてきました。人間関係の中でよく安全な距離を取る者として、複数の人と共に存在する空間は怖くて、興味深いです。長くパブリックスペースを政治的な主体性として捉えて、コミュニティが共存のことと思いました。(権力によって支配されているスペースと塀に囲まれている生活でないです)パブリックは活性化するスペースであり、アクションを起こして独創力を活かす場所で、様々なアイディアや違いが衝突するところです。コミュニティは日々の暮らしで取り組む人間関係のネットワークであり、理想としてはサポートになる繋がり、近接や共通点によって生まれるものです。 パブリックとコミュニティは社会の基盤となり、理想化もされ、集団への楽観主義もある一方、矛盾でもあり、不可能なところもあり、非常にリアルな危険性もあります。パブリックはただのパフォーマンスになり、コミュニティはサインしたくない、押し付けられた社会契約になる可能性もあります。どんな人間の集まりでも権力の政治が生じ、全体主義とその他の暴力の恐れもあります。残念ながらkosatenではこの後者のほうがもう頭をもたげてきました。 都市開発や行政による「パブリックスペース」は誰に対してもオープンな場であるはずなのですが、ルールに沿って、制限の中でしかアクセスできなくて、自分の主体性やパブリックを生み出す想像力を縮小することにつながることもあるし、条件によって完全アクセスできない人もいて、そのこと自体が暴力になります。個人と集団の主体性を活かすためにある制約・権力に対して抵抗することが必要です。権力・暴力に対する抵抗自体が自律(オートノミー)への折衝であり、パブリックの本格的な姿と言えるでしょう。あるルールや規制を問いかけることで自分自身の立場を見出して、表現することも可能になるのでしょう。 それにつれてパブリック性は見られること・可視性でもあります。最近の世の中の出来事が強調するように、人によってパブリックスペースにいるだけでその人自身が非常に不安全な状況に置かれています。「パブリックセーフティ」の名前で暴力が常にお越されて、特権のある人のセーフティが優先され、「不都合の存在」への暴力が当たり前化され、結局パブリックは暴力への鈍感化・無関心・忍耐になってしまいます。   パブリック「公」は実際にkosatenの名前に反映されています。Kosatenの根本的なあり方の重要な軸となっています。誰でも自主的に作りあげられるスペースで、ヒエラルキーを壊すオートノミー、日々の生活に溢れる抑圧に対する抵抗、マジョリティーがない、ただ複数性のある、さまざまな異なる存在のあるスペースを目指しています。フェミニズムの原理を重視して、さまざまな差別と抑圧と闘うこと、暴力への抵抗自体がパブリックであることという想いもありました。提供された公園のように何ができるか何ができないかを指示するルールの長いリストもありません。私はルールが大嫌いです。ルールは曲げて、破るものと信じています。ただし、お互いのリスペクトと理解のために、それぞれの違いへの意識や配慮する環境も作ろうとしていて、「お互いを尊重するために」の宣言も作りました。ただ、この宣言があっても数えられないほどkosatenでお互いの尊重を捨ててしまうことが起こってきました。   表現の自由と民主主義 パブリックは民主主義の用語でもあります。ザ・パブリック(公衆)は市民であり、ある自治体、ある国にいる人であり、市民権、選挙権にもつながります。パブリックスペースは「ザ・パブリック」に宿われている空間であり、公衆の意見が可視化される場所であり、政治のディスコースが行う拠点でもあり、「選択肢」が勝つ場でもあります。 ただ、民主主義はすべての人に公民権を与えるわけではない。声がない人が置かれてしまい、一番大声しか聞こえない状況もあります。必ず排除されてしまう人が出てしまいます。よく「民主主義のために」根本的に反民主主義的な行動が起こされています。デモクラシーの原理の一つとして誰でも自分の意見が言える、自由に自分の考え方を表現する、どんな思想でも正当性があり、言語化される「権利」があるという立場があると思います。 しかし、「表現の自由」(また消費する自由)はよく何もより優先され、自由とデモクラシーのすべて象徴するものとして取れあげられています。人権、正義、尊厳、事実、参加度などなど他の側面あるのに。この自由がすべてであれば人を傷つける意見、他人の存在自体を否定する立場、他人の基本的な権利を奪う考え、他人のジェンダー、セクシュアリティ、人種、国籍、障碍に関して決め付ける発言を自由に発声してもいいというスタンスになるのでしょう。そんな自由と民主主義を求めているでしょうか??   脱中心化 権力によって提供されて、支配されたパブリックスペースに対して深い不信感があります。この社会において「平等」はただの夢だと思いますが、ヒエラルキーを解体し、同じレベルでお互いに向き合い、脱中心化することがある目的になります。リーダーがいなくても方向性が生み出せることを信じていたのですが、不透明性、コミュニケーションの問題、パワーの蓄積、また「お任せ」の精神の結果として少ない人数が「権力」となり、kosatenの政治は二心になっています。 パブリックは不特定な開放性で定義できない、コントロールできない存在が「同じ空間に共存する」「同じスペースへのアクセスがある」。次の瞬間誰がドアから入るか、誰がとなりにいるかがわかりません。恐怖と容疑ではなく、好意と信用が必要ですが、自分の人権が面白く議論されている場合その好意は無理でしょう。誰かがストップをかけないとどんどんその痛みが深刻になり、もう自分の居場所がなくなってしまいます。     そのままでいい? 閉鎖的な空間である自助会では言いっぱなし、聞きっぱなしのルールもよくあります。このルールによってそれぞれ参加者の経験を受け止めて、今まで普段なかなか表現できないことを安全に表現できる環境が整えます。この場合批判や議論はウェルカムではないのです。しかし、自助会ではなく、複数のアイデンティティや背景を持つ人が集まるスペースで同じ規制を当てはまると攪乱した結果があります。何でもありということです。愛国主義的な発言、反移民的な意見を表明してもいいわけです。それを聞きっぱなしできるかしら? お互いを寛容する場もほしいです。日常の社会における圧力をよくわかるからです。外国のルーツのある人、LGBTQのアイデンティティを持つ人、障碍のある方が直面してきた抑圧はある程度直接に経験したこともあり、よく想像できます。自分のありのままでいられる場所、自分の存在はジャッジされない場、ステレオタイプが押し付けられない空間、他の人の満足感のためにラベルを張らなくてもいいスペースを探してきました。その場所はBE存在する・いられる場所です。自分らしくいられるBE myselfできる場所です。 しかし、自分ありのままいながら、BEINGしながら、BEING Together 他人と共にいることがあり、自分の言葉・行動によって周りの人に影響を与えます。幸せな無知への無制限の許可があるわけではありません。誰かに傷をつける時にコールアウトされることの免除がありません。自分の言動が批判の対象にならないという保証がないのです。 何か批判があってもそれは自分のBEING存在するに対する批判ではなく、その存在から発生する表現(他の人のBEINGに強く当たってしまう表現)が対象となります。ケアとリスペクトを込めて批判することがもちろん理想的なのですが、あなたの発言で直接に影響されている方、話題の対象であり、あなたより強い繋がりのある方がいる時、そのなりの痛みがあり、威厳を込めて立ち上げようとする時、感情も強くて、いつも丁寧に礼儀に正しい声で話せることが難しいのです。このような状況の中のトーンポリシングはただ自分の特権を主張することです。   特権 私たちの特権によってお互いの弱さが見えなくなってしまいました。特権を意識することが非常に難しいのです。なぜなら、特権は生活の中で考えなくても進むこと、意識しなくてもいいことです。自分の特権を失う可能性がある時に直覚的に特権を守ろうとしてしまうことで特権の存在が少しでも見えてきます。人種、国籍、言語、ジェンダー、セクシュアリティ、健常者性、階級、経済、教育、在留資格の特権によってその特権のない人が直面する抑圧が感じられないのです。(またもちろん特権と抑圧は同じ人の中で様々な層で重なっているので抑圧されているところしか見えないこともあります) 特にkosatenでは白人至上主義、ジェンダー、健常者主義につながる特権が問題になっていると思います。私自身はヨーロッパにある英語圏の国(植民地主義の長い暴力的な歴史のある国)出身の白人で、日本では安定な在留資格もあり、日本語学習や大学の教育へのアクセスがあり、しようと思ったらシスジェンダー、健常者としてパスできる者として黒人の方、有色の方(people of colour)、G8国ではない国出身の方、第一言語は英語でも日本語でもない方、アクセスしたい教育へのアクセスがない方、シスジェンダーとしてパスできない人・したくない人、見える障碍のある方の経験に対してとても無知のことが多いです。一方移民であり、日本語が流暢ではない、ぎりぎり生活できているもの、メンタルヘルスの問題を抱えているもの、クィアである人としてその事情ではない人の特権がよく見えます。 でも圧倒的に特権が強くて、白人で英語・日本語しか話せない、植民地主義的な目から見る世界で見えるものは非常に狭い視野というかすでに暴力のレンズを通してみていることです。そしてこのような観点がkosatenのようなパブリックな場所で中心となってしまうとそれは権力となり、他人を抑圧してしまうものになります。   権利 特権と権利との大きい違いがあるのですが、よく同一視されています。自分の特権を捨てることは権利を捨ていることと同じことではないのです。いつ黙って他の人を聴くかを理解すること。他人の声が聴聞を受ける権利を尊重すること。社会に生じる様々な抑圧から逃げる・取り組むスペースとして自然に「セーフスペース」を求めることもあるかもしれません。つまり広い社会の中で保護されていない権利を守る場所です。見た目でジャッジされない権利、シスジェンダー・異性愛主義、健常者主義の決め付けから解放される権利、非生産的である権利、今安全が感じないと言える権利、その原因を取り組んでもらう権利です。   ミューチュアルエイド・相互扶助 Kosatenをお互いから学び合う、共に生きていく、お互いの尊重、お互いの助け合い、お互いの権利のために声をあげていく、相互扶助の空間として想像したいのです。一方的な教示、枠付けの生活、相手にいつも頭を下げる、支配的に・従順にお手伝い・支援を与えるということではなく、お互いを支え合うことです。自助・自己責任のレトリックがますます普及することですが、落ち込んでしまう穴があまり多くて、本当に必要なところで公的なサポートが全くなくて、セーフティネットがない世の中でお互いのことに希望しか持ちません。残念ながらkosatenでは「相互扶助」の相互の部分は実現できていないのです。よく特定な人が「ケア」してしまい、その直接な恩返し・返礼を求めていなくても、パワーと依存の関係を構築してしまいます。結果として誰かサポートしようとするとそのこと自体も批判されてきました。   ケア 他人の存在、他人の経験、他人の事情に関心を持つこと。何かを問いかけること。違和感を持つこと。一人じゃないという望み。私がいると伝えること。誰かがやりたいことを実現するために手を貸すこと。誰かの痛み・フラストレーションを少しでも減らしたいこと。誰かに役に立つになりたいこと。他の人が気になってくれるのを希望すること。白人の救世主の精神。(自分の人生の中でコントロールがないから)誰かの人生をコントロールすること。自分の影響を与えること。ホスピタリティ(おもてなし)とホスティリティとの紙一重。暖かいウェルカムで迎える笑顔の中で隠れた「ここは私のもの、あなたのものではない」。私のものをあなたとシェアしますのでえらいでしょう。 ケアがないと生きていけない。 ケアばかりしていて、いつ誰かが私をケアしてくれるかという疑問をもつこと。   でもケアは搾取される場合もあります。一方的なケアを提供して、非常におかしい関係をつくってしまったことがあります。見た目で判断されたジェンダーのジェンダーロールもあまりにも飲み込んでしまって、恥をかかされたこともあります。ここはカフェでもないし、お店でもないし、スタッフとお客さんがいる場所ではないはずなのにずっと相手を楽させるために自分が努力していて、しばらくたってから圧倒的多くのシスジェンダーの男性が自分の慰めのためにこのスペースを利用している状況を気付いたらショックになりました。   自分自身の個人の意見が他の誰かの意見と会わない時、また誰かが要求していることを拒否する時に怒りと告発の対象になって、自分が持っている権力を利用している、この空間の中立性を壊していると言われています。頭を下げて、どんな人の意見(自分が反対している意見でも)にこっくりとうなずいて、「丁寧」に誰かの「愛情を込めた関心」からの抜き道を探して、数時間ずっと誰かの問題について話しを聞いてあげて、要求されていることをできるだけ答えるように努力して、料理をつくって、掃除をして、心地良い雰囲気を作って、笑顔したら何でも大丈夫でしょう。   7・8月はイベントを休んで上記の問題について話し合うことにして、週2~3回ほど内部の勉強会を開いてそれぞれの問題意識を共有しようとしましたが、アカウンタビリティのプロセスがなかなか進めなくて、ますます暴力が起こってしまいました。お互いのジェンダーの問題、エイブリズム、権力主義を指摘し合っても、ちゃんと自分の問題に向き合えない状況が続いて、自分の責任を遁れるために相手の欠点を強調してしまうゲームが止まらなかったです。 コミュニケーション方法によって困難を抱える人への配慮が足りなさ、みんなが自分の感情をコントロールができ、論理的に話せるという前提、誰でも批評が受け止められるという思い込み、情報の処理は人によって違うのにそれを理解していないこと、アグレッシブで上からの目線、感情労働をずっともとめてしまうこと、見た目で判断されたジェンダーによってケアや何かサービスの提供を期待してしまうこと、自分の特権を認識しないこと、自分が違っていない・必ず正しいと強く信じていること、自分の意見を押し付けってしまうこと、セクハラの問題あまり意識していないこと、ジェンダーの二分法を押し付けてしまうこと、自分のパワーを利用してしまうこと、自分の都合がよい方向へコントロールしてしまうこと。。。などなど。   誰かがある暴力の存在を指摘したら、そのカウンターとしてその人自身が暴力を起こしていると言い返されることが多くて、告訴の絶えない循環になってしまいます。その循環の中でそもそも最初に問題とされたことに何も取り組まなくなってしまい、注意を向けられなくなってしまいます。   Kosatenで起こっているマイクロアグレッションと自分の取り組みができなさに対してますます違和感が増え、立ち上げるために周りの人のお手伝いをお願いしたら「細かすぎる」「自分の考えを教え付けってしまう」「もっと仲良くすればいいじゃん」と言われました。その結論であればあなたにとって「心地良い場所」があり、何でも言える、何でもできる、すべて寛容する場所で、きれいごとで済ませる空間でみんなニコニコする場所ができるかもしれませんが、私自身は見えないところで怒りで煮えくり返っています。   暴力 暴力は多様な姿を持つですが、マイクロアグレッションから意図的な加害までが含まれています。ミスジェンダーすること、見た目で勝手に判断すること、見下ろすこと、誰かを対象化することから、相手がやりたくないことをやらせてしまうこと、本格的なハラスメントまで。傍観者としてただ観察して、アクションを起こさないという暴力もあります。この暴力はkosatenで一番よく生じる暴力です。お互いのために擁護すること、現時点いない人のために擁護することができていない状況で、何も言わず言動を流してしまうことです。私自身はよくこの暴力を起こしてきました。   痛み それぞれは痛みを感じている状況。それぞれはその痛みを誰かと共有したいこともあります。それぞれはお互いを傷つけあっていることもあります。そのそれぞれの原因もあります。痛みがあるので他人も痛めてしまう、ニーズが満ちていない状況なのである行動をとるということもよくあります。それぞれのケアとヒーリングが必要ですが、それはすべて一つの場所でできないことです。Kosatenはそれすべてに答えられるわけではないのです。少なくとも「私は痛い」と言いたら、その痛みを与える行為をやめてほしい。   セーフスペースと擁護 セーフスペースは逃げ込める場であり、擁護を提供する場所です。日々の抑圧・差別から距離が取れる場所、周りの人を信頼できる場所。恐怖、屈辱、ハラスメントの恐れから解放されている場所。Kosatenは誰も排除しないセーフスペースを目指していますが、このパブリックな場に入り、ずっと加害を起こす言動を続ける人がいたらどうしたらよいでしょうか?その加害を許すことができないのですが、「もう出ていけ!」「もう来るな!」と言えるのでしょう?暴力に対して立ち上げないとその暴力を可能にして、暴力の継続の責任があります。人の考えを変えることができないかもしれませんが、自分の考え・自分の痛みを使えることができます。自分にとって許すことができないことがある時、 迷わず、はっきり「NO」と言わないといけないのです。 この言葉を口にする準備が必要で、この言葉を自分に対して受け止めるための準備も要ります。あるコミュニティへの無制限のアクセスがありません。誰も排除したくないと思ってもそれぞれを守るためにバウンダリーがないとどんどん刃物で刺しこんでしまうような行為を許してしまいます。永遠に気になる言動のために言い訳をし続けないのです。痛くとも黙って忍耐できません。対立から逃げて、調和をずっと優先し続けられません。丁寧に、哀れみを込めてそれぞれのアグレッション・痛みに向き合って、取り組むことができればいいのですが、必要な時「もういかげんにしよう」を言うしかないでしょう。   この世界で溢れている抑圧で非常に絶望になってしまいましたが、少しでもkosatenでその抑圧と戦うことができるという願いがありました。その抑圧から避難できるところ、軽減できる場所、抵抗する場所で、様々な異なる側面によって抑圧されている人と連帯してお互いサポートできる空間を求めましたが、事実としてはただ抑圧を持続させてしまった場所になってしまいました。   自分がやってしまったこと・言えなかったこと・やらなかったことによってこの状況をつくってしまいました。自分が悪かったです。この状況が続かないように自分に対してストライクしようと思っています。下記のことを取り組まないと今までのkosatenの活動が続けられないでしょう。   *私が自分の意見があり、あなたと合わせなくてもいいと理解する *この場所を使ってきた人たちをより積極的に責任をとる *より多様なバックグラウンドのある人により対等な立場で運営に関わってもらう *みんながアクセスできるコミュニケーション方法をみつけて、決定するプロセスをつくる *それぞれのイベントや活動を企画するチームをいくつかつくる *ミューチュアルエイド・相互扶助に対する理解の基盤をつくる *それぞれの痛み・大切にしたいことを聞き合う *経済的な問題を改善するための取り組み *もっと近所と他のコミュニティとの繋がりを育む *暴力、抑圧、マイクロアグレッションとの闘いへのコミットを確認する *パブリックとセーフスペースの原理を確認する e.o.[:]

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