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[:ja]Midori Miyakawa 夏、大量の汗をかき、ペットボトルの水を持ち歩いた。エアコンの効いた建物の中に入るとほっとした。商業施設はエアコンの冷気を、ドア全開に随時外に送り出すことで、通りすがりの火照った身体に否定しようのない安心感を与え、金儲けを狙う。 プラスチックを使用禁止にした国が増えていることを知る。ストローを使わず、プラスチックの袋をもらわないなど、いくつか心がけている。けれどペットボトルは毎日のように購入していたので、今度はかわいい水筒でも買おうと思ったのだった。アフリカのケニアでは、プラスチックを持って入国すると最高4万ドルの罰金か最長で4年の禁固刑が課されると聞いた。 地球の寿命はどんどん縮んで、南極の氷は溶け、アマゾンが燃えている。 熱射病で人がバタバタと倒れていく東京オリンピックを見たくない。 わたしはあと何回この猛暑を味わうのだろうか。 ————- 「少女像」のあるはずの部屋の前に立ったけれど、びくりともしない白い扉の前で何も見えなかった。加害責任と向き合えない政府の暴力が、わたしの日常で常態化していることを、許してはいけない。加害の歴史について、否定と肯定の両論併記で「どっちもどっち」と言ってはいけない。デズモンド・ツツは、不正な場において中立であることで、私たちは抑圧する者の側に立ってしまうと語っている。 ————- 「この星は、私の星じゃない」 田中美津さんの印象に残った言葉。 自分を映したドキュメンタリー映画の上映後、こんなことを語っていた。 自分なんて大したことないと言うが、大したことないことが、すばらしいと。 そうか、大したことないわたしを、わたしが受け入れてみよう。大したことない人生をゆらゆら泳いでみよう。 わたしがわたしであることは、偶然にすぎない。あなたはわたし、わたしはあなただったかもしれない、そう考えると、他者への共感、連帯が生まれるんだと。 あなたはわたしだったかもしれないって、愛の告白みたいに聞こえるけれど、おかしいだろうか。 この星は、私の星じゃない、という言葉の背景にある、田中美津さんの話を聞いて悲しくなったが、このタイトルがわたしはとても好きだ。 ————- 最近自分の身の回りに起きたセクハラ、性別にまつわる蔑視発言に気を落としていた。記事を読んで怒ったり悲しくなったが、自分にされたことにうまく怒れなかったり、すぐにそれがハラスメントだと認識できない時もある。そのことがあっけなく、悲しかった。ずっとどんより曇り空の下にいるようだった。 精神をすり減らしてしまわないように、安心して夜眠れるように、 一人寝そべっていても、誰かの手とつながって、星空を見上げていられるような。 もっとやさしく生きられるはずなのに、なんでこうなのだろうと辛くなる。 なんでわたしはもっと人にやさしくできないのだろうか? わたしは自分と生きている人への信頼を失いたくない。 人を信じることができないのは、とても辛いことだ。 きっと誰かもわたしと同じ思いでいるだろう。 そして別の場面では、自分が加害者になりうる。 人を信じることができなくなったと感じた時、同時に、人を愛することも尊重することも、到底できないように思えてくる。 自分のこともどうでもよくなってしまって負の連鎖、悪循環だ。 でも、思いがけない抜け道もあって、安心できる人や場所が見つかることもある。 全てがそうではないのだと、気がつくことができる。 その時自分は、それがありがたいと思う。 しかし、全ての人がそうであるように、できることを、何かをしなくてはいけない。 暴力から目をそらさずに、人と、生きることを、愛せるようになるためには…..[:]

[:ja]6月30日のLanguage Beyondはスペシャル回として、あるテーマから思いつく本をみなさんで持ち寄り、紹介しあう回となりました。 今回、テーマとして提示したのは「変わる?/Change(s)?」というキーワード。事前に、次のような文章を提示していました。 * 〈変わる〉という感覚。〈変わらない〉という感覚。わたしたちは、今の自分の身体や感覚というあいまいな立脚点に立ちながら、世界や時代、自分自身や他者をながめます。そして自分をとりまくものや自分自身が、変わったこと・変わらないことに気づきます。 〈変わる〉ことは、時には未知の世界へのあかるい希望を抱かせるものでもありますが、時には自分自身や他者、周りの世界に変化を強制する、恐ろしい力にもなりえます。あなたにとって〈変わる〉ことは、どんな感覚をもたらすものでしょうか。 子どもの頃から、変わったもの/変わらないものはあるでしょうか? 自分をとりまく世界は、変わったでしょうか? 変わらないでしょうか? これからの世界はどう変わるのでしょうか? あるいは、どう変わってほしいと思いますか? いまここにいる〈わたし〉から変わりゆく世界/変わってしまった世界に向けて、あるいは世界から〈わたし〉に向けて、どんなことばが投げかけられるでしょうか? これはヒントの一例にすぎませんが、こんなことに思いをはせながら、本を紹介しあってみませんか? * 当日は以下の本が紹介されました。 マヤコフスキー『南京虫』(群像社) 池辺葵『繕い裁つ人』(講談社) 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社) 堀辰雄「菜穂子」(新潮文庫) 吉本ばなな『キッチン』(新潮文庫) 樋口一葉『たけくらべ』 ムジール『特性のない男』(新潮社) 太宰治「メリイクリスマス」(ちくま文庫『太宰治全集』8) 遅子建『アルグン川の右岸』(白水社) 鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』(KADOKAWA) 朴沙羅『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房) 中島京子『長いお別れ』(文藝春秋) 一新塾『「根っこ力」が社会を変える』(ぎょうせい) * すべてを紹介することはできませんが、一口に〈変わる〉といっても、一人ひとりがさまざまな意味でその言葉を受け止め、ヴァラエティ豊かな本たちが集うことになりました。 社会を変えること。年を重ねることで変わること。少数民族の伝統的な生活が変化すること。戦争を経ても何も変わらなかったこと。未来について、過去を語るように語るのではなく、可能性において語ること。 * 次回のLanguage Beyondでは、今回紹介された本のなかから1冊を選び、それをみなさんで読んでみたいとおもいます。 (工藤)  [:]

[:ja]7月15日(月祝)14:00-17:00 無料 お申込み:10名まで(予約制) ※FBの参加ボタンでは申し込みになりません。 専用予約サイトよりお申し込みください→https://bit.ly/2ZOBt4d 「迷惑をかけたくない」「迷惑だ」 私たちは、どんなことを「迷惑」と言っているのでしょうか。 本人がそれを迷惑と思わなかったら、迷惑でなくなる? 互いの考えが違う理由を問いあいながら、迷惑とは何なのか明らかにしていきましょう。 対話の実験室とは、背景や価値観が異なるさまざまな人と対話するための態度や考え方、その方法を試行錯誤する場です。情報交換や解説ではなく、ここでは、相手が言った意見の理由や、言葉の意味、価値観の違いなど、考えについて対話します。[:]

[:ja] 『風船を買った』チョ・ギョンナン(趙京蘭) 関係ないかもしれないが、じぶんと韓国のこと。   高校のとき、東方神起が好きな友人がいた。それがきっかけで、彼女は韓国語を勉強してもいた。帰り道、いつも彼女が「ペゴパヨ(お腹が減った)」といって、お腹が空いた手振りをするので、そういうときは、いっしょにローソンに寄って、Lチキを買うのが定番だった。が、わたしはなぜか、「ペゴパヨ」というのは彼女の造語で「お腹が減った」という意味なのだと思いこみ、それが韓国語だとは気づかなかった。「ケンチャナ(大丈夫だよ)」や「オットッケ(どうしよう)」なども、日常的に使っていたように思う。ただ彼女はとても表情豊かで、なんとなくその意味がつたわってきたので、それぞれのことばについて、あえて聞き返したりはしなかった。   ついさいきん、韓国語に触れるようになった(わたしも、K-POPにはまった)。そこでやっと、彼女があのときなにをつたえようとしていたかわかった。学校から駅までの道のりと、そのときの空気とともに、とてもおおげさにいえば、記憶が変容していった。それはわたしにとって、とても感動的なことだった。ことばがことばにされてから、十年が経っていた。   と同時に、韓国のひとについて、いくつか発見があった。どんなときに、どんなことばで表現するのか。どんなふうに、年上、年下、同い年のひとと接するのか。全然、知らなかったことだった。   なかでも、個々のひとの自信のもち方が、ちょっとすごい。これは伝えにくいのだが、ただアイドルだから、というものではないと思った。たとえば、「このなかで〇〇に一番すぐれているひとは?」とかいった、〇〇にポジティブなことばが入るような質問に対して、「ナ!(僕!)」と、ごく自然に答える。その自然さがすばらしい。しかも、それに対して、まわりは茶化したり、嘲笑したり、絶対にしない(たぶん)。どころか、そういう自信をもっているひと、じぶんを好きでいることができるひとのそばにいることを、誇らしく思うような雰囲気もある(わたしの妄想でなければ)。   書いてみるとあたりまえのような感じ。なんだけれど、テレビのように既定のコードがある場で、なかなかできることじゃない。だから、そんなやりとりが、最初印象的だった。とにかくなんだか、ああ、いいなあ、と思った。じぶんを好きでいられることの価値、自尊心というものに対する理解の深さ? 新鮮さ、そして、うらやましさとまぶしさ。   個人的なトピックについて、書いてみた。   あなたとわたしのちがいがうれしい。すぐには思い出せないが、そんな詩があったような気がする。ひとつのものごとについて、ちがった見方のあることが、ちがっていることが、こんなにうれしい。なんとなく、韓国に触れるとき、そんなことを思う。 藤田瑞都 [:]

[:ja]2019年5月19日(日) 14:00〜17:00 無料 その日集まった人たちで疑問に思っていることを出し合い、問いを1つに決めて対話します。急がずゆっくりやります。[:]

[:ja]2018年10月21日(日) 13:00〜16:00 無料お申込み:6名まで FBでは申し込みできません。専用予約サイトよりご予約ください。 今回は、メタファシリテーションの練習をします。メタファシリテーションとは、事実のみを質問していくことで、質問された人が客観的に物事を捉え、自ら解決方法を見いだし行動する助けになる技術です。各人が対話において変えたいと思っていること、例えば、相手が身近なほど意見が言いづらい、長い話を我慢して聞いてしまう、相手の発言の意図を自分勝手に決めつけてしまうなどの改めたい習慣をもちよって、事実質問の練習をしましょう。 *メタファシリテーションは、ムラのミライで体系化された手法です。 詳しくは以下のページをご覧ください。 ・認定NPO法人ムラのミライ ・メタファシリテーションとは

[:ja]2018年8月12日(日) 14:00〜17:00 無料 申込み:6名まで モヤっとしたとき、自分が何に疑問を持ち、何を知りたいのかをどうやったら言葉にできるでしょうか。そしてどのように質問したら、知りたいことをきくことができるでしょうか。 今回もオスカー・ブルニフィエの「相互質問法」を使って、考え、質問する練習をします。そこで生まれた疑問を一緒に考えながら、試行錯誤しましょう。[:]

[:ja]『本』 本音で生きたい。 本気を出したい。 本業が欲しい。 今の自分の想いを言葉にすると、 多くの表現に「本」という言葉が使われているのが分かる。 「本」という言葉について調べて語源を辿っていけば意外なことに気づいたり、 自分の思いを表した上の3つの表現に共通点が見つかるかもしれないが、 そのような探究心の優先順位は今は余り高くない。 そんな好奇心や探究心に基づいて落ち着いて研究に没頭する余裕は今の僕にはない。 視力矯正の不具合…。 あらゆる思考や行動に付きまとう、 視力矯正の不具合。 この人生最大の壁である視力矯正の不具合を自分が望むような形で改善していける状況が作れなければ、 僕の人生は前に進めない。 視力矯正の不具合以外のあらゆる挑戦や苦悩を体験しづらい。 もっと叫んで良いはずだ。 「もうヤケクソな気持ちになってパンクバンド作って好きなことを言いたい放題叫んでしまえば良いんですけど」 なんて冗談を誰かに語っている場面を想像していたはずだ。 だから本気は出せる。 出して、良い。 本音も言える。 言って、良い。 本業だって取り組める。 本が読みたい。 本を読んで知恵を身につけたら、 明日の行動が変わるかもしれない、のに… 頂点の孤独… 手放したい… 井口政基 [:]

[:ja]Being(Between) 私とあなたの間に何が存在するでしょうか?ただの空気としてとられるのですが、実はほんの少しの隙間でも大海原になり、越えられない壁でもあります。自分自身の価値でその隙間を埋め込むという要求も逆にその空間を拡大してしまう効果もあり、何かのスタンダードがあるという妄想も社会によって構築された障碍を生み出してしまいます。他者の目を通してみるという想像力が足りなければ、障壁が自然に形成されます。   一方、このズレは創造力と可能性の空間でもあるので慌てて埋めようとする必要がないのですが、ギャップの存在自体を認識し、その間に衝突とシンクロニシティのねじれた線を織り込むことが重要です。親近感とウンハイムリッヒ(不気味さ)の間で振動することで個人として新しい基盤、新しい居住環境がみつけられます。知らないものを遭遇すること、今まで見えていない観点を垣間見ること、植民地化して、消費するのではなく、尊重し観察し、対話すれば異物と自分の摩擦は知恵とラーニングの会得につながるでしょう。   差異があることによって私たちのそれぞれの存在が可能になります。「その間にある空間」によって私たちが作りあげられ、形になるのですが、その空間が測られたり、カテゴリー化されたり、その任意の価値によって私たちにラベルをはられることもあります。人それぞれの異なるニーズもあるし、それぞれの関心とスキルが無数の道として広がっているのに、社会的構造はこのみちを無理やり狭い回路に収束させようとしています。結果として多くの人が何かの壁を感じています。しかしそれは私たちの中の限界ではなく、私たち周りの世界の制限です。   Being(Between) Being(Between) はさまざまな異なる背景や経験を持つ方との支え合いのネットワークであり、信頼性、リスペクト、コミュニケーション、個人のニーズと、それぞれの異なる事情を認めることを通して私たちの間にある空間を渡れる繋がりを育み、私たちのありのままで居られる、これからなりたい自分への道に踏み出す勇気を一緒に作り出します。   日本語で言えば「ケア」は福祉、支援を提供する側、支援を受ける側をはっきりわけて、何かの上下関係を提唱する言葉になっていますが、それよりもより幅広い意味があります。何かに関心を持つこと、何かに不安を持つこと、何か気になることという意味もあります。誰でもケアが必要で、人生はサポートを受けながら知らないことに向き合うことと言えるのでしょう。   感情労働においてケアは歴史的に性別分業されて、「家庭」という領域に置かれて、無償であまり価値を持つ労働とされてこなかったのですが、現在はますますビジネスとして民間化され、アウトソースされているものになっています。しかしケアが規制されることで、根本的に重荷や「非生産性」としてケアを認識している実用主義によって決められている分類化の中でそれがさらに階層化され分離されます。   ケアがピンポイントされることとつれて隔絶されることも起こっています。例えば子ども、障碍を持つ方、高齢者、ある種のケアを必要としているグループが特定な場に割り当てられます。また難民、ホームレスである方、DVの被害者、ひきこもりの状況である方、NEET、移住労働者など(カテゴリー化してしまうこと自体もよろしくないのですが)、自分のニーズがマイノリティ性を持つとされている人は自分のニーズに対応してくれる、数が少ない場所を探すことで見えない存在であると感じさせられています。   私たちのそれぞれの居場所、心地よい場所、所属感がある場所、安全で避難できる場所を確保するのがとても大切だと同時に、私たちを固定させ、選別する構造から脱臼させることも重要です。それぞれの人を絡み合うケアと感心事の横断面を作りつつ、私たちのケアが相互接続し、お互いに切り離すことができない状況であること、またお互いの人生をより豊かにするためにどのようにともに「居られる」かということに対して意識を高めていきたいと思います。   ケアは一点で集まると他のところに届けないでしょう。ある場所があまりにも快適だと他の場所に行く特は不安になります。社会はあるグループのラベルをはることでそのグループのウェルフェアに対する責任を隔離し、個人の多様なニーズを上下関係になり、制限がある「枠」に当てはまれ、その結果としてケアの空間的な分節が起こります。   さまざまな点をつなげる行き来する線、ネットワークとしてBeing(Between)は単なるラベルや枠を超える、個人のエンパワーメントや自己決定の可能性を持つ支流を探りながら、コレクティブで相互的なケアを育みたいです。人間の条件である根本的な相互依存というレンズをとおして「自立」とは何かを見直して、私たちそれぞれ生きていきたい形をサポートしたいと思っています。   このように私たちの声のためのプラットフォームと回路をともに作り上げ、私たちの存在を表現していきます。創造力・想像力、クリエイティビティを自分内外の世界を反映する、もうひとつの可能性を想像する、今まで見えてこなかったことを可視化するエネルギーとして重視していきます。横断的なピアサポートによってそれぞれの表現の場、聞き合う場を少しずつ形にします。     有機的な横のつながりによるネットワークを促進することで個人の声のための舞台を増やし、地域の中でともに生けるための共有スペースを展開し、ケアする人のケアを含めて、個人のケアの可能性とニーズに対する意識を深めていきたいと思います。   経済的な再生産を中心として価値つける社会では「何かをやらないといけない」というプレッシャーが圧倒的ですが、Being(Between)は「何かをする」より「ありのままでいる」ことを重視したいのです。この枠その枠をチェックしなくてもいい、何かの固まった形にあてはめなくてもいい、あっちとこっちの間、その隙間で存在すること、being betweenのことを尊敬したいのです。他の人の期待を満ちなくても、自分の可能性を自分なりに実現し、いろいろな方向で交差しなから日々の生活を一緒に送ることがBeing(Between)の姿です。     Being(between) What is it that makes up the space between? It may seem like merely air but in fact the merest gap may be vast oceans or impenetrable walls. The demand to close that gap by our own value serves to widen it, and the delusion of a set standard serves to socially construct disability. When we lack imagination to see through someone else’s eyes barriers are naturally formed.   Yet gaps are also a space of creativity and possibility, we should not be in a rush to fill them in but to recognize they are there and spin a set of ever twisting lines of collision and synchronicity across these. In an oscillation between familiarity and the…

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[:ja]「滝山コミューン」とも、2月24日の公・差・転とも関係ないかもしれないけれど 僕は、1996年からの10年ばかり、T-theater という詩の朗読の舞台集団の代表をやっていたことがあります。 代表といっても、当時知り合ったパソコン通信(インターネットはまだなかった)で知り合った方たちと一緒に、「詩の朗読の舞台をやろう」と立ち上げた、言ってみれば素人の集まりです。 (ただし、失礼のないように書いておけば、趣旨に賛同して協力して下さったプロの方々も参加しています。) 歌詞や詩に救われて生きてきた僕は、詩の朗読だって素晴らしいエンタティメントだと思っていました。 だから、朗読の舞台集団を始めました。 そこで僕が言い続けたことがあります。 :一緒に何かをやり遂げた達成感とか、頑張ったという自己陶酔に陥らないでください。 :会場に足を運ばれてくるお客様にとっては、あなた方の一人ひとりが何をやりたくて表現を行っているのかが大切なのです。 :身勝手にやりたいことをやってください。 詳細は触れませんが、同じ時期に詩の朗読、もしくはポエトリー・リーディングを始めた方々があちこちでおられました。 t-theaterは、2000年代に入ってから解散しました。 すでに、「集団」など作らなくとも、自由に朗読・リーディング活動を出来る場が、あちこちにできていました。 t-theaterの解散と前後して、僕は単独の詩の朗読会を開催するようになりました。 音響・音楽・美術を揃えた舞台ではない、自分一人しかいない朗読に向かうようになりました。 概ね観客動員数の少ない会になりました。 それでも、お褒めの言葉もいただくことがありました。 そうした中で僕が何回か繰り返して語ってきたことがあります。 :もしも僕の言葉に心を動かされたのであれば、僕の言葉を肯定しないでください。 :いったい何に心を動かされたのかを考え始めてください。 :感動したからといって、誰かの言うことを無条件に受け入れてしまう。 :これほど怖ろしいことはないのですから。 これからも繰り返し続けると思います。 ところで、僕は子どもの頃から宮澤賢治の書く物語が好きでした。 とても神聖なものに感じていました。 妻と知り合った頃、妻が宮澤賢治を嫌いと知り、そうした考え方も理解するようにしました。 長く抵抗がありました。宮澤賢治はやはり、とても巧みな物語の書き手なのです。 やはり僕の好きな作家である山口泉が「宮澤賢治伝説」(河出書房新社)を出したのは2004年です。 初めて妻の覚えてきた違和感を受け止められた気がしました。 (錯覚かもしれません。) 何かを信奉せずに疑うことは大切であると同時に、いたずらに周囲の価値観の変遷の変化に追従してしまうことも恐ろしいことだと思います。 僕が子どもの頃には、絵本の結末に「ぶんどりひん」という言葉が使われていたのを思い出したのは、「世の途中からかくされていること」(木下直之、晶文社)を読んだときのことでした。 「ももたろうは ぶんどりひんを もちかえりました」といった文言が、「めでたしめでたし」一杯の雰囲気でえがかれたりしていました。 こうした言葉を肯定的に使っていた価値観の時代がかつてはありました。 映画「拝啓天皇陛下様」には、侵略戦争が終わった後も「ぶんどること」を止められなかった愚かな臣民の姿が描かれています。 しかし、いつしか言葉は使われなくなり、そうした言葉を使う意識も忘れられていきました。 忘れ去ることで、「なかったこと」にできる状況が生じたのです。 「飛ぶ教室」、「滝山コミューン」の二冊に関する対話を聞きながら、僕が思い出していたのは「クオレ」(デ・アミーチス、複数の訳有り。)のことです。 僕が子どもの頃には、子どもへの啓蒙的な小説として数種の翻訳が出ていました。 後に、イタリアのファシズムを誘導した作品として分析された本です。 これは、いじめられっ子であった僕にとっては、ある意味、救いの一冊でした。 世の中に僕の実際の生活とはかけ離れたところで、「絶対の正義」みたいなものが存在していて、それと同化してしてしまえば自分は救済されるみたいな。 成長物語というのは、向上心のある子よりも、劣等感のある子にとっての救済の発想みたいだなと思っています。 「正しい/悪い」の価値観を確立し、自分が「正しい」側に身を置いていると思えれば、ある種の快楽が約束される。 先述の宮澤賢治の魔力にも通じるものがあります。 (一見求道的な「本当の幸せ」という言葉が、「本当」ではないものを選別することを前提としている怖ろしさ。) 塾教師という仕事柄、教え子といろいろなことを話すことがあります。 最近、「3年A組」というTVドラマが、彼らの心をひきつけていることに気がつきました。 学校を舞台にした作品です。 高校教師が、自分の担任している生徒たちを人質に取り、学校に立てこもるという設定です。 その中で、既に自死している一人の生徒に対して、「クラス」によって代表される社会がどれだけ「加害者」であったかが、浮き彫りにされていく展開となっています。 自分が加害者であることをまず自覚しろ。 そうしたドラマの内容が、とても複雑な思いの中で子どもらを捕えているのではないかなと思いました。 奥主榮 [:]

[:ja]『アウトプット②』 これで次に進める。  [:]

[:ja]『アウトプット①』 とにかくアウトプットしたい。 毎日、言いたいこと、話したいこと、 歌いたいこと、描きたいことで溢れている。 なのに、 どこにも叫ぶべき場所が見つからない。 いや、叫ぶべき場所はどこにでもある。 インターネット上でもリアルな世界でも、 どこでもいくらでもある。 だけれど僕は行動に移せない。 このkosaten magazineだって何を表現しても自由なのに、 手元にアウトプットしたい作品がない。 言いたいことは山ほどある。 表現するのに資格は必要ないかもしれない。それでも僕には表現する資格がある。 正確には表現す「べき」資格がある。 つまるところ表現したい。 僕にはやりたいことがたくさんある。 言いたいことが山ほどあるように、 やりたいこともたくさんある。 けれど視力矯正の不具合を抱えているため、 それらのやりたいことが充分にできず、 消極的な毎日を送っている。 行き詰まってはいないが、 息苦しい感覚で毎日を過ごしている。 (急に寂しくてなってきた。 若い頃、家で昼ドラを観ていた日々が懐かしい。。。)(そして、この時思い出した昼ドラは『はるちゃん』や『温泉へ行こう』などの旅館ものだった…。) そんな今の、 人生を前に進めずにいる状況を突破するためには、 自分と同じような高い志と問題意識を持った人と出会うこと、 というのが僕の直感だった。 日本一高い志と問題意識を持った人に出会って触発されたい、 そのくらいの刺激がないと怠け者の僕は動けない。 と、しかし、 自分が高い志を持っているかどうかは疑わしく、 いや、持ってはいるが、 少なくとも志を貫いて一人孤立する勇気はないようだ。 志や問題意識を共有できるアナタと一緒に孤立するのは全く怖くない。 むしろ望むところだ。 日本一高い志と問題意識を持った人に出会うためには、 自分の今の状況と、 自分が高い志と問題意識を持っていることを世の中に伝えなければならない。 なのに僕はしかるべき行動が取れず、 自分の本音に嘘をつきながら、 悶々とした日々を送りながら、 現実逃避の虚しく寂しい気持ちで毎日を過ごしている。 Facebookにさえ、 あまり良く思われないだろうと思って、 自分の本当の問題意識を伝えることを躊躇ってしまう。 Instagramにアップした旅先で食べた美味しい料理の写真とコメントさえ、 お知らせするのを遠慮してしまう。 結局、他人に遠慮して、 嫌われたくない、 恥ずかしいというのが本心、、、 ネガティヴッ…! ネガティヴな気持ちは発信どころか、 言葉にするのもシンドイ…のは気のせいか…? 他人と比較するのは詰まらないが、 ネガティヴな報告がFacebook上でなされることはない。 だからつい僕も、 本当は解き放ちたくて仕方のないネガティヴな想いを押し殺して、 良い子ぶった発信ばかり選んでしまう。 いっそのこと、 ネガティヴな想いを徹底的に吐き出して文学作品に結実させてしまおうかという野望が頭をよぎることもあるが、 僕には文学作品を創作したいという熱意がほとんどない。 熱意…エネルギー…原動力っ! その原動力を発動させるためにも… 日本一高い志と問題意識を持った人々に…  [:]

[:ja] 「公差転で行われた書のワークショップで創った作品。テーマは「木」です。」  [:]

[:ja]公差転のメーリングリストに表現する文章を考えるにあたって、 書きたいこと、表現したいことは山ほどあって何を題材にしようか悩みましたが、 やはり、視力矯正の不具合を抱えていて本当にやりたいことが充分にやれないことについて、やりたいのにやれない悔しさや惨めさや怒りや後悔や憤りについて、 このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ! という想い… (ちなみに今この文章をiPhoneのメモパッドで打っているのですが、 特に、 「このクソヤロー共っ! 俺の話を聴きやがれっっっっっ! コンチクショーッッッッッッッ!」 については手書(描)きで思いっきり書(描)いてみたいなと思いました。)について語りたいと思いました。 本当は好きな音楽や映画や漫画やゲームについて書いてみたいという気持ちもありますが、今の僕はそれらのことが充分に楽しめず、それらの素晴らしさについて文章で表現することが充分には出来ないため、 やはり視力矯正の不具合を抱えているため、やりたいことが充分に出来ないんだコンチクショー、テヤンデばろっチクショーという想いを語ることから、まずは始めたいと思います。 自分の本当の気持ちを音楽や小説や漫画や映画など、創作物でさらけ出して表現することは実生活でさらけ出して表現することよりは容易いと思う。 だから、自分の本音をさらけ出した創作物は世の中にたくさん存在するのかもしれない。 でも、僕はそこにリアリティーを感じない。 訴求力を感じない。 昔の僕はそこにリアリティーや訴求力を感じ、意義を見出していたかもしれないが、 少なくとも今の僕にはツイッターやフェイスブックなどSNSでの直接的な表現の方が、もしそこで本音をさらけ出せていたのなら、 勇気を感じる。 様々な困難を抱えた当事者の集まりや、世界の片隅にあるブログでの名も無き叫びの方が。。。 僕が19歳の頃、 漫画家になりたいと思ってデザインの専門学校に通うと思ったが、辞めて、紆余曲折を経て法律家になりたいと思って大学の法学部に進学した時も、そんな心境に近かった気がする。 僕はどこかでアーティストと名乗って創作活動をすることが卑怯な行動だと思っているのかもしれない。 卑怯…もしかしたら、 「物足りない」という感覚か…。 でもアーティストと呼ばれる人の中には自分の顔と実名を出して作品を創作し発表し、ある程度の社会的責任を負って活動している人もいる、と思う。 だから、もしかしたら、 創作物を媒介するかしないか、という分け方は本質的ではないのかもしれないが、やっぱり「表現の場」として用意された場所での表現は、物足りなく感じてしまう。 といっても、このkosaten magazine も、 見事に表現された場で、 僕のこの表現は余りリアリティーや訴求力が感じられないものとなっている可能性がある。 自分でもぶつけたりていない、 物足りない、 人に好かれたいと思っている自分、 表現っぽい表現を選んでいる自分がいる。 ぶつけたい。。 叫びたい。。 公差転回に集まる人たちよっ… 父よ、母よ、妹よ… オレの思い通りに動けっっっっっ! と叫んでやりたい。 少し疲れた…。 所詮こんなの本音じゃない。 ここまで書いて何となくこれは書いたり言ったりしたらマズイだろうと思う文章は削除したい。 だからきっと、 残された文章は無難なものになってると思います。 楽しんで頂けましたでしょうか? 今度このような場が与えられたら、 もう少しきっと、 本当の本当に本音が語れるように、 人々に希望が与えられるような文章を書きたいと思うので、 楽しみにしていてください。 世界中の皆んなが幸せになりますように、 心よりお祈り申し上げております。 井口[:]

[:ja]「公-差-転でどこまでできるのか?」 僕は公-差-転でこのような問いを何度も発してきた。 その問いに対して公差転に参加している人たちからの明確な答えは、 一度も返ってこなかった。   実際には、 今の公-差-転では個人の切実な境遇や問題意識について語り合う状況は、 充分にはできていないと僕は感じている。 少なくとも僕は出来ていない。   もちろん、それほど切実な境遇や問題意識について語らなくても、 居心地の良い居場所としての機能が果たせれば良いのかもしれない。   それでも僕は、 僕が公差転に居続ける限りにおいては、 僕にとって公-差-転が居場所として機能する限りにおいては、 いや、多少は居心地が悪くなっても… 「公-差-転でどこまでできるのか?」 という問いを発信しつつ、 語り合える切実度の度合いを高めていく実践をしていきたいと思う。   その実践の1つとして、 以前noteに公開した下記の2つの記事を、 kosaten magazine で紹介したいと思う。   「熟成下書き」~『S先生の課題』 https://note.mu/masaki_iguchi/n/n38a5bdd35642   熟成下書き2~『S先生の課題(表舞台)』 https://note.mu/masaki_iguchi/n/n20084e1f9841   「「熟成下書き」~『S先生の課題』」に書いたように、   《「自分の境遇や問題意識を人々や社会に伝えていきたい」という想いがある僕としては、 少しずつその躊躇いを解消していき、 発信していきたいと思う》。  [:]

[:ja]Language Beyond #7のレポート 2018年12月16日 今回読んだ本: ・レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 ・多和田葉子『地球にちりばめられて』 私にとってこのブッククラブは2回目で、すでに本を選ばせていただいてとても嬉しかったです。自分が読んで気に入った本について本格的に話し合う機会が意外と少ないからです。文学に近い分野で研究していますから本当にそれは不思議ですが、周りの人たちは大体自分のテーマに打ち込んでいて、誰かに勧められた本を読むまで手が回らないことが多いです。結局、本を読んで、アマゾンなどの口コミを覗いて意見交流の疑似体験のようなものをして、終わりということが多いですね。でも、同じ本を読んでいる人たちとリアルなコミュニケーションを取って、意見を話し合うということはなかなかない貴重な体験です。ですから、とてもありがたいですし、他の人の選んだ本も大事にだいじに読みたい気持ちになります。   私は多和田葉子の『地球にちりばめられて』という最近の本を選びました。日本が何らかの理由で消滅したという設定で、そのときに北欧で留学していた日本人女性Hirukoは難民の立場になる。法律で定期的に国から国へ移らなければならないことが決められていて、Hirukoは各国の言語を覚えるのが嫌になって、北欧の各国でなんとか通じる言語を自分で作る。そこから不思議なつながりでHirukoの周りに色々な人が集まり始める。言語学を専門とするデンマーク人の学生、女性として生きようとするインド人の青年など、本当に多彩な人たちが集まって、彼女の言語(日本語)を母語として話す人を探すために一緒に旅に出る。目標達成はともかく、この旅で得るものは予想よりずっと大きい。   この本には移民の問題、原発問題、日本の社会が秘める色々な問題、そして、私にとって特に歯ごたえのある言語問題など、たくさんの問題が取り上げられていますが、言葉遊びなどが多くて、その割には明るい本です。ブッククラブの皆さんもこの本を読んでくれて、以下のテーマを中心に話し合いました:   ・この本では、母語の常識の外に出ることが様々なアングルから取り上げられています。なので、(主に)日本語の制限や時々その外に出る必要について話しました。例えば、英語やロシア語のような Good luck という一般的な表現がない日本語では、「頑張って」の使用頻度がとても高くなり、息苦しくなることがあります。その対策として、「お気楽に」など、もう少し相手に肩の力を抜かせる表現を積極的に使うことなど挙げられました。また、今の日本語と江戸時代の日本語がかなり違っていて、そのときの人も違っていたのではないかという指摘もありました。 ・主人公は自分の国の消滅に対して素っ気なすぎるのではないか、という疑問もありました。この本では、日本の消滅はとても曖昧に描かれて、むしろ象徴的な存在になっています。主人公もあまり詳細(親戚がどうなったかなど)について興味を持たないようです。転々と国を変えると、母国に対しても素っ気ない感覚になってしまうのではないでしょうか。確かに愛国の概念が薄い未来を描いている本ですが、それをポジティブにとらえるか、ネガティブにとられるかは、人によって違うようです。少なくとも考えさせられるのは確かです。 ・日本を批判し、北欧を可愛がっている著者の立場についても話し合いました。多和田さんの国際作家なりの批判的な観点が確かに色々なところから見えてくる。原発を考えさせるところや北欧の方が気楽に生きれるという主張がたくさんあります。しかし、一方で、ヨーロッパの潜在的な問題(テロ、移民問題など)についても述べられていますから、極端な立場ではないことを、話し合いながら分かりました。   現代を生きる皆がよく直面する社会的な問題や言語の制限が取り上げられている作品で、話し合うのはとても楽しかったです。続きを唆すインタビューも出ているので、もし続きが出たら、またこのブッククラブで話し合いたいな~と思いました。 さて、今回の二冊目の本はブラッドベリの『華氏451度』という有名な本でした。時代背景がかなり違います(1953年 vs 2018年)が、多和田さんの本と同様に、未来の世界を描くファンタジーです。その世界の中では、人が何も考えたり悩んだりせずに幸せに生きられるように、本がほぼすべて禁止され、見つかったらファイアマンに燃やされます。その代わりに、お楽しみ番組いっぱいのテレビやラジオがどんどん発展していきます。考えることをやめた人々は自分たちが幸せだと思い込んでいるが、本当は幸せではなく、自殺未遂を起こすのも日常茶飯事です。そして、ある女性との出会いをきっかけに、その現状に気付くファイアマンの主人公がいます。(続きはスポイラーなので書きません)   これも色々な面から現代人にも十分に通じる作品で、話し合いがかなり盛り上がりました。話題に上ったものをいくつか挙げましょう:   ・女性と男性の比率について。この作品では、主人公や教授や最後に出てくる老人たちなどを含め現状に気付いている人が主に男性であるのに対して、主人公の妻やその女性友達などはかなり馬鹿な存在、現状を見ようとしない存在として描かれます。一方で、主人公も女性との出会いをきっかけで現状に気付いたことも忘れてはいけないし、秘密で本を家で保存している人たちの中にも女性はいました。でも、確かに、まだフェミニズムやジェンダー研究が今ほど普及していなかった時代を感じるところがあります(ファイアマンにも女性がいなさそうで、今は差別として見られるかもしれません)。作家の無意識的(または意識的?)女性観が現れているのかもしれないし、男性の作家はどうしても男性を主人公として取り上げやすいという傾向も現れているのではないでしょうか。 ・この作品はテレビの悪影響を語る作品ですが、今の時代だとむしろインターネットの方が危険に感じる人が多いです。ブラッドベリも今の時代に生きるなら、依存症になりやすく情報量もとても多いSNSを取り上げたのではないでしょうか。一方で、その対比項目として挙げられたのはきっと同じ本ではないでしょうか。本の価値はそのときでも今でも変わりません。このように「現代ブラッドベリ」を想像してみると、考える力を育てる本という媒体(文化)の良さが分かります。 ・検閲問題についても話し合いました。検閲には良いことがないという人もいた一方で、ある程度の不自由があった方が作家はそのストレス発散を含めて陰で良い作品が書けるのではないかという人もいました。私の生まれたロシアでは、詩人は不幸な存在であるべきだ、という言われがあります。つまり、苦しみから様々な悩み、考え、そして、人生の意味を探そうとする努力が始まり、結果的には苦しみがいい作品を生むというのです。それも極端な意見ですが、やはり問題性があってはじめて作品が成り立つため、周りに問題がないと作家も熱意を入れて書くことは難しいかもしれないですね。ただ、作家体質の人なら、自分の内面など、どこにも問題性を見出せるのではないでしょうか。それで、わざわざ外から苦しみを加えなくてもいいのではありませんか。本当に難しい、多面的な問題です。   このように、二冊ともについてとても充実した話し合いができて、嬉しかったです。色々な意見が受け入れられる堅苦しくないブッククラブの存在は、文学にとっても喜ばしいものだと思います。また、最初の自己紹介もとても貴重な場だと思いました。最近気になったこと、昔の出来事、自分の詩など、話す内容は具体的に決められていないからこそ、その人その人の個性がよく見えます。そして、このようによく知らない人同士で個人的な話をし合うことは、親しい友人の輪ではできない大事な心の体験になっている気がします。文学に対する色々な意見だけではなく、色々な人の色々な事情を受け入れる練習(実践?)の場として、これからも長く活躍してほしいと思います。 Language Beyond マリア  [:]

[:ja] ランゲージビヨンド 第6回 10月21日 「香港パク」 [あらすじ(さわり)] 理不尽な社長の下、出版社で働く主人公と同僚たちにとって、「香港から船が来れば大金持ち」と嘯き、 怒られても不敵な笑みを絶やさないパクは希望の象徴になっていく。しかし、何年か後、摘発されTVニュースに映った密輸団の中にパクの姿があった。主人公の気持ちは複雑に。 [対話] 選者から「何とも暗くて、引っかかりのある文体」というコメントで話が始まりました。 韓国文学は読む機会が少なく(多くの参加者がそうであった)手探り状態で対話をしていく中で ・当時の韓国の国情を表している 経済破綻(IMF危機)の前であり、張り子のトラのような経済状態への不安の反映ではないか ・パク(食わせ者に見えるが)への希望(メシアとの表現がある)はその表れか キリスト教の信仰は強いのか・・土着宗教と一体化した現世的信仰 韓国訪問時に教会の十字架が光っているのは不思議に思えた ・パクの人格が変わったのは徴兵以降との記述があるが、何があったのか 光州事件との関わりがあるのか、光州事件は今でも韓国社会に影を落としている ・一方で主人公は、世間とは距離を置いて冷静に生きているように見える ・この状態は今でも変わっていないはず ・グローバルな視点を持つ友人でも、就職に関しては大企業志向で保守的 など、国情や社会の雰囲気と結びついているとの解釈が進みました。 一方で ・現代の中国文学にはこんな暗さはない ・アジア文学が日本でマイナーなのは、大学の主流が欧米文学のせい など、アジアへの興味も促されました。 「コンビニ人間」 2時間以上に及ぶ、この読書会で最も長時間の対話となりました。 [あらすじ(さわり)] 人格障害から社会に溶け込めない主人公にとって、人もシステムも機械と化したコンビニの一部になり働くことは、社会の一部と認識されることでの安心感があり、18年もアルバイトを続けていた。 ところが、反抗的な新人アルバイト(白羽)の登場により、その世界が崩れていく。 [選者から] ・一見、アスペルガー(発達障害の1種)を自覚する主人公が、機械のようなコンビニに順応して 生きる話に見えるが、いろいろな視点がありそう ・この会に来る人は主人公に同情的と思えるが、別の視点も知りたい とのコメントで始まりました。 [対話] 「主人公は分かる」という意見が大勢を占める中、いろいろな面へ広がり、深まりをみせました。 ①内面(人間的)な考察 ・周囲(現状の社会)に抵抗せず冷静に生息場所を探す主人公に対して、怒り反抗する白羽のスタイル は対照的。物語がそのことで展開していく ・周囲は主人公を金魚鉢の中を見るように見ているのだろうが、一方で、金魚鉢の中から周囲を見る ことも実は同じではないのか ・主人公は自分を中心に(自分の世界を)組織化できない。 そのために周囲に秩序ある存在を求める。その対象がコンビニ。 ・主人公は成長しない。 いろいろな事態が起きるが、常にワンパターンな対応をし、同じことを繰り返す。 それで、救いがない物語になっている。 ・一部にハッピーエンドとの意見もあったが、課題を残した終わり方との意見が大勢 ・(あちらとこちらを)分けへだてなく見て直言する白羽の弟夫人は貴重な存在ではないか こうした問題への解かもしれない ②自分の経験に即して ・周囲に同調して生きる人の「自分」とは何だろう。 機械の一部になっているのは同じで、自覚がないのは同じではないか →希薄だろうという感じだが、意見が出ず、分からない ・自分も、少年期には「どこまでやったら周囲がどう反応するのか」を観察しながら生きた ・今も周囲にはこんな人が多いので、読みだした当初は何が面白いのか分からなかった ③社会的な考察 ・主人公はコンビニの店員としては完ぺきである。社会のシステムが機械的、効率的なモノを求める ならその点で完璧な主人公を迫害するのは理不尽だし可哀そう ・社会(この場合はコンビニが代表する)が常に異物を排除し続けるなら、一旦異物を排除しても 新たな異物を作るのだろうか ・機械的なコンビニは日本にしかない。 海外のコンビニは良くも悪くも人間的(店員の感情が出る)である あえて似たモノを探すと、工場か役所だろうか ④文学的な考察 ・「諦めの物語」が多いのは日本文学の特徴に思える この物語も明確な結末やメッセージがない。欧米文学にはそれが必ずある。 [対話全体に対する感想] 多くの視点や深みが出て、楽しかったし驚きです。事後の気づきとしては ・周囲も自分も、動物園だと思って双方を冷静に観察すれば気楽ではないか ・日本文学は「諦めの文学」としたら、村上春樹が海外でも受けるのは、欧米人も疲れてきて 曖昧な内容や結末を求めているのではないか 以上 (牛山) [:]

[:ja] 今回のブッククラブは、「怒り」についての話題から始まりました。最近、某国会議員に対する抗議デモに参加したAさんは、デモの熱が高まるにつれ、自身の「怒り」の対象が当人の行為から当人の存在そのものへとうつっていくことに、ある種のこわさ−−自分自身がコントロールしているはずの「怒り」という感情の向く先がぼやけてわからなくなるこわさ−−を感じたといいます。 今回、私はソル・フアナという作家を選びました。冒頭の話と結びつけて考えるならば、フアナは自分自身の「怒り」という感情を、かなり率直なかたちで表現した作家だと言えます。「怒り」という感情を持つとき、その感情の実体について無反省でいるのは危険です。ただ、それ以前に、フアナという作家にとっては、感情の存在そのものの方が重要だった。自分の中にある感情の実体を、すみずみまで把握するよりも早く、その感情の存在を、ただみとめること。フアナのテクストからは、そのことの重視が強く感じられます。それは、自分が自分の感情を抑圧してしまい、なかったことにしてしまうことに対する、おそろしさのあらわれであったかもしれません。 何の縁もなかったソル・フアナという作家、あるいは手紙という形式を選んだ理由のひとつに、「個人的な物語を語ること」への興味がありました。旧くからある日記や手紙の他に、最近はZINEやSNS等による方法もあります。たとえばZINEは、気軽な個人出版の形態として広まるにあたり、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムのスローガンと呼応していました。それもあり、ZINEにおけるテクストは、社会的な自己ではなく、個人的な自己を始点として書かれることに主眼が置かれています。今回は、そうしたテクストが個人を始点としながらより大きな問題へとつながっていくことの可能性について、ブッククラブのみなさんと考えてみたい、という意図もありました。 ただ、みなさんの色々な意見を聞く中で、それは個人の感情をなかったことにしてしまわないという意味で−−「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを読み手にうけわたす役割で−−重要なのだと気づきました。小さな問題が、より大きな問題−−たとえば沢山の人間に共通するような普遍の問題へとつながっていくか否か、という問いもありますが、それよりもただ単純に、私たちは個人的なものを始点にしてもいいのだ、と・・・。私たちには、そこから話をはじめる権利がある、と。それを知っているだけで、どんなに勇気が出るだろう、と思うのです。シンプルですが、「個人的な物語を語ること」の要点はそこにあるのかもしれない、と思います。 ひとりひとりのうちにある物語は、断片的な論理の中で書かれる、かよわいものかもしれません。それに、脈絡がなかったり、いったりきたりの話になってしまうかもしれませんね(フアナが、自分の詩は万全の状態で書かれたものではないのだといいわけしていたのを、なんとなく連想します)。・・・だとしても、だとしても・・・三百年前にフアナの抱いた怒りや、「学びたい」という感情を、抑える権利は誰にもありません。もちろん、フアナ自身もそれを抑える気はありません。・・・いきいきとした文章から、彼女の声が聞こえてくるようです。「ほら、私の情熱を見て。世界は広い」と。 藤田[:]

[:ja]Language Beyond #4 レポート 野田光太郎  私にとってブッククラブは、消えかけていた文学への関心をかき立ててくれる貴重な場である。やはりこの世には文学でしか描けないものがあるのだ、と参加するたびに気づかされる。この日は期せずして、植民地支配の問題をテーマにした小説が二本そろって取り上げられた。特にケニアの先住民解放闘争を背景とするグギ・ワ・ジオンゴ『泣くな、わが子よ』に関しては、ギニアとナイジェリアからの参加者があり、身近で語り継がれてきた植民地支配の過酷さについて生々しい話を聞かせてくれた。そのため、この日の会はどことなく緊張感をはらんで始まった。  政治的あるいは社会的なテーマを強く感じさせる作品についておしゃべりをする場合、ややもすると自分の政治的な意見を表明することが中心になってしまいがちだが、小説の内容に立ち戻るよう意識的に心がける人がいたおかげで、小説の細部や書き手の背景へと改めて思いをめぐらせて、かえって社会的な認識を深めることができたように思う。たとえば『泣くな、わが子よ』では、キリスト教とアフリカ先住民の宗教の関係など、一人で読んでいるだけではなかなか考えが及ばないテーマについて意見交換することができた。  沖縄を舞台とした大城立裕『カクテル・パーティー』は、大城の他の作品や、戯曲版をも読み込んできた方々がいて、テキストを提案したわたしのほうが感心してしまった。後半から主人公が「おまえ」と呼ばれることで、語り手の視点が変化し、物事の見え方までが反転する、という手法面に関心が集まった。そこから主人公の娘の描かれ方など戯曲版との比較、さらには米軍基地労働者による反基地闘争の歴史を紹介したテレビドキュメンタリーなど、作品外の現実にも話題が及んだ。  参加者の皆さんの鋭い洞察力と、それを的確に表現する言語能力、誰もが議論に加われるよう話の流れを整えるバランス感覚、興味・関心の広さなど、文学への熱意に触れ、作品への思いを共有できて、非常に楽しい時間を過ごせた。テキストを読んできていない人も、スマートフォンですばやく情報を取り出しながら話に参加したり、他の作品から話題を提供したり、形にとらわれないこのブッククラブの面白みが感じられた。  わたし自身は、つい時を忘れて自説を語りすぎてしまったが(まぁ、ええカッコをしたかったということですな)、もっとさまざまな立場からの意見を出してもらうよう心がければ良かったかなと思う。イギリスとケニアのような旧宗主国と植民地の関係は、それを通じて価値観が互いに浸透していくような逆説めいた面もあり、突き詰めれば沖縄と日本の関係にも相通じるわけで、じっさい小説の中ではそういったコンプレックス——対象への嫌悪と憧れと恐れが切り離せないような形で入り混じった感情——がテーマの一つにもなっている。特に『泣くな、わが子よ』の前半では、幼年期の叙情性と素朴な大家族の共同性、それらを必然的に破壊していく白人「文明」の拡大と、しかしそれにどうしようもなく引きつけられていく主人公という、外部からでは容易に飲み込めない構図を提示している。  このように心のシリアスな部分を深くえぐり出している今回の文学作品を通じて、社会のありようによってどうしようもなく左右されてしまう個人の、それでも尊厳を求めてあがく姿への強い関心を共有できた気がする。 [:]

[:ja]2018年5月27日(日) 14:00〜17:00 無料 お申込み:10名 FBの参加ボタンでは申し込みとなりません。 2018年6月23日(土)に行われる「「選別」される社会~相模原事件をとおして〈問い・語る〉哲学対話」のプレ対話Part1として開催します。オスカー・ブルニフィエの相互質問法「だれにでも、自由に生きる権利があるの?」を使って対話していきます。 ——————————– プレ対話Part2 現代哲学カフェ主催「命とは何か」6月20日(水)19時~21時 西国分寺のクリミドコーヒーにて行われます。 ——————————– 「選別」される社会~相模原事件をとおして〈問い・語る〉哲学対話 2018年6月23日(土)13:30〜16:30 都立多摩図書館 2016年7月16日に起きた相模原障害者施設殺傷事件の根底には、誰もが避けて通れない問いがあるのではないか? 答えのでない問いに向かい続けるため、今年も対話の場を開きます。 →申込はこちら[:]

[:ja]2018年4月29日(日) 14:00〜17:00 無料 FBでは申し込みできません。 質問の練習室を始めます。 相手と意見が違ったとき、言い争いになったり、不満をのみこんだり、付き合いをやめた経験はありますか。そのようなかかわり方をやめたい方、一緒に質問の練習をしませんか。 今回はオスカー・ブルニフィエの相互質問法の「ぼくたち、みんな平等?」を使って質問の練習をします。どのように質問をしたら、相手がそう考える理由を掘り当てられるか一緒に考えてみましょう。 お申込み:6名まで[:]

[:ja]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。 今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。 ・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選) ・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選) * まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。 * 今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。 今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。 プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。 とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。 挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。 ・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある ・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる など。 あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。 また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。 一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。 * コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。 まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。 もう一つ論点になったのが、この短篇の中心にある「写真に写ってしまった事態」は、小説中では曖昧に描かれていますが、実際のところ何を表しているのかということです。人身売買ではないかという見方や女性を通して誘惑しようとしている、または強制セックスワーク(強制売春)やレイプ(性暴力)が暗に示唆されているのではないかという意見もありました(Eさん)。またKaさんはこの短篇は語り手のミシェルがホモセクシュアリティに目覚める話だといえないだろうかという見方を提示してくれました。Nさんによれば、ラテンアメリカでは歴史的にマチスモの傾向が根強く、同性愛、特にホモセクシュアリティや男性がもつフェミニンさのようなものが社会的に認められにくい時代があったそうです。   次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。 とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。 他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。 * 今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。 第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。 読んでいただいてありがとうございました! (工藤杳) [:en]第2回目のLanguage Beyondは、2月4日(日)の夕方に開かれました。10名ほどの方があつまり、初参加の方も2人いらっしゃいました。中には、手紙で参加(ご本人のことばでは「文字で参加」)してくださった方もお一人。こういう参加の仕方もたいへん面白いなと個人的には感じました。 今回も2時間ほど時間をとって以下の2冊(3篇)についておしゃべりをしました。 ・プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』(Iさん選) ・コルタサル「悪魔の涎」「南部高速道路」(Nさん選) * まずは前回と同じく、アイスブレイクを兼ねて自己紹介と最近のできごと(気になっていることや読んだ本など……)についてのおしゃべりからスタートしました。仕事の話や携わっている研究の話、インドの話、趣味・興味の話など。中には、前回イスラエルの小説(『エルサレムの秋』)を読んだことと関連して、パレスチナの刺繍の展示に行かれたことを報告してくれた方(Eさん)もいらっしゃいました。Language Beyondのなかでみんなで読書をする経験を通して、文学で語られることがこのように現実の生活と結びつくこともできるわけです。あとのほうで、手紙で参加されたJさんがおっしゃるように、自分ひとりでは読むことはなかった作品と出会い、またそこから新しい興味がひらけるところに、このブッククラブを開催する意義があるようにおもいます。 * 今回はまずIさんが選んでくださった『ボリス・ゴドゥノフ』からスタートしました。Iさんは、大学院でロシア音楽を研究されています。 今回この作品を選んだのは、前回読んだ『天平の甍』と歴史物という観点から比較するとおもしろいかもということと、プーシキンの作品を紹介したいこと、それから『ボリス・ゴドゥノフ』のような作品に初めて触れてどう感じるかということに単純な興味を抱いたこと……などがあるそうです。 プーシキンは日本ではマイナーな存在ですが、ロシアでは彼を抜きにしてロシア語・ロシア文学を語ることはできないといいます。というのも、ロシア語そのものが彼の文章を手本に成立したようなものですし、いわゆるロシア文学の伝統もほとんど彼からスタートしたといっていいからです。 とはいえこの作品は、1825年、19世紀前半の作品で、しかも歴史物(、しかも劇詩)。前提知識がないと読み通すのもなかなか難しく、実際挫折してしまった人もいらっしゃったようです。そこで今回は、いわばIさんのロシア文学ゼミのような形でのブッククラブになったのかなとおもいます。それはそれでありだと感じました。回によって、選書を担当する方によって、形が変わるブッククラブ、おもしろいとおもいませんか。 挫折した方もいるなかで、なかなか話を運ぶのが難しかった面もありますが、それでもいくつかのトピックが出ました。例えばSさんは、いくつかメモしてきてくださいました。 ・国家vs民衆、宮中での権力闘争などのテーマは、普遍的、よくある話で、韓流ドラマなどとも似ている部分がある ・ゴドゥノフの罪の意識などの描写が、(ドストエフスキーなど)ロシア文学らしいと感じる など。 あとは、この劇に出てくる「民衆」がどういう人たちを指すのかという疑問(例えばこの時代の農奴たちは民衆と言えるのか)や、途中で出てくる「コサック」という人たちについての質問などがありました。 また最後にIさんから、「この作品の民衆の描きかたは現代に通じると思いませんか」という問いかけがありました。Iさんによれば、それは心地よいことばに懐柔され、熱狂して、行ってはいけない方向に突き進んでしまうけれども、熱が冷めてしまってから自分たちがしでかしてしまったことを振り返った時に、それがもたらした結果にゾッとしてしまうという……というような民衆の姿です。ファシズムの台頭や、近年のBrexitなどにそうした民衆イメージの一端を感じることもできるかもしれません。 一筋縄ではいかない本でしたが、それでも(それだけに)1時間ほどゆっくり話して、次の本に移りました。 * コルタサルはアルゼンチンの小説家で、奇想天外な短篇小説で知られています。今回読んだのは、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』から「悪魔の涎」と「南部高速道路」の2篇です。 まずは「悪魔の涎」からスタートしました。参加者のひとりによれば「『世にも奇妙な物語』のような」(Jさん)語り口の、奇妙な味わいの短篇です。最初に、選書を担当してくださったNさんから、コルタサルの紹介がありました。コルタサルは、小さいころから妄想のたくましい子どもだったようで、彼の作品はどれも妄想のパワー、奇妙さを感じさせてくれます。「悪魔の涎」は写真をメインのモチーフにした短篇で、写真を撮る主体の観点が解体していく様を描写することで、確固とした自分なんて存在しないということを表しているのではないかといった感想がありました。実際に冒頭部でこの物語を語り始めるにあたって、語り手は「ぼく」で語るのがいいのか、「きみ」「彼ら」で語るのがいいのか……など逡巡する様子が書き込まれています。この冒頭部に、小説を読むことの喜びを感じたという感想もありました(Fさん)。 もう一つ論点になったのが、この短篇の中心にある「写真に写ってしまった事態」は、小説中では曖昧に描かれていますが、実際のところ何を表しているのか、ということです。人身売買ではないか、とか、同性愛行為が含意されているのではないか、という見かたがありました。Kaさんは、もしこれが同性愛行為を暗示しているのだとすれば、この短篇は語り手のミシェルがホモセクシュアリティに目覚める話だといえないだろうかという見かたを提示してくれました。Nさんによれば、ラテンアメリカでは伝統的にマチスモがあり、同性愛、特にホモセクシュアリティや男性がもつフェミニンさのようなものを許容しない社会がながく続いていた/るそうです。「悪魔の涎」の舞台はパリですが、それと絡めて考えればコルタサル自身のセクシュアリティに関わる苦心を透かしてみることができるのかもしれません。 次に今回のブッククラブを通してファンがたくさんできた「南部高速道路」です。この作品の特徴の一つは、一度も人名が登場せず、しばしば車の名前で人が呼ばれるところです。Nさんはなんと、小説に出てくる車の写真をまとめたプリントを準備してきてくれました。わたし自身、この作品を読みながら、車に詳しい人なら別の楽しみ方ができるよな、と感じていたので、Nさんのプリントがとてもありがたかったです。 とにかくこの短篇は、わたし(工藤)が個人的に読みながらとても興奮してしまいました。ここに描かれているのは高速道路ですが、もしこれが東京の満員の通勤電車とかだったらどうでしょう? 私たちはこんなふうなコミュニティをつくることができるのでしょうか。つくれるのだとしたら、お互いにまったく無関心を決め込む私たちですが、その根のところにコミュニティの可能性が潜んでいるのかもしれません。わたし個人の関心として、「場をつくること」「会社と家以外の場所」ということを考えつづけているので、この短篇を自分の問題として受け止めることになりました。 他にNさんは、車が自然のものに喩えられている(例えば森、河……)ことについて朗読を交えて紹介してくれました。また他の方から、技師が裏の顔役なのではないか(技師は唯一機械のことをよく知っている存在であり、ソ連他共産主義国では特別扱いされる存在です。スターリンは「芸術家は魂の技師である」といいました)という見かた、食料のことは細かく描かれているのだがお風呂についてはわからない、どうしていたのだろうという素朴な疑問などがありました。最後に、時間の進みかたがこの物語を通じてゆっくりすすんだり、何ヶ月か一気に進んだりしていて、世界の進みかたがどうでもよくなってくる点について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想い出すという感想(Kuさん)もありした。 * 今回はなかなか一筋縄ではいかない、それだけにしっかりと本と向き合えるようなブッククラブになったと感じます。第2回目のレポートは、以上です。 第3回目は4月22日に開催予定です。読む本については改めてお知らせします。 読んでいただいてありがとうございました! (工藤杳) [:]

ブッククラブ「Language Beyond」第1回 レポート ブッククラブ「Language Beyond」の第1回は、12月9日(土)の16時30分から2時間にわたって行われました。今回は、11名の方が参加しました。 前回のオリエンテーションを兼ねた「ミーティング」(10月)では、このブッククラブの考え方や進め方を話し合ったのですが、そこで ・隔月(2ヶ月に1回)で開催する ・それぞれの回で2名の方に選書をお願いする ということが決まりました。 ということで、さっそく今回選書を担当してくださったのは、JさんとNさん。選んでいただいた本はこの二冊でした。 ・井上靖『天平の甍』(Jさん選) ・イェホシュア『エルサレムの秋』(Nさん選) Language Beyond、スタートです。 …… 初対面の方もいらっしゃいましたので、はじめに自己紹介を兼ねて近況(最近気になっていること、はまっていること、読んだ本など……)についてのおしゃべりから始めることにしました。ご自分の仕事、ブッククラブに興味をもった理由、最近はじめて挑戦したこと、読んでいる本、長年携わってきたこと、気をつけていること……様々なお話をきくことができました。参加されたみなさんの年齢層も(20代の方から50代くらいの方までだったでしょうか)幅があり、様々なバックボーンや興味、活動について知ることができたとおもいます。個人の伝手でブッククラブをするとなると、メンバーがどうしても同年代の人に偏りがちですが、今回のブッククラブはこの年齢層の多様さも一つの特徴で、「あなたの公-差-転」という場所ならではの場になったと感じました。 …… その後に、さっそく今回みんなで読んだ本をめぐるおしゃべりの時間に入りました。最初はJさんが選んだ井上靖の『天平の甍』を取り上げます。 Jさんは、井上靖のほかの本は特に読んではいないそうですが、この『天平の甍』を読んだ時に、文化を伝えることにかける人間の真剣さとか情熱といったところに深い感銘を受けたのだそうです。参加されたUさんによれば、ある年代までこの作品は教科書に掲載されたり、教師の推薦書であったそうで、かなり有名だということです。Eさんは、この本を英語版で読まれていました(英訳は東大出版会から出ていて、The Roof Tile of Tempyoという題です)。 当日話題に挙がったテーマの中で、個人的に面白く感じたのは以下の2つです。 ★留学生であることについて 当日、たまたま留学経験のある人がメンバーの中に数名いらっしゃったので、留学生の物語としての『天平の甍』という話題がありました。当時の日本から唐にわたった留学生たちは、現代の留学生にも通じる留学生の典型的なタイプを表しているのではないか、という話でした。例えば放浪に出るタイプの留学生としての戒融、現地で結婚して落ち着いてしまうタイプとしての玄朗、ひたすら勉強に勤しむ業行、などのタイプです。こういう意味でも現代に通じる小説だったのか!という点は、この小説への視線を新鮮なものにしてくれました。この視点は、ただ面白いだけでなく、思いがけなく深いところにつながりました。留学生は、文化の狭間にいる存在です。留学先で、どのようにオリジナリティを獲得していくかという論点は、いまも昔も変わらない普遍的な問題だと思います。簡単に言えば、「日本人であることを捨て、唐の文化に没入する」か「必要以上に日本人であることで、唐文化のなかに日本人として存在を確立する」か。留学先と母国との距離感、バランスの問題です。ここでは、異文化コミュニケーションにおけるアイデンティティの確立が問われています。井上靖は昭和の人ですから、唐の時代のことを書きながら、こうした点で現代的な視座を提供しているのではなかったでしょうか。 ★歴史小説の文体について Iさんが問題提起されたのは、この小説の文体の奇妙さということでした。Iさんはヨーロッパ、ロシアの小説に造詣が深く、そうした地域の歴史小説と比較して、『天平の甍』の文体が継ぎはぎだらけのように感じ、違和感を覚えたそうです。この違和感はどこから出てくるのか? Nさんは、地の文が漢文調、会話文は和文と、違う文体が共存していることを指摘します。Uさんは、この小説の文体が「海外ドキュメンタリーみたいだ」とおっしゃっていました。つまり、ナレーションと、登場人物の台詞とで文体のレベルが異なるのですが、違うものが一つの場所に合わさっていることからくる違和感だったのかもしれません。 他にもいろいろな話題が出つつ、40分ほどお話ができたと思います。 …… 次に、『エルサレムの秋』に話題が移りました。これはイスラエルの作家アブラハム・イェホシュア(Abraham Yehoshua)の日本語で読める唯一の本です。選書してくださったNさんは大学でアラビア語を勉強されていたのですが、日本であまり知られていないイスラエルの小説を知ってもらいたいという理由から今回この本を選んでくれました。また、訳者の母袋夏生(もたいなつう)さんの文体(漢字とかなの選択など)が好きなのだそうです。トランプの「エルサレムはイスラエルの首都」宣言がこのクラブの数日前にニュースになり、奇しくもアクチュアルな読書となったようです。 当日出た話題から、興味深かった論点を2つほど紹介します。 ★物語の「うすさ」 例えばUさんが指摘されていましたが、『天平の甍』と同時に読んだおかげで、「エルサレムの秋」の「うすい」感じが浮き彫りになったようです。この「うすさ」とは、どういうことでしょうか。 まず一つ、見た目の問題として、行間が広く、スカスカな印象を受けることがあります(Nさん)。体言止めが多用され、結果として歯切れのよい、読みやすい文章になっている。吉本ばななの文章を想い出すという感想もありました(Jさん)。淡々と日常を描きながら、しかしそこでは何かが起こっている、という点です。 二つ目に、主人公の「うすさ」が挙げられました。主人公はあらゆることに客観的で、あらゆることから距離があるようだ(Iさん)。子どもが家に来ても、友人とあっても、自分のことばかりで、真剣に人に向き合おうとしていないのではないか。「研究者」タイプの人の「浮き方」(Kさん)。地元で浮いてしまうこと。「まだ結婚しないの、子どもいないの」とか(Mさん)。「Three Days AND a Child」という原題が、主人公のこの距離間をうまく表している気がしたという感想もありました(Kさん)。withでなく、andであり、「3日間」と「子ども」、まるで物体が二つ並べられているようです。 三つ目として、「うすさ」とはちょっと違うのかもしれませんが、シンボルの街としてのエルサレム(90ページ)という舞台設定にも関係が深いかもしれません。Nさんによると、エルサレムは、歴史地区である旧市街と、イスラエルが建設した新市街とに別れていて、このお話は新市街を舞台にしているそうです。エルサレムのどこか現実離れした感じ。日常のすぐ隣に踏み越えられない境界線がある。あらゆる現実の挙措がメタファーになってしまう特殊な街、エルサレム。そこでは現実の感覚はある意味「うすく」、すぐに突き破って、歴史の層に沈潜してしまう……そんな感覚がありました。またEさんが、この物語はメタファー(暗喩)に満ちている、アレゴリーの物語ではないかと指摘されていました。聖書(ヤギ、3日間、創世記、アブラハム)を想起させるエピソードが随所にあること、また動物の名をもつ登場人物たちが登場することからです。 ★子どもを愛しているのか、愛していないのか 原題が「Three Days AND a Child」であり、withでないことについては、上で書きましたが、この題に特徴的に現れているのは、子どもの「異物」感ではないでしょうか。預けられる子どもは、主人公の男の部屋に突然侵入してきた他所者として描かれているようです。動物園で子どもを遊ばせる(放っておく?)シーンでは、子どもが塀から落ちて死ぬところを想像しさえします。 子どもの異物感。子どもへの殺意。Jさんは知人から聞いたことのある、ある言葉を想い出しました。その知人の方が子育てをしているときに、Jさんが「子どもってかわいいよねえ」と話しかけたところ、知人の方は「う~んかわいいだけではないね、時々殺してやりたいと思うこともある」と答え、Jさんはびっくりしてしまったそうです。 主人公は子どもを「それでもやっぱり愛している」のか「まったくの無感動」なのか。主人公は自分がやりたいことしかやっていないようにも見える。毒蛇を持った友人に対する態度もひどい。Jさんは「それでもやっぱり愛している」のではないかと言います。逆にIさんは人間としての感情を持っているとは思えない、と反応します。 さて、とはいえこのブッククラブは正解を求めることが目的ではありません。この議論を通して、なるほど捉え方ひとつでこうも違うものか、という点を知り、それぞれが自分の見方についてもう一度考える機会を持つことができたのではないか……とおもいました。 本が品切れ状態でもあり、またamazonの中古本在庫も値段が高騰してしまった(このブッククラブのせいでしょうか……)ために、本を入手することができない人もいましたが、そうした方も、実は会話を深めることに一役買ってくれていました。というのは、本を読まれていない方に対して、読み終わった人が説明しながらクラブを進めていくことで理解を深めることができますし、本を読まれていない方の質問は、テクストに対して少し距離がある抽象的なものであったり、そもそもの前提を問うものであったりするからです。こうした存在もブッククラブにとっては大変ありがたく、貴重なのだ、と気づけたことは面白かったです。 また、ブッククラブの終了後に、参加者の一人から以下のコメントがありました: 「このようにきちんとした読書会は初めてです。 2冊を読むこと、その選択等も工夫され、参加される方のバリエーションも広く、素晴らしいと思いました。 あと、その場で言い忘れた(すぐ思い出して言えば良かったと後悔した)ことなのですが、「エルサレムの秋」が書かれたのは、1970年だということでした。 この時期は、第3次中東戦争の直後です。 この戦争は、イスラエルの歴史的完勝ですが、実態は国連が定めたアラブ地帯を不法占拠したのです。 この占拠は、今も継続しています。 また、占拠地には東エルサレムも入っています。 イスラエルは完勝に浮かれていた時期ですが、それに批判的な眼を持って、あのように力ないストーリーが書かれたように思えます。 精いっぱいの抵抗だったのではないかと思えます。 」 …… 2冊の本を比較しながら読むことができたことで、テクスト同士の予想できない出会いを生み、ブッククラブではそれが面白い効果を生んでいました。あえて共通点を探すとすれば、「学者・研究者」が主人公の「宗教」を背景にした物語というところでしょうか(Fさん)。 参加してくださったみなさんのおかげで、当日は時に深く、時に楽しく、時間をかけて話を膨らませることができたのではないかな、と感じました。今回とてもよかったと個人的に感じたことはこんなことです。 ・一人ひとりがお互いの話にしっかりと耳を傾けていたこと。話を遮ったり、一人の人がしゃべり過ぎるようなことがなかったこと。(当たり前のように思われるかもしれませんが、これが結構難しいし、信頼の醸成という点で本質的なことだと思います) ・年齢層の多様さ。普段出会うことのない方々に会い、お互いの感じたことを交換できたこと。 ・知識を補いあいながら、話を深めていくことができたこと。 そして何より、 ・様々な人と同じ本を読み、会話をする楽しさを感じられたこと。 今回のブッククラブでは、年齢的な多様さに恵まれましたが、言語的な多様さがあっても、また別の意味で興味ふかいお話ができるのではないか、と思いました。 次回のブッククラブは、 ◆2月4日(日)の16時30分から 開催予定です。 今回も2人の方に選書をお願いしています。続報をお待ちください。 じっくりお話しをするには10名ほどがちょうど良い人数なのかな、とも感じましたが、新規メンバーも大歓迎です。試しに参加してみるだけでも、ぜひお気軽にご参加ください。 (工藤杳)

2017年7月16日(日) 14:00〜17:00 無料 自分の名前、気に入ってますか。例えばハンドルネーム、雅号、改名、商品名、新種の生き物の名前など、そのものと名前はどんな関係にある? 名づけられるもの、名づけられないものって? ものや集団、現象を名づけることの意味を考えます。 お申込み:8名まで

2017年5月21日(日) 14:00~17:00 無料 日本人が知らない○○、日本人のための○○、日本人は○○など、「日本人」をつけた言葉や本がたくさん溢れています。でも、それって本当? 全員が当てはまる? いつでもどこでもどんな状況でも? そもそも当てはまる人は存在するの?「日本人」とはフィクション? 設定? それとも…? 偏狭なナショナリズムや民族主義が広がりつつある今、「日本人」という言葉の曖昧性、「日本人」と括る意味について考えてみます。 申込み:6名まで 専用予約サイトはこちら  

2017年4月16日(日) 14:00〜17:00 無料 不安に実体はある? 不安は何から生まれてくる? 不安とは何? 不安の正体を探ります。 お申込み:8名まで。 専用予約サイト

人と人の関わりを対話するシリーズ2回目。「話が長い」と思うとき、そこで何が起きているのでしょうか。長いと感じる要因は何でしょう。相手との関係?話し方?内容?それとも自分の態度?話す目的や場所の違い? その構造を発見して実生活に応用したい。 ※テーマは、2017年2月9日、要町の藤香荘にてねりテツ斎藤氏の進行で対話したのと同じものです。   お申込み:8名まで。 要予約: https://coubic.com/kosaten/161756

人と人の関わりを対話するシリーズ1回目。イジメ、ホームレス殺害、障害者殺し。加害者は、自分とは違う遠い世界の人間でしょうか。人は成長する過程で社会のルールや価値観を身につけます。ということは、人を選別する気持ちは多かれ少なかれ、私たちの中にもあるのではないでしょうか。その気持ちが何から生まれてくるのか探究します。 追記:1月22日に貫井北センターで開催した「『選別』される社会」~相模原事件をとおして〈問い・語る〉哲学対話~において同じテーマで対話しました。テーマを変えず場所を変え、二度目をやることでどんな違いが出るか試してみます。 お申込み:10名まで。 専用予約サイト

話しづらいテーマを対話するシリーズ3回目は「宗教」について。人類は数万年前から埋葬をしていたと言われており、歴史が進むにつれ様々な宗教を生み、変化させてきました。現在キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教のほか多くの宗教が存在しています。無宗教と言いながらお墓を持ち、岩や大木などに畏敬の念を感じ、お天道様が見ていると思うことはありませんか。まったくないという人でも何か拠り所を持っているのではないでしょうか。人はどうしてそれを信じ、その信じるものとはいったい何なのでしょうか。その本質を探ります。 お申込み:10名まで。 専用予約サイト

2016年12月10日(土) 14:00-17:00 無料 話しづらいテーマを対話するシリーズ2回目は「人権」について。人権は人間が人間らしく生きる権利。生まれながらにして持っている当たり前の権利です。人種・信条・性別・社会的身分などに関わらず、個人の尊重、生命・自由そして幸福追求を認めています。技術の進歩や収入によってさらなる追求が可能になりながら、その反対に子どもの虐待、外国人の排斥、過労死などの問題があります。これからの社会で人権をどう考えたらよいでしょうか。 お申込み:10名まで。 専用予約サイト

2016.11.27(日) 14:00-17:00 日本は、ひとつの国際社会です。この国には220万人の日本以外の国籍を持つ人が暮らし、これからますます増えるでしょう。 しかし移民政策と人種差別の問題もあり、異文化理解とニューカマーの定住に関してさまざまな課題があります。1年間のリサーチプロジェクトとしてアート、人権、法律、生活、さまざまなレベルでこの問題を語り合います。外国出身の移住労働者、なんみん、移民、そして旅行者によって生まれるトランスローカルな文化が、私たちの所属や共通点の認識を再構成するにあたりどれほど不可欠であるか、どこまで実現できるか、さぐってみます。 ご興味がありましたら是非ご連絡ください。

2016.11.23(水・祝)  14:00-16:30 参加費: 1500円 [btnsx id=”845″] 水口 玲子さんによるアートセラピーのワークショップ 11/23(水・祝) 14:00〜16:30 【墨と戯れる〜White & Black〜】 冬が近づくにつれ自然界は、彩りからモノトーンの世界に向かいます。 日本の伝統的なモノトーンといえば、「墨」。 白と黒。シンプルだからこそ、静かな心の深みに触れる力があるのでしょう。墨と戯れながら、あなたは何をみるのでしょうか? 12/11(日) 14:00〜16:30 【2016年の実り】 今年一年を振り返るアートタイム。 あっという間のようで、365日を生きたあなたがそこにはいました。 自分にお疲れさま、やり残したことがある…色々な思いを大切に扱っていきます。 なお、「あなたの公−差−転」でのアートワークショップは、12月でひとまずお休みに入ります。 ご興味をお持ちの方、ぜひこの機会にお越しください。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー アートの上手・下手やアートセラピーの経験は全く問われません。また治療目的ではなくオープンなワークショップです。 ご自分のためのゆったりとした二時間半、どうぞお気軽にご予約下さい。 時間:14:00〜16:30 (受付は13:45から開始) *プロセスを体験して頂くため、最初から最後までのご参加をおすすめしています。 場所:あなたの公−差−転 杉並区善福寺4-1-1和田ビル4F 参加費:1500円(画材費・お茶とお菓子付き) 持ち物:作品持帰り袋(A4サイズ) お申込み方法:お名前とお電話番号をcontact@kosaten.orgまでお知らせください。(FBイベントページに「参加」になってもご連絡ください。) または専門予約サイトもご利用可能です: https://coubic.com/kosaten/377337 定員:各回10名 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 12/11(日) 17:00~18:00 【リピーター限定・特別イベント】 いつも参加くださったリピーターさんへ感謝を込めた「特別グループセッション」です。(参加無料) アートセラピーでは、ご自身のアートワークを連続した「心の表現」として振り返ることで、自己理解に役立てます。自分の変化やパターンを捉えることを目的とした1時間です。*今まで2回以上参加された方が対象です。これからの方も11月・12月どちらも参加して頂くと対象になります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【プロフィール】 水口 玲子 Reiko Mizuguchi ■内閣府所管(一財)生涯学習開発財団認定マスターアートワークセラピスト ■京都造形芸術大学 日本画コース卒業 ■CiiAT(Canadian International Institute of Art Therapy) Clinical Art Therapy Diploma(2017年3月修了見込) 2006年~アートセラピスト活動を開始。 個人セッションやワークショップ開催のほか、 障がい者更生施設、精神科病院<造形教室>サポート、高齢者医療施設の療養・入院病棟で活動。 【アートセラピーとは】 立体や平面などのアート表現を通して、心身の健康を目指す心理療法です。様々な年齢、様々な環境にある人に対応し、芸術の上手・下手は全く問われません。 そしてアートセラピストは、分析的判断をしません。体験者の中にすでに答えはあるという信頼のもと、内的成長と気付きのアシストをしていきます。 効果 : リフレッシュ、自己理解、自己肯定感、感情の発散と整理、トラウマケア、脳活性など

「mouth to mouth 50/50」 2016.11.27(日) 17:00-19:00 English is below グローバリズムや国際化社会への変化が起きている現在、「そこで通じる言葉」があなたのsurvival skillの1つになるはずです。 そんな中、「mouth to mouth」は日本語の習得を必要とする人と英語の習得を必要とする人が同じ場所に集まり、お互いの言語習得の手助けを行います。 「mouth to mouth」に参加して人と繋がり、コミュニケーションスキルを向上して頂ければ幸いです。 「mouth to mouth 50/50」の進め方 リラックスになる雰囲気で、お茶を飲んだり、おやつを食べたりしながら、カフェスタイルで英語・日本語を勉強していきます。 1.英語を勉強したい参加者は自分の好きな英語の記事を持参する。 2.日本語を勉強したい参加者も自分の好きな日本語の記事を持参する。 3.英語の記事を朗読してあげます。 4.日本語の記事を朗読してあげます。 5.読まれた記事に対しての感想とディスカッションを英語と日本語の混合でいます。 ご興味がある方はご連絡ください。 [btnsx id=”843″] mouth to mouth 50/50 27th November 2016 17:00-19:00 In a world of constant movement and travel, each of one of us has come from somewhere else. As we try to inhabit the new spaces around us a new language is also required as a survival skill. For those settling in Japan there is a need to learn Japanese. For those journeying elsewhere English is also a necessity. In this language exchange series we aim to support both directions of language learning in an informal atmosphere, participants wishing to learn English can bring along an English text, and those wishing to learn Japanese can bring along a Japanese text and we will all read together and try to figure out the…

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鉄のカーテンの時代の反社会的なソビエトアート #5 2016.11.24.thurs 19:30-21:00 参加費: 1000円 予約: [btnsx id=”828″] / contact@kosaten.org ロシアの近現代美術についての講義シリーズ。ロシアにも近現代美術の動きがありましたが、冷戦もあったせいか、あまりロシアの現代美術は他の国では知られていません。ことに日本ではその情報はほとんど手に入りません。この講義ではソビエト政権下で、どのような現代美術の運動があったのかを紹介します。 第5回目では非協調のアーチストの生活、仕事、個人の家の展示。 公式アートや地下の関係。1962スキャンダル後のイベント、または絵本とアニメで活動していたアーティストについて語ります。 講師: Nadia Kozulina ロシア出身。ロシアではグラフィックデザインとアートを学んでいました。グラフィクデザイナーとしての職務経歴があり、アート教室を設立し講師をしていたこともあります。イアマスIAMAS大学院での修士課程を受けれるために来日しました。イアマスを卒業し、現在東京に住んでいます。

日常の行為の中の身体#3 2016.11.19(土) 15:00-18:00 参加費:500円(カンパ制) [btnsx id=”840″] ゲスト:北山聖子 パフォーマンスアート・ワークショップ Performance Art Workshop with Seiko Kitayama 嫌なのに従う。好きなのにやめる。感覚よりも思考を優先し、身体を置き去りにしていませんか? パフォーマンスアーティストの北山聖子さんといっしょに自分の感覚を発見してみましょう。※自分が最近気になっているモノ(何でも良いです)を一つお持ち下さい。 ーーーーーー 表現したいものを見出してゆくこと、そのこと自体がアートです。意識したことのない日常の行為や、行動の中に潜む自分に出会ってみてはいかがでしょうか。 北山聖子

2016.11.12.sat 14:00-17:00 参加費: 500円(カンパ制) 予約: [btnsx id=”832″] / contact@kosten.org 非暴力コミュニケーション(NVC/共感的コミュニケーション)という手法を用いて、自分と相手を尊重する方法を学びます。今回のテーマは「対立から対話を生み出す方法」 相手を否定せず、肯定もせず、ありのままに受けとめるには? 自分を責めず、相手を攻撃せずに自身の思いを素直に伝えるには? 普段私たちが何気なく話している言葉の奥にある、本音を見つけるコツを学びます。

2016.11.5.sat 13:00-15:30 参加費:無料 予約:[btnsx id=”834″] / contact@kosaten.org 〈純粋に音楽が好きで聴き続けているというのもありますが、 音楽を求め続け、聴き続け、 自分にとって究極の音楽って何だろうと考えてしまう、その果てに何を求め、何があるのか。 公差転という場を借りて、 自分が好きだったり、 自分の人生に深い影響を与えた一曲かアルバム一枚を紹介し合い、 純粋に音楽について語り合える場をつくっていきませんか?〉 ※音楽のフォーマットについて 会場ではCDプレーヤー、mini-jackが付いているスピーカ(直接にスマホやipodが繋がれる)、パソコン+インターネット(youtubeなども再生できる)という機材が提供されています。

垣根を乗り越えるvol.2 「病と社会」 11月13日 14:00-17:00 会場: 信愛書店 杉並区西荻南2-24-15 (車椅子もアクセスできる会場) 参加費:500円(カンパ制) 予約:[btnsx id=”836″] / contact@kosaten.org ディスカッションとワークショップのイベント「垣根を乗り越える」。 「病気と健康」について考えた第一回に続き、今回のテーマは「病と社会」です。 病気や障害を持って社会と関わる時に、当事者と周囲の間にはしばしば、健康な時には生まれない垣根が生まれます。 症状への理解の仕方、対応の求め方など、病であるがゆえに立ちはだかるその垣根は、あなたにとってどんな形をしていますか? ツルツル?ギザギザ?高い?低い?? 今回のワークショップでは、参加者の皆さんに紙や布などの素材を用いて実際に、それぞれの「垣根」を制作して頂き、その必要性や乗り越え方について探ります。 話すのが苦手な方も、工作が苦手な方も、「むしろ大好き」という方も大歓迎! 多くの垣根を知る事で、あなたの心の垣根も変わって行くかもしれません。 当日の進行:Tokin(トキン) アーティスト、イラストレーター。 心理やメンタルヘルスをテーマにした絵の制作を行なっており、個展の開催、グループ展への参加の他、イベントへの出演も多数。 解離性障害、双極性障害と暮らす日常を描いたフリーペーパー「ゾンビ道場」を2012年より不定期発行中。 そのコミカルな表現が朝日新聞やテレビ東京にて取り上げられ、のちに「季刊・Be!」(アスク・ヒューマンケア発行)にて、マンガ「当事者研究室…ってほどじゃないけど!」を連載する事となる。 生きづらさや障害をテーマにしたライブイベント「カウンター達の朗読会」では、2人の詩人の朗読と共に、多様な素材とライブペインティングを用い、幻想的な空間を作り出す。 痛みと生きる現実と、無意識のファンタジーを繋ぐことがモットー。そこから見える世界は何色?

みんなのフェミニズム 今を生きるための有効なツール、フェミニズム 日程:11月6日 15:00-18:00 参加費: 500円 予約:[btnsx id=”838″] / contact@kosaten.org 「保育園落ちた。日本死ね。」 これは、女性が働くとき子育てを支える社会的サポートがないことへの嘆きです。そして、日本の制度が家事や育児を女性が担うことを前提としていることを示すものです。けれどここに利益が生まれそうと見えるや、新自由主義の触手が伸び、お安い仕事として、場合によっては外国人労働者の導入を促す力を生み出します。 次にこんなデータを紹介します。 ・共働き夫婦の一日の家事・育児分担時間 女性87%:男性15% ・ダブルケア 女性68%(17万人):男性32%(8万人) ・民間給与 女性は男性の53%(女性276万円:男性521万円) ・非正規雇用 女性70%:男性30% ・DV相談件数 女性98.2%:男性1.8% ・セクハラ被害体験 女性70.6% :男性8.6% ・ レイプ被害体験 女性6.5%:男性 公的調査がないので不明、恐らく数% ・国会議員 女性12.3%:男性87.3% ・裁判官 女性21%:男性79% ・弁護士 女性18.2%:男性71.8% ・上場企業役員 女性2.8%:男性97.2% ケアワークはほとんどを女性が担い、女性の給料は男性の半分ほど、男性からの暴力に遭い、社会の指導的立場はほとんどが男性が占めている。 こういう状況をどう考えたらよいでしょう。 フェミニズムはこうした問題に鋭く切り込む力を持っています。 今回のワークショップは、「もともと」のフェミニズムを学び、日常のなかのジェンダー意識、性別役割、性差別に気づき、ジェンダー支配から自由に生きてゆくビジョンを発見しようとするものです。 フェミニズムは、それまで、自然なこと、当たり前のこととして、日常に埋め込まれた男女の区別や性別役割、異性愛主義などが、構築された性差別であることを明らかにして、この数十年で、世界を大きく変えきました。そしてその影響は社会のあらゆる分野におよび、今なおとどまるところをしりません。 しかし、「フェミニズムってなんなの?」とたずねられたら、答えるのは意外とむずかしいのでは?また、特に日本では、「フェミって自分に都合悪いことをなんでも「女性差別だ」といって騒ぎたてるコワイ人たち」とか「男女平等はとりあえず実現したし、女性のほうが元気なのだから、フェミは、今はもう必要ないでしょ」といったイメージで見られます。 このイメージは誤りです。 フェミニズムの核心にある展望は、強い者が弱い者を攻撃し、支配し、暴力、差別、搾取などで苦しめることが社会を、それとは違う、人々が自由で平等に安全につながり支え合える社会に変えてゆくこと。 今日、めざましい女性やLGBTsの社会進出を見てもわかるとおり、フェミニズムやLGBTsの草の根運動、さらには社会構造の変化などが、長く続いてきたジェンダー支配にひびを入れ、崩壊を導きつつあります。それに代わる社会のビジョンを提示するフェミニズムは、この時代を生きてゆくもっとも有効で確実なツール。 女性同士が自分たちの「生きづらさ」語り合うことから始まったフェミニズムは、今やLGBTsや特権やマッチョな戦いから離れる男性など迎え入れ、あらゆる多様な性の生きやすい公正な社会をめざす豊かな運動になっています。 このワークショップでは、フェミニズムの基本的な思想、歴史を学びつつ、ロールプレイなどを通してフェミの視点で、ごく日常的なできごとをバーチャル体験してゆきます。 フェミニズムの魅力をいっしょに味わいましょう。 ワークショップファシリテーター: 辻 雄作 LGBTs&ジェンダー平等のためのコンサル&プランナー/サバイバーズ・ジャスティス主宰

2016年11月20日(日) 14:00-17:00 無料 互いの価値観の違いが明らかになっていくなかで、自分を見失わず、相手と対等に対話することはできるでしょうか。話しづらいテーマを対話する3回シリーズの1回目は生きる価値について。出生前診断、ホームレスの排除、障害者殺し、自殺、安楽死、いじめなど、人が人を選別し、時には命を絶つことがあります。生きる価値を決めるのは誰なのでしょう。生きる価値とは何? 生きる価値がないってどういうこと? お申込み: 10名まで。 専用予約サイト  [btnsx id=”830″] メール→sano★rajoe.com(★をアットマークに)

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